あてら集落(阿寺集落)
新潟県十日町市小原、信濃川本流に設けられた宮中取水ダムのそばに、かつて「あてら(阿寺)」と呼ばれた集落があったとされる。ダムへ向かう国道353号線沿いのトンネル(通称・鷲ノ巣トンネル)を抜けた先に位置し、茅葺き屋根の家屋が立ち並ぶ廃村として紹介されてきた。宮中取水ダムは信濃川の電源開発を目的として1920年に着工し、18年をかけて1938年に完成した重力式コンクリートダムで、現在もJR東日本の信濃
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離村・廃村は、共同体の記憶が誰にも継承されぬまま凍りついた沈黙の地である。過疎、ダム建設、災害による強制移転が住人を奪い、神社や墓のみが残された山中で、祭祀を失った土地神が行き場を求めてさまよっていると語られてきた。
全国 8 件
新潟県十日町市小原、信濃川本流に設けられた宮中取水ダムのそばに、かつて「あてら(阿寺)」と呼ばれた集落があったとされる。ダムへ向かう国道353号線沿いのトンネル(通称・鷲ノ巣トンネル)を抜けた先に位置し、茅葺き屋根の家屋が立ち並ぶ廃村として紹介されてきた。宮中取水ダムは信濃川の電源開発を目的として1920年に着工し、18年をかけて1938年に完成した重力式コンクリートダムで、現在もJR東日本の信濃
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青森市大字小畑沢字小杉の一帯は、通称「杉沢村」として知られる。伝説では昭和初期、この山中の村で一人の村人が突然発狂し、斧で村民全員を殺害したのち自らも命を絶ったとされ、村の入り口には鳥居と石碑があり、集落内には血のついた廃屋が残るといった具体的な描写が伴う。事件後、村は隣接地域に統合されて地図や行政文書から抹消され、廃村になったとされる。この噂は1995年の学術報告書に最古の記録が確認され、199
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岡山県津山市加茂町行重にある貝尾・坂元集落は、1938年(昭和13年)に発生した津山三十人殺しの現場として知られる。当時21歳の青年が、改造した猟銃や日本刀、斧などを用いて未明に集落の民家11軒を襲い、短時間で28人が死亡、その後の死亡者を含め30人が犠牲となった惨劇は、後に小説『八つ墓村』の題材にもなった。犯人は犯行後に自らの命を絶ち、事件は被疑者死亡のまま処理された。裏山には同じ日付が刻まれた
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宮崎県西都市の山間部、三財川北岸の斜面に位置する寒川集落は、慶長2年(1597年)創建と伝わる寒川天神社の存在から、江戸時代以前より人が住んでいたとされる約400年の歴史を持つ山村だった。かつては林業を基盤に200人を超える住民が暮らしていたが、1960年代以降の林業衰退と高齢化により人口は減少を続け、1978年には集落の小中学校が閉校した。1986年、住民が市に集団移転を陳情し、1989年3月、
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神奈川県横須賀市の田浦地区、国道16号沿いから西側に入った丘陵地に、住宅開発の途中で放棄された集落跡がある。1999年、この土地では大規模な戸建て住宅地「湘南田浦ニュータウン」の開発許可が下り、既存の住民は立ち退きに応じたものの、事業者側の事情で工事は着工されず計画は頓挫した。住民が去った後も家財道具や生活用品が置き去りにされた住宅が二十軒以上残り、長年にわたって手つかずのまま放置され、次第に廃墟
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江戸時代後期の1859年横浜港開港により生糸輸出が開始されると、上田市の養蚕業は急速に拡大した。明治初期には長野県全体の生糸生産量の約半分を上田が占めるまでになり、製糸業と養蚕業の二重構造で地域経済を支えた。農家の建屋は二階部分が蚕室に改造され、蚕の飼育と糸取りが行われた。明治から昭和初期にかけて、この山間部の集落は急速に現金化される産業に依存するようになった。 一次産業から機械化された製糸工場
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愛媛県松山市郊外の丘陵には、明治から大正期にかけてカトリック聖ドミニコ修道会による宣教活動の一環として建設された西洋建築の遺構が存在するとされる。1904年に四国はドミニコ修道会ロザリオ管区の宣教地となり、1911年には松山市内に聖堂と司祭館が建築された。修道院跡は瓦屋根の日本的景観の中で異質な存在として地元に記憶されており、昭和初期の閉鎖以来、建物の荒廃が進んできた。 訪問者の中には、建物周辺
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1938年5月21日未明、岡山県北部の加茂地域に属する貝尾集落で、わずか90分足らずの間に30人の命が奪われた。時は昭和初期。農村社会の厳密な人間関係が支配する時代のこと。 犯人は当時21歳の都井睦雄。幼少期に両親と祖父を相次いで結核で失い、家系の病によって村の中で烙印を押された。成績は優秀だったが、思春期には同年代との接触を避けるようになっていた。20代手前で肺結核に罹患した彼は、軍事検査で不
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