一本松交差点
一本松交差点は神奈川県愛甲郡愛川町中津、中津川に近い県道沿いに位置する交差点である。周辺の中津台地は昭和16年(1941年)に熊谷陸軍飛行学校相模分教所として飛行場が整備された地域で、当初は操縦訓練用の練習機による操縦者養成に使われ、戦況の悪化とともに戦闘機の訓練にも転用された。終戦間際には特攻機がこの地から出撃した記録も残る。飛行場は終戦後に農地へ戻り、1966年に内陸工業団地として造成され、現
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事故多発地点や行き止まりの路地は、近代以降の急死が集積する新しい怪異の温床である。古くは首塚・処刑場・辻斬りの場として血を吸った土地が、舗装の下で記憶を失わぬまま残り、車のライトが横切る一瞬に、見えぬ何かを照らし出す。
全国 43 件
一本松交差点は神奈川県愛甲郡愛川町中津、中津川に近い県道沿いに位置する交差点である。周辺の中津台地は昭和16年(1941年)に熊谷陸軍飛行学校相模分教所として飛行場が整備された地域で、当初は操縦訓練用の練習機による操縦者養成に使われ、戦況の悪化とともに戦闘機の訓練にも転用された。終戦間際には特攻機がこの地から出撃した記録も残る。飛行場は終戦後に農地へ戻り、1966年に内陸工業団地として造成され、現
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千葉県柏市、国道6号と国道16号が立体交差する呼塚交差点は、日本損害保険協会の事故多発交差点マップに毎年名を連ね、2012年版ではワースト1位、2017年版でもワースト4位に選ばれた地点である。周囲の見通しの悪さと慢性的な渋滞が事故要因として指摘されている。地名「呼塚」は、かつて小金牧で放牧されていた馬を若者が呼び集めたという伝説や、名馬を葬った塚に由来するとされる。この交差点をめぐっては、白い服
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江戸時代、現在の富津市周辺は飯野藩によって治められており、この一帯には藩の処刑場があったと伝えられている。地元では長らくこの場所を「切られ場」と呼んでいたとされ、1915年頃に内房線の鉄道が開通し踏切が設けられた際、その名がそのまま踏切名として採用されたという説が広まっている。ただし、処刑場の存在を裏付ける正式な記録や文書は見つかっておらず、富津市教育委員会の担当者からも刑場があったという情報は得
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品川区南品川五丁目、大井町駅の近くにある坂道。ゼームス坂と仙台坂に挟まれた狭い道で、途中でクランク状に折れ曲がっており見通しが悪い。坂の全長は80メートルほどで、上からも下からも途中の曲がり角までしか見通せない構造になっている。品川区の公式資料によれば、かつて坂の両側に大きな木々が生い茂り、昼間でも薄暗く、夜間は人通りが絶えて寂しい場所だったことから「ゆうれい坂」の名がついたとされる。負の響きを避
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野方第3号踏切は、東京都中野区の西武新宿線野方駅近くに位置する踏切である。この踏切を含む野方駅と都立家政駅の間の区間は、開かずの踏切として知られる一方、人身事故が繰り返し発生する区間としても知られ、実際に列車と人が衝突する事故が複数回報道されている。西武新宿線ではこの区間を含む野方駅~井荻駅間について、踏切を解消するための連続立体交差事業の実施が計画されており、事業化に向けた準備が進められている。
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東京都港区三田四丁目、聖坂と交差する坂道が「幽霊坂」と呼ばれている。寛永十二年(一六三五年)の江戸城拡張に伴い八丁堀から移された寺院群が坂の両側に並び、玉鳳寺や仙翁寺、随応寺、忍願寺などが今も沿道に残る、通称「三田寺町」の一角である。坂名は、昼間でも幽霊が出そうなほど暗く寂しい場所だったことに由来するとされ、字面を避けて「有礼坂」と表記された記録もある。関東大震災や東京大空襲の被害を免れたため、寺
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大町地下歩道は、富山市大町の南富山駅前で幹線道路の下をくぐる地下通路として設けられた。2002年に発行された北陸・甲信越地方の心霊スポットを紹介する書籍「怨念地図」で取り上げられたことを契機に、県内で知られる心霊スポットの一つに数えられるようになった。言い伝えでは、この地下道でかつて焼身自殺があったとされ、以降その苦しみが今も残っているかのような現象が伝えられている。具体的には、通路内で低く呻くよ
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武庫川東踏切は、JR神戸線(東海道本線)が武庫川を渡る鉄橋の東側、立花駅と甲子園口駅の間に位置する踏切である。周辺は立体交差化が進んだ区間で、この踏切だけが平面のまま残っており、新快速や快速電車が高速で通過する複々線となっている。踏切内での人身事故が繰り返し記録されてきたことから、いつしか「三途の川踏切」と呼ばれるようになった。事故を減らす目的で、平成18年(2006年)頃から心を落ち着かせる効果
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鎌倉市営墓地・鎌倉霊園の正門である太刀洗門の前には、以前バス停脇に電話ボックスが設置されていた。この電話ボックスに白い服を着た長い髪の女性が立っているという噂が数十年前から伝わり、テレビの心霊番組で紹介されたことをきっかけに広く知られるようになったとされる。目撃談としては、通行人が通り過ぎて振り返ると女性の姿が消えていた、電話ボックスの周囲に黒い影のようなものが漂う、撮影した写真に白い顔が写り込む
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戦後の電力危機を背景に、天竜川沿いに1954年から1958年にかけて建設されたコンクリート重力式ダムである秋葉ダム。堤高89メートル、上流の佐久間ダムから流れ落ちる水を調整し、三つの発電所で最大128万キロワット近い電力を生み出す多目的ダムだ。しかし、その完成の陰には多くの犠牲者がいた。 1955年2月4日、第一発電所の建設現場で発破作業のミスが起きた。装填されたダイナマイト約2トンが誘爆し、瞬
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横網町公園の前身は、1919年に赤羽へ移転した旧陸軍被服廠の跡地です。1923年9月1日の関東大震災で周辺住民が家財を持ち出し、この空き地に避難してきましたが、南から西へと風向きを変えた火災が巨大な炎の竜巻を形成し、この場所だけで約3万8千人が一度に命を失いました。1930年、その地に「震災記念堂」が完成。太平洋戦争後、東京大空襲の犠牲者の遺骨もここに納められ、1951年に「東京都慰霊堂」と改称さ
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富士山東麓に広がる御殿場市の裾野は、1896年から帝国陸軍による演習が始まり、1912年に「富士裾野演習場」として正式に開設された。火山灰土で農業に不適な原野は、むしろ広大で険しい地形が訓練に適し、滝ヶ原、板妻に廠舎が置かれ、多くの兵士が厳しい気象条件下で日々の訓練を重ねた。戦前戦中を通じ、この地で訓練に従事した兵士の一部は戦地に赴き、そうした歴史を背景に、地域には慰霊碑や供養塔が点在する。戦後、
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