姫川病院
新潟県糸魚川市大野、大糸線姫川駅前の国道148号線沿いに、1987年に開業した旧姫川病院の建物が残る。医療過疎地域の解消を目的に地元の有志が医療生活協同組合を設立し、住民が組合債を購入する形で誕生した病院で、ピーク時には常勤医15人体制、一日約200人の外来患者を受け入れる中核医療機関だった。しかし診療報酬の切り下げに加え、2004年の臨床研修制度導入で研修医が都市部の病院に流出したことが打撃とな
廃病院・廃校・廃工場は、人の営みが途絶えた瞬間の空気を凍結したまま朽ちていく場である。閉鎖の理由となった事故・経営破綻・集団的記憶の挫折が、剥落した壁や錆びた寝台に染みつき、訪れる者の足音だけがかつての日常をなぞる。
全国 125 件
新潟県糸魚川市大野、大糸線姫川駅前の国道148号線沿いに、1987年に開業した旧姫川病院の建物が残る。医療過疎地域の解消を目的に地元の有志が医療生活協同組合を設立し、住民が組合債を購入する形で誕生した病院で、ピーク時には常勤医15人体制、一日約200人の外来患者を受け入れる中核医療機関だった。しかし診療報酬の切り下げに加え、2004年の臨床研修制度導入で研修医が都市部の病院に流出したことが打撃とな
新潟市西蒲区の角田浜近く、越後七浦シーサイドライン沿いから山側に入った場所に、鉄筋コンクリート造二階建ての廃屋が残っている。外壁が白いことから「ホワイトハウス」と通称され、建設時期は定かでないものの、1970年代には既にこの建物が存在していたことが確認されている。もともとの用途についても一般住宅、店舗、別荘など複数の説があり、確定した記録は残っていない。心霊スポットとして知られるようになったのは2
群馬県邑楽郡邑楽町篠塚、東武小泉線の東小泉駅と篠塚駅の間に位置していた平屋建ての廃屋。全面がガラス張りという特異な外観からこの名で呼ばれ、建物内にはアップライトピアノが一台だけ残っていたことでも知られる。元は商業施設として使われていたとみられるが、正確な用途や廃業の経緯は明らかになっていない。2010年前後には既にガラスの大半が破損し、廃墟として複数の記録サイトに取り上げられるようになった。噂とし
熊ノ平駅は、群馬県安中市松井田町坂本、碓氷峠を通っていた旧信越本線に設けられた駅で、現在は遊歩道「アプトの道」沿いに廃駅として残る。1893年に信号場として開設され、1906年に駅へ昇格したが、1966年に信号場へ格下げされ、1997年に廃止された。この場所では過去に二つの大きな事故が起きている。1918年には勾配上で逆走した貨物列車が構内の岩壁に衝突する脱線事故が発生し、乗務員ら4人が死亡した。
栃木県下都賀郡野木町にある旧野木病院は、1985年に診療所「野木厚生クリニック」として開業し、子どもや高齢者の心の病を中心に診療していたとされる。開業から十数年ほどで閉院したという説が広く伝わっているが、閉院の時期や診療科の実態については資料によって差異があり、確定的な記録は確認できていない。廃業後、建物を会員制の老人ホームへ改装する計画が進められたものの、工事は途中で中断され、事業を手がけた企業
秋田県湯沢市の山中にある院内銀山跡は、江戸初期の1606年に発見され、幕府や秋田藩の財政を支えた日本最大級の銀山である。明治期には古河財閥の経営下で東洋一とも称される産銀量を記録し、最盛期には人口1万5千人を超える鉱山町が形成された。しかし明治末期の1906年、坑道内で発生した火災により、唯一の避難路であった坑口が閉ざされ、逃げ遅れた鉱夫100名余りが犠牲となる事故が起きている。その後も落石や鉱毒
釜石鉱山は、享保12年(1727年)に仙人峠付近で磁鉄鉱が発見されたことに始まり、安政4年(1857年)には日本で初めて洋式高炉による出銑に成功し、近代製鉄発祥の地として知られる。最盛期には数千人が働き、平成5年(1993年)まで大規模な採掘が続けられた(現在も小規模な採掘は継続)。閉山後は施設の大半が撤去され、選鉱場の巨大なコンクリート構造物や旧事務所、坑道跡が残る産業遺産として保存・公開されて
青森県八戸市の山中に、かつて精神科病院の附属施設として建てられた療養施設の跡地がある。昭和39年、病院の初代院長が薬物治療に頼らない開放療法を掲げ、作業療法や芸術療法、舞踏療法を通じて入院患者の社会復帰を目指す場として開設した。施設には木造の作業棟やブロック造りの浴場、三角屋根の教会状の建物が並び、療法の一環で患者たちが制作した石像や彫刻が林の中に点在していた。運営は平成初期頃までに終了したとみら
青森県弘前市百沢、岩木山山麓に位置する廃墟。厳鬼山源泉を利用した温泉宿泊施設として1985年前後に開業し、当初は「熊のやかた」の名で知られ、大浴場や大広間を備え歌謡ショーなどの催しも行われていたという。1990年代後半には経営難により閉業し、その後医療関連法人による事業再生も試みられたが定着せず、「スペース21」の名を残したまま建物は放置されるに至った。経営難の末に当時の経営者が死亡したとの噂が広
三瀬川小学校は明治12年(1879年)に開校し、昭和63年(1988年)3月に周北小学校へ統合される形で廃校となった、旧周東町(現・岩国市)山間部の木造校舎である。県道から一段高い山中の集落を見下ろす場所に立地し、コの字型に廊下が延びる校舎には教室や講堂の設備がそのまま残され、開校百周年を記念する碑も校庭に建てられていた。廃校後は一時期、日本語学校として利用されたと伝わるが、その後は放置状態となり
常盤公園内にあった宇部市青年の家は、1962年に青少年向けの宿泊研修施設として開設された。子ども会や学校の遠足、集団宿泊研修などで長く利用されてきたが、利用者数の減少と施設の老朽化により2012年に閉所し、以後は使用されずに放置されている。閉所後、建物周辺には樹木や雑草が生い茂り、廃墟としての外観を強めている。インターネット上の複数の心霊系サイトでは、遠足で訪れた児童が首をつった遺体を発見した、あ
山口県光市立野、県道23号線光上関線から森へ入った一帯に、住宅数軒分の廃屋が並ぶ一帯がある。地元では、バブル期に十棟規模の住宅展示場として計画されたが、建設を担った会社が倒産し、完成したのは六~七棟にとどまったと伝えられる。うち二軒は実際に売却されて短期間住人がいたものの、立地や周辺環境の悪さから早々に退去したという。以後は放置されたまま風化が進み、複数回の不審火で焼失した建物もあり、2010年代