三重県の心霊スポット

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伊勢神宮を擁する三重県は、二千年の祈りと熊野の修験が交わる日本最古の聖地である。御杖を伝う伊勢の杜の深い静寂と裏腹に、自殺の名所として語られる青山高原の風車群、お伊勢参りの難所に穿たれた旧鬼ヶ城トンネル、熊野古道の苔むした石畳——天照大神を祀る神聖な気配と、参詣道に倒れた巡礼者たちの無念が、伊勢志摩の海風の中で今も静かに同居している。

人気スポット TOP10

青山高原
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青山高原

三重県津市と伊賀市にまたがる青山高原(あおやまこうげん)は、標高756メートルの髻山(もっこさん)を主峰とする台地状の丘陵地である。布引山地と呼ばれる山並みの一部で、伊勢湾から琵琶湖、関西アルプスまでを一望できる眺望から、近畿圏の隠れた絶景ポイントとして知られてきた。 青山高原が広く名を知られるようになったのは、2003年(平成15年)以降、大規模な風力発電施設「青山高原ウインドファーム」の整備が進んで以降のことである。シーテック(中部電力グループ)と津市・伊賀市の協働事業で、初期20基から段階的に拡張され、最終的に総数89基、総出力15万キロワットに到達した。 1基あたりの定格出力1,500キロワットの大型風車を尾根筋に並列配置するこの規模は、日本国内の風力発電所として最大級である。風車のブレード長(羽根の長さ)は約40メートル、地上から羽根先端までの最大高度は約100メートルに達する。台地から伊勢湾までの広い眺望と、規則的に並ぶ風車群の景観が、独特の観光資源となった。 土木史・電力史の文脈では、青山高原の事業は日本の再生可能エネルギー導入期の象徴的プロジェクトとして位置づけられる。1990年代の電力自由化以前に始まった国内最大級の風力発電構想で、地域協議会、環境影響評価、地権者調整、送電網接続など、現在の再エネ事業のひな型となるプロセスが先行的に経験された。 台地一帯はハイキング、ドライブ、サイクリングの目的地として親しまれており、青山高原ハイキングコース、髻山展望台、青山高原保健休養地などが整備されている。風車の真下まで自動車で接近できるエリアもあり、観光案内サイトでは推奨ドライブルートが紹介されている。 伊勢湾と志摩半島、紀伊半島の山並み、晴天時には南アルプスや富士山まで視認できる眺望点があり、写真撮影と日の出・日の入り観賞のスポットとしても知られる。風車のブレードによる安全管理上、ハイキングコースは指定されたルート以外への立ち入りが制限されている。

津市
旧鬼ヶ城トンネル
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旧鬼ヶ城トンネル

三重県熊野市木本町の海岸線に、鬼ヶ城という景勝地がある。荒波と風雨が長い時間をかけて削り上げた海食洞窟と海食崖が連続する、独特の地形が観光名所として知られる。国の名勝及び天然記念物に指定され、また「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部として2004年に世界文化遺産にも登録されている。 鬼ヶ城の名は、平安初期の伝承に由来する。熊野灘を荒らした海賊「多娥丸(たがまる)」を、坂上田村麻呂が朝廷の命で討伐した、という説話が地元に伝わる。鬼を退治して住民を守ったという伝承が、岬の名前の由来となった。坂上田村麻呂は実在の人物で、平安初期に蝦夷征討で活躍した武人だが、熊野での鬼退治伝承は説話文学の領域に属する。 鬼ヶ城の海岸線は、長く陸上交通の難所だった。熊野街道はこの一帯では岩山を回り込むか、岬を貫くトンネルを掘るしかない地形である。1959年(昭和34年)、国道311号の前身となる県道のルートとして、鬼ヶ城を貫通するトンネルが開削された。これが旧鬼ヶ城トンネルである。延長は短く、両坑門は装飾性の少ないコンクリート造である。 旧道のトンネルは、新道整備に伴って役目を終え、現在は熊野市の遊歩道の一部として活用されている。海岸線の景勝地・鬼ヶ城へのアプローチコースの途中にあり、徒歩で通過可能。内部は照明が設置されているが、湿気と波しぶきによる結露が床面に水たまりを作るため、注意が必要。 世界遺産登録後、鬼ヶ城周辺の遊歩道は熊野市と三重県によって順次整備が進んだ。鬼ヶ城センター(観光案内所兼物産販売施設)が登山口にあり、地元の漁師町の風景と熊野古道の文化を併せて楽しめる。 波の状況によっては、海食洞窟側の遊歩道に高波が直接当たる場合があり、強風時・荒天時は一部区間が立入禁止になる。訪問前には熊野市の観光協会公式サイトで安全情報の確認が推奨される。

熊野市
矢ノ川峠
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矢ノ川峠

三重県尾鷲市と熊野市を隔てる標高800m級の難所・矢ノ川峠(やのことうげ)。かつての国道42号はこの峠を九十九折で越えており、急峻な地形と濃い霧、たびたびの転落事故で知られた。1968年(昭和43年)に矢ノ川トンネルを含む新道へ切り替えられた後、峠の旧道と古いトンネルは打ち捨てられ、廃道・廃隧道として、また紀伊半島を代表する心霊スポットとして語られるようになった。 旧道や廃隧道では、霧の中に人影が立っていた、誰もいないトンネルの奥から足音が近づいてきた、谷側から転落事故を思わせる音や声を聞いたといった体験談が語り継がれている。実際に路線バスの転落事故が起きた峠であり、その記憶が怪異の語りと分かちがたく結びついている。 地元では、峠で命を落とした人々への供養が続けられ、旧道沿いには慰霊の碑や祠も残る。 旧道は崩落や落石が進み、廃隧道内は照明もなく崩壊の危険がある。携帯電話の圏外区間も多く、単独・夜間の立ち入りは遭難に直結する。訪れる際は日中に限り、装備を整え、廃墟を荒らさず、峠で亡くなった人々への敬意をもって行動すること。

尾鷲市
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旧伊勢廃製塩場跡

三重県伊勢市の海岸部に現存する旧製塩場の遺構。伊勢神宮に奉献される御塩の製造に関わった施設の跡地と考えられている。御塩の製造は倭姫命が内宮御鎮座時代に二見浦で定めたとされ、塩・米・水は古来より天照大御神への重要な神饌とされてきた。御塩殿神社は現在も五十鈴川河口で入浜式塩田による製塩を続けており、7月の塩を採取する作業から3月の焼き固めまで、伝統的な手法で塩が製造されている。 廃塩場跡の周辺は潮風が強く、塩分による風化が進んでいるほか、満潮時の冠水が地盤を不安定にしている。遺構自体は公開されていない私有地であり、伊勢神宮関連の文化財でもあるため一般の立ち入りは許可されていない。ネット上では、この場所を訪れた際に身体の重感や方向感覚の喪失を経験したとする報告が散見されるが、濃霧時の視界の悪さ、塩分による高周波音、不安定な足場からくる心理状態の変化などの物理的要因が考えられる。

伊勢市·8 views
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多気町旧伊勢街道の旅人霊

三重県多気町を通る旧伊勢街道は、江戸時代から昭和中期まで伊勢神宮へ向かう参拝客が絶え間なく往来した土地である。東海道に次ぐ交通量を誇った伊勢街道は、大和と伊勢を結ぶ最短ルートとして機能し、時には数百万人規模の参拝者が行き交った。多気町はこの街道が伊勢本街道、わかやま別街道、熊野街道と交差する交通の要地であり、宮川流域の田園と里山に囲まれた中継地点として発展した。 街道沿いには、旅路の途中で病や疲労により倒れた無縁の旅人を弔う供養塔や馬頭観音、辻の地蔵が今も点在している。これらの石造物は単なる遺跡ではなく、江戸期以来、地元住民による季節ごとの花や水の供え、地蔵盆の灯明といった信仰慣行の対象として受け継がれてきた。長距離旅程は病や悪天候、疲労と隣り合わせであり、杉並木の暗がりと閉塞した竹林の中で、かつての旅人の足跡と現在の静寂の落差が、夜間の心理的不安定性を増幅させる環境が形作られている。

多気町·7 views
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亀山の巨石群

三重県亀山市の山間部に分布する自然石の景観は、鈴鹿山脈東部の地質環境を反映したものである。亀山地域の地層は東海層群を基盤とし、風化と地質運動の作用により、斜面に大小の岩塊が露出した状況が形成されている。こうした岩石景観は、地質学的には自然成因が指摘される一方で、その配置や規模から古代の人間活動との関わりを想定する地域的な解釈も存在する。 亀山七座に属する仙ヶ岳の「仙の石」、高畑山の「鏡石」、臼杵ヶ岳の「うす岩」「きね岩」といった個別の岩塊は、いずれも登山者や地元の人々に認識される地形上の目印となってきた。これらの岩石群は、亀山市の古代から現代に至る信仰の対象や空間認識と結びついている。亀山市域では縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が確認されており、大鼻遺跡などの縄文遺跡の存在は、この地域が長期にわたり人間の活動の場であったことを示している。岩塊の隙間を通る風や、岩肌の微妙な変化は、こうした歴史的記憶と現在の知覚が交差する場を形成している。

亀山市·6 views
7

御在所岳(斜面の廃ロープウェイ小屋)

標高1,212mの御在所岳は鈴鹿山脈の主峰で、1959年にロープウェイが開業して以降、観光地として整備されてきた。しかし山中の急峻な斜面には、運用を終えた旧施設の廃墟が点在しており、特に花崗岩質の鋭い地形が集中する三重県側では滑落事故が相次いでいる。警察記録によれば、鎖場での転倒や岩場での滑落による遭難が複数報告されている。旧ロープウェイ関連の廃屋周辺は、整備されていない険しい迂回路となっており、登山者や遭難者の遺体発見地点となった事例も存在する。こうした歴史的痕跡と実際の危険性が相まって、廃施設周辺に対する畏怖の念が形成されている。

三重郡菰野町·5 views
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名張市旧伊賀の忍者屋敷廃墟

三重県名張市を含む伊賀地域は、鎌倉から室町時代にかけて地域の自治勢力が群雄割拠する中で、民間人が自衛の技術としてゲリラ戦法を磨いた土地である。このような環境の中から伊賀流忍術が形成された。戦国時代には、伊賀の忍者は戦国大名に傭兵として従軍し、記録に登場するようになる。 名張市の山中には、かつての屋敷跡や遺構が点在している。名張藤堂家邸跡など、地域の歴史を示す施設が残存する一方で、人口流出と時間経過により、山間部の一部の屋敷は廃墟化している。赤目四十八滝の麓は、伊賀流忍者の祖とされる百地丹波も修行の地とした場所であり、修練に適した山岳環境が歴史と一体となっている。 現在、伊賀地域の忍術文化は忍者博物館や公開施設を通じて継承されており、地域としての文化遺産の保全が進められている。

名張市
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熊野古道(伏拝王子付近)

伏拝王子は熊野古道中辺路上、熊野本宮大社の手前に位置する王子社である。その名は、難行苦行を経た参詣者が此地に至り、初めて本宮大社を望見して敬虔に拝した故事に由来する。この地点は中辺路最大の難所を越えた先であり、長き道程を終えた旅人たちにとって、信仰の成就を象徴する場所だった。熊野三山への参詣は平安期の宇多法皇の時代に始まり、11世紀後半の白河上皇以降、皇族から庶民に至るまで老若男女が切れ目なく訪れるようになった。12~13世紀には参詣者が蟻の行列に例えられるほど膨大となり、その過程で参詣道沿いには百以上の王子社が整備されていった。伏拝王子もその重要な中継点の一つとして、巡礼の足を癒し、聖地到達の直前の心身の整える拠点として機能してきた。2004年には中辺路を含む熊野古道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、平安期以来およそ千年の信仰と巡礼の道が今日に伝えられている。

熊野市
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錦漁港(三重県度会郡大紀町錦)

錦漁港は熊野灘に面したリアス式海岸の入り江に開けた三重県大紀町の港で、鰤・鯛・鰹などの漁で栄えてきた土地である。港には漁協直販の朝市が立ち、江戸時代後期から続く「赤船祭」では大漁と海上安全が祈られてきた。この地は古くから地震や台風による海の脅威とも隣り合わせで、港近くの金蔵寺境内には1854年の安政東海地震で押し寄せた津波の高さと教訓を記す「津波流死塔」が残り、地区内には1944年の昭和東南海地震による津波被害を伝える「平安の碑」も建立されている。旧紀勢町域では東南海地震の津波で64人が死亡し、447戸が流失したと伝えられる。こうした水難・津波の記憶が土地に刻まれていることから、荒天の夜に岸壁で波音に混じって声のようなものを聞いた、突堤に人影を見たといった話が港にまつわる怪異として語られることがある。漁業の現場である岸壁は今も高波や滑落の危険があり、日中の見学にとどめ、慰霊の対象への敬意を保つことが求められる。

大紀町

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御在所岳(斜面の廃ロープウェイ小屋)
山道・峠·三重県 三重郡菰野町

御在所岳(斜面の廃ロープウェイ小屋)

標高1,212mの御在所岳は鈴鹿山脈の主峰で、1959年にロープウェイが開業して以降、観光地として整備されてきた。しかし山中の急峻な斜面には、運用を終えた旧施設の廃墟が点在しており、特に花崗岩質の鋭い地形が集中する三重県側では滑落事故が相次いでいる。警察記録によれば、鎖場での転倒や岩場での滑落による遭難が複数報告されている。旧ロープウェイ関連の廃屋周辺は、整備されていない険しい迂回路となっており、登山者や遭難者の遺体発見地点となった事例も存在する。こうした歴史的痕跡と実際の危険性が相まって、廃施設周辺に対する畏怖の念が形成されている。

亀山の巨石群
山道・峠·三重県 亀山市

亀山の巨石群

三重県亀山市の山間部に分布する自然石の景観は、鈴鹿山脈東部の地質環境を反映したものである。亀山地域の地層は東海層群を基盤とし、風化と地質運動の作用により、斜面に大小の岩塊が露出した状況が形成されている。こうした岩石景観は、地質学的には自然成因が指摘される一方で、その配置や規模から古代の人間活動との関わりを想定する地域的な解釈も存在する。 亀山七座に属する仙ヶ岳の「仙の石」、高畑山の「鏡石」、臼杵ヶ岳の「うす岩」「きね岩」といった個別の岩塊は、いずれも登山者や地元の人々に認識される地形上の目印となってきた。これらの岩石群は、亀山市の古代から現代に至る信仰の対象や空間認識と結びついている。亀山市域では縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が確認されており、大鼻遺跡などの縄文遺跡の存在は、この地域が長期にわたり人間の活動の場であったことを示している。岩塊の隙間を通る風や、岩肌の微妙な変化は、こうした歴史的記憶と現在の知覚が交差する場を形成している。

旧伊勢廃製塩場跡
水辺·三重県 伊勢市

旧伊勢廃製塩場跡

三重県伊勢市の海岸部に現存する旧製塩場の遺構。伊勢神宮に奉献される御塩の製造に関わった施設の跡地と考えられている。御塩の製造は倭姫命が内宮御鎮座時代に二見浦で定めたとされ、塩・米・水は古来より天照大御神への重要な神饌とされてきた。御塩殿神社は現在も五十鈴川河口で入浜式塩田による製塩を続けており、7月の塩を採取する作業から3月の焼き固めまで、伝統的な手法で塩が製造されている。 廃塩場跡の周辺は潮風が強く、塩分による風化が進んでいるほか、満潮時の冠水が地盤を不安定にしている。遺構自体は公開されていない私有地であり、伊勢神宮関連の文化財でもあるため一般の立ち入りは許可されていない。ネット上では、この場所を訪れた際に身体の重感や方向感覚の喪失を経験したとする報告が散見されるが、濃霧時の視界の悪さ、塩分による高周波音、不安定な足場からくる心理状態の変化などの物理的要因が考えられる。

名張市旧伊賀の忍者屋敷廃墟
宿泊・居住跡·三重県 名張市

名張市旧伊賀の忍者屋敷廃墟

三重県名張市を含む伊賀地域は、鎌倉から室町時代にかけて地域の自治勢力が群雄割拠する中で、民間人が自衛の技術としてゲリラ戦法を磨いた土地である。このような環境の中から伊賀流忍術が形成された。戦国時代には、伊賀の忍者は戦国大名に傭兵として従軍し、記録に登場するようになる。 名張市の山中には、かつての屋敷跡や遺構が点在している。名張藤堂家邸跡など、地域の歴史を示す施設が残存する一方で、人口流出と時間経過により、山間部の一部の屋敷は廃墟化している。赤目四十八滝の麓は、伊賀流忍者の祖とされる百地丹波も修行の地とした場所であり、修練に適した山岳環境が歴史と一体となっている。 現在、伊賀地域の忍術文化は忍者博物館や公開施設を通じて継承されており、地域としての文化遺産の保全が進められている。

多気町旧伊勢街道の旅人霊
その他·三重県 多気町

多気町旧伊勢街道の旅人霊

三重県多気町を通る旧伊勢街道は、江戸時代から昭和中期まで伊勢神宮へ向かう参拝客が絶え間なく往来した土地である。東海道に次ぐ交通量を誇った伊勢街道は、大和と伊勢を結ぶ最短ルートとして機能し、時には数百万人規模の参拝者が行き交った。多気町はこの街道が伊勢本街道、わかやま別街道、熊野街道と交差する交通の要地であり、宮川流域の田園と里山に囲まれた中継地点として発展した。 街道沿いには、旅路の途中で病や疲労により倒れた無縁の旅人を弔う供養塔や馬頭観音、辻の地蔵が今も点在している。これらの石造物は単なる遺跡ではなく、江戸期以来、地元住民による季節ごとの花や水の供え、地蔵盆の灯明といった信仰慣行の対象として受け継がれてきた。長距離旅程は病や悪天候、疲労と隣り合わせであり、杉並木の暗がりと閉塞した竹林の中で、かつての旅人の足跡と現在の静寂の落差が、夜間の心理的不安定性を増幅させる環境が形作られている。

錦漁港(三重県度会郡大紀町錦)
山道・峠·三重県 大紀町

錦漁港(三重県度会郡大紀町錦)

錦漁港は熊野灘に面したリアス式海岸の入り江に開けた三重県大紀町の港で、鰤・鯛・鰹などの漁で栄えてきた土地である。港には漁協直販の朝市が立ち、江戸時代後期から続く「赤船祭」では大漁と海上安全が祈られてきた。この地は古くから地震や台風による海の脅威とも隣り合わせで、港近くの金蔵寺境内には1854年の安政東海地震で押し寄せた津波の高さと教訓を記す「津波流死塔」が残り、地区内には1944年の昭和東南海地震による津波被害を伝える「平安の碑」も建立されている。旧紀勢町域では東南海地震の津波で64人が死亡し、447戸が流失したと伝えられる。こうした水難・津波の記憶が土地に刻まれていることから、荒天の夜に岸壁で波音に混じって声のようなものを聞いた、突堤に人影を見たといった話が港にまつわる怪異として語られることがある。漁業の現場である岸壁は今も高波や滑落の危険があり、日中の見学にとどめ、慰霊の対象への敬意を保つことが求められる。

矢ノ川峠
山道・峠·三重県 尾鷲市

矢ノ川峠

三重県尾鷲市と熊野市を隔てる標高800m級の難所・矢ノ川峠(やのことうげ)。かつての国道42号はこの峠を九十九折で越えており、急峻な地形と濃い霧、たびたびの転落事故で知られた。1968年(昭和43年)に矢ノ川トンネルを含む新道へ切り替えられた後、峠の旧道と古いトンネルは打ち捨てられ、廃道・廃隧道として、また紀伊半島を代表する心霊スポットとして語られるようになった。 旧道や廃隧道では、霧の中に人影が立っていた、誰もいないトンネルの奥から足音が近づいてきた、谷側から転落事故を思わせる音や声を聞いたといった体験談が語り継がれている。実際に路線バスの転落事故が起きた峠であり、その記憶が怪異の語りと分かちがたく結びついている。 地元では、峠で命を落とした人々への供養が続けられ、旧道沿いには慰霊の碑や祠も残る。 旧道は崩落や落石が進み、廃隧道内は照明もなく崩壊の危険がある。携帯電話の圏外区間も多く、単独・夜間の立ち入りは遭難に直結する。訪れる際は日中に限り、装備を整え、廃墟を荒らさず、峠で亡くなった人々への敬意をもって行動すること。

志摩市旧伊勢志摩の海女霊
山道・峠·三重県 志摩市

志摩市旧伊勢志摩の海女霊

三重県志摩市の磯場は、約2000年前の弥生時代から素潜り漁を営む海女たちの作業場である。全国約2000人の海女のうち約半数が志摩半島に活動し、アワビやサザエを採取する伝統は日本と韓国にのみ現存する。 海女たちは白い木綿製の磯着を着用し、セーマン(星形)とドーマン(格子)の魔除けの刻印をした道具を携えて潜る。この衣装と道具の装いが、夕暮れ時の波打ち際でまとまった白い輪郭として視認される可能性を持つ。 志摩の磯岸は年間を通じて高波とうねりの急変を特徴とし、海難事故の危険が常に存在する。海底の石に命綱が挟まったり海藻に絡まったりする事態も歴史上記録されている。磯場で命を落とした海女や漁師への慰霊は、祠への参拝、石神信仰を通じた祈り、盆の海上慰霊、漁協による供養として現在も地域に根付いている。海と共に生きる土地ゆえ、失われた命への弔いが暮らしに組み込まれた形で継承されている。

青山高原
路上・交差点·三重県 津市

青山高原

三重県津市と伊賀市にまたがる青山高原(あおやまこうげん)は、標高756メートルの髻山(もっこさん)を主峰とする台地状の丘陵地である。布引山地と呼ばれる山並みの一部で、伊勢湾から琵琶湖、関西アルプスまでを一望できる眺望から、近畿圏の隠れた絶景ポイントとして知られてきた。 青山高原が広く名を知られるようになったのは、2003年(平成15年)以降、大規模な風力発電施設「青山高原ウインドファーム」の整備が進んで以降のことである。シーテック(中部電力グループ)と津市・伊賀市の協働事業で、初期20基から段階的に拡張され、最終的に総数89基、総出力15万キロワットに到達した。 1基あたりの定格出力1,500キロワットの大型風車を尾根筋に並列配置するこの規模は、日本国内の風力発電所として最大級である。風車のブレード長(羽根の長さ)は約40メートル、地上から羽根先端までの最大高度は約100メートルに達する。台地から伊勢湾までの広い眺望と、規則的に並ぶ風車群の景観が、独特の観光資源となった。 土木史・電力史の文脈では、青山高原の事業は日本の再生可能エネルギー導入期の象徴的プロジェクトとして位置づけられる。1990年代の電力自由化以前に始まった国内最大級の風力発電構想で、地域協議会、環境影響評価、地権者調整、送電網接続など、現在の再エネ事業のひな型となるプロセスが先行的に経験された。 台地一帯はハイキング、ドライブ、サイクリングの目的地として親しまれており、青山高原ハイキングコース、髻山展望台、青山高原保健休養地などが整備されている。風車の真下まで自動車で接近できるエリアもあり、観光案内サイトでは推奨ドライブルートが紹介されている。 伊勢湾と志摩半島、紀伊半島の山並み、晴天時には南アルプスや富士山まで視認できる眺望点があり、写真撮影と日の出・日の入り観賞のスポットとしても知られる。風車のブレードによる安全管理上、ハイキングコースは指定されたルート以外への立ち入りが制限されている。

旧鬼ヶ城トンネル
隧道・トンネル·三重県 熊野市

旧鬼ヶ城トンネル

三重県熊野市木本町の海岸線に、鬼ヶ城という景勝地がある。荒波と風雨が長い時間をかけて削り上げた海食洞窟と海食崖が連続する、独特の地形が観光名所として知られる。国の名勝及び天然記念物に指定され、また「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部として2004年に世界文化遺産にも登録されている。 鬼ヶ城の名は、平安初期の伝承に由来する。熊野灘を荒らした海賊「多娥丸(たがまる)」を、坂上田村麻呂が朝廷の命で討伐した、という説話が地元に伝わる。鬼を退治して住民を守ったという伝承が、岬の名前の由来となった。坂上田村麻呂は実在の人物で、平安初期に蝦夷征討で活躍した武人だが、熊野での鬼退治伝承は説話文学の領域に属する。 鬼ヶ城の海岸線は、長く陸上交通の難所だった。熊野街道はこの一帯では岩山を回り込むか、岬を貫くトンネルを掘るしかない地形である。1959年(昭和34年)、国道311号の前身となる県道のルートとして、鬼ヶ城を貫通するトンネルが開削された。これが旧鬼ヶ城トンネルである。延長は短く、両坑門は装飾性の少ないコンクリート造である。 旧道のトンネルは、新道整備に伴って役目を終え、現在は熊野市の遊歩道の一部として活用されている。海岸線の景勝地・鬼ヶ城へのアプローチコースの途中にあり、徒歩で通過可能。内部は照明が設置されているが、湿気と波しぶきによる結露が床面に水たまりを作るため、注意が必要。 世界遺産登録後、鬼ヶ城周辺の遊歩道は熊野市と三重県によって順次整備が進んだ。鬼ヶ城センター(観光案内所兼物産販売施設)が登山口にあり、地元の漁師町の風景と熊野古道の文化を併せて楽しめる。 波の状況によっては、海食洞窟側の遊歩道に高波が直接当たる場合があり、強風時・荒天時は一部区間が立入禁止になる。訪問前には熊野市の観光協会公式サイトで安全情報の確認が推奨される。

熊野古道(伏拝王子付近)
その他·三重県 熊野市

熊野古道(伏拝王子付近)

伏拝王子は熊野古道中辺路上、熊野本宮大社の手前に位置する王子社である。その名は、難行苦行を経た参詣者が此地に至り、初めて本宮大社を望見して敬虔に拝した故事に由来する。この地点は中辺路最大の難所を越えた先であり、長き道程を終えた旅人たちにとって、信仰の成就を象徴する場所だった。熊野三山への参詣は平安期の宇多法皇の時代に始まり、11世紀後半の白河上皇以降、皇族から庶民に至るまで老若男女が切れ目なく訪れるようになった。12~13世紀には参詣者が蟻の行列に例えられるほど膨大となり、その過程で参詣道沿いには百以上の王子社が整備されていった。伏拝王子もその重要な中継点の一つとして、巡礼の足を癒し、聖地到達の直前の心身の整える拠点として機能してきた。2004年には中辺路を含む熊野古道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、平安期以来およそ千年の信仰と巡礼の道が今日に伝えられている。

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