三重県の心霊スポットランキング・一覧

15 スポット9 カテゴリ

伊勢神宮を擁する三重県は、二千年の祈りと熊野の修験が交わる日本最古の聖地である。御杖を伝う伊勢の杜の深い静寂と裏腹に、自殺の名所として語られる青山高原の風車群、お伊勢参りの難所に穿たれた旧鬼ヶ城トンネル、熊野古道の苔むした石畳——天照大神を祀る神聖な気配と、参詣道に倒れた巡礼者たちの無念が、伊勢志摩の海風の中で今も静かに同居している。

RANKING

最恐ランキング TOP10

どれだけ調べられているかを示す注目度指標。スポット名で直接検索された回数に近い。

青山高原
1

青山高原

津市·54 views
旧長野トンネル(長野峠)
2

旧長野トンネル(長野峠)

伊賀市·32 views
矢ノ川峠
3

矢ノ川峠

尾鷲市·31 views
4

旧鬼ヶ城トンネル

三重県熊野市木本町の海岸線に、鬼ヶ城という景勝地がある。荒波と風雨が長い時間をかけて削り上げた海食洞窟と海食崖が連続する、独特の地形が観光名所として知られる。国の名勝及び天然記念物に指定され、また「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部として2004年に世界文化遺産にも登録されている。 鬼ヶ城の名は、平安初期の伝承に由来する。熊野灘を荒らした海賊「多娥丸(たがまる)」を、坂上田村麻呂が朝廷の命で討伐した、という説話が地元に伝わる。鬼を退治して住民を守ったという伝承が、岬の名前の由来となった。坂上田村麻呂は実在の人物で、平安初期に蝦夷征討で活躍した武人だが、熊野での鬼退治伝承は説話文学の領域に属する。 鬼ヶ城の海岸線は、長く陸上交通の難所だった。熊野街道はこの一帯では岩山を回り込むか、岬を貫くトンネルを掘るしかない地形である。1959年(昭和34年)、国道311号の前身となる県道のルートとして、鬼ヶ城を貫通するトンネルが開削された。これが旧鬼ヶ城トンネルである。延長は短く、両坑門は装飾性の少ないコンクリート造である。 旧道のトンネルは、新道整備に伴って役目を終え、現在は熊野市の遊歩道の一部として活用されている。海岸線の景勝地・鬼ヶ城へのアプローチコースの途中にあり、徒歩で通過可能。内部は照明が設置されているが、湿気と波しぶきによる結露が床面に水たまりを作るため、注意が必要。 世界遺産登録後、鬼ヶ城周辺の遊歩道は熊野市と三重県によって順次整備が進んだ。鬼ヶ城センター(観光案内所兼物産販売施設)が登山口にあり、地元の漁師町の風景と熊野古道の文化を併せて楽しめる。 波の状況によっては、海食洞窟側の遊歩道に高波が直接当たる場合があり、強風時・荒天時は一部区間が立入禁止になる。訪問前には熊野市の観光協会公式サイトで安全情報の確認が推奨される。

熊野市·23 views
5

旧女鬼トンネル(女鬼隧道)

三重県多気郡多気町、熊野古道伊勢路の最初の難所として知られる女鬼峠の西側に、1934年(昭和9年)に開通した旧女鬼隧道が残っている。全長103メートル、幅4メートル、高さ4.6メートルの小規模なトンネルで、1996年に新トンネルが開通したことで役目を終え、現在は鉄扉によって封鎖されている。 峠の名称「女鬼」の由来には諸説ある。郷土資料によれば、江戸期には「ねぎ峠」「めっき峠」と呼ばれていたものが音の変化を経て現在の表記に定着したとされる一方、峠に人を食う鬼が住んでいたという説、老いた者を峠に置き去りにする風習があり見捨てられた老婆が鬼婆に変じたという説、トンネル建設時に女性が人柱として埋められ、生き残った一人が他の女性を食べたために「女鬼」と名付けられたという説などが並存し、いずれも確定した史料的根拠は乏しい。 これらの由来説と結びつく形で、トンネル内では手招きする女性のような姿や、誰もいないはずの場所から聞こえる女性の声が報告されてきた。訪問後に説明のつかない交通事故に遭った、持ち込んだ照明や撮影機材が突然故障した、原因不明の発熱に見舞われたといった体験も伝えられている。一方で、大規模な事件や事故を裏付ける公的な記録は確認されておらず、これらの噂は複数の由来説が重なり合いながら広まってきたと考えられる。

多気郡多気町·21 views
6

平家六代の墓

三重県松阪市の山間、日川の里にある日川寺の境内には、斜面に石塔や石碑が連なる一角がある。ここは平清盛の曾孫にあたる平六代(実名・平高清)とその一族の墓所と伝わる。平家滅亡後、六代は源氏方に捕らえられたが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて出家し、妙覚と号した。文覚の配流後、妙覚は従者らを伴い伊勢へ落ち延び、この地に隠れ住んだとされ、境内に残る墓石群はその一族の痕跡とみなされている。この場所は複数の紹介記事やブログで心霊にまつわる噂の対象として取り上げられており、訪れた者が何者かに見られている感覚を抱いたという体験や、参道の途中で頭痛や気分の悪化を覚えて墓前まで進めなかったという話が伝わる。また、周辺の道路を車で通過した際、視界を横切る白い光に驚いてハンドルを切り、事故に至ったという証言も残されている。滅びた一族の悲運と、山間の集落という土地の閉塞感が結びつき、独特の雰囲気を持つ場所として扱われている。

松阪市·16 views
7

鱒池亭

三重県伊賀市勝地、旧名賀郡青山町の山中に位置する木造の料亭旅館跡。青山高原の登山客や奥山愛宕神社への参拝客を対象に、奥山川で獲れる鱒などの川魚料理を提供していたとされ、1970年前後の開業以降営業を続けていたが、1990年代初頭に閉業した。建物は岩を組み込んだ造りで、階段や風呂にも巨岩が用いられている。閉業の背景については、経営難から経営者一家が心中したという噂が広く伝わっているが、出典は明確でなく、事実無根とする調査記録も存在する。この噂は、熊野市で起きた一家殺害事件の再現映像がこの建物で撮影されたテレビ番組が発端になったとの見方もある。ほかにも、従業員の女性が入水自殺したという説や、経営者の妻が精神を患い無理心中に至ったという説、経営者が家族を殺害した上で自ら命を絶ったとする説も語られている。訪問者からは男女の霊を見た、うめき声が聞こえた、背後に気配を感じたといった報告があり、心霊写真や、女性の顔が映り込んだとする映像が撮影されたとする話も伝わっている。建物は近年、窓ガラスの多くが失われ壁面の損壊や木造階段の崩落が進んで半壊状態となっており、敷地へ渡る橋の板もすでに失われているため、立ち入り自体が難しくなっているとされる。

伊賀市·16 views
8

鵜の森公園(鵜森神社・浜田城址)

四日市市中心部にある鵜の森公園は、室町時代に田原忠秀が築いた浜田城の跡地である。天正3年(1575)6月、城主田原元綱は織田信長の家臣・滝川一益の攻撃を受けて敗れ、討死したと伝わる。落城後、旧臣たちが城跡に鵜森大明神(現・鵜森神社)を建て、忠秀以下四代の霊を祀ったとされる。園内では造成の際に由来不明の墓石が見つかったこともあるという。また昭和20年(1945)6月18日の四日市空襲による犠牲者を悼む殉難碑も、昭和55年(1980)に園内へ建立されている。こうした経緯から、公園には討ち死にした武者の霊が今も現れるとの噂があり、正体不明の少年の霊が現れるとの噂も一部で語られている。ただし目撃談を裏付ける具体的な記録は乏しく、噂の域を出ないとの指摘もある。

四日市市·16 views
9

錦漁港(三重県度会郡大紀町錦)

錦漁港は熊野灘に面したリアス式海岸の入り江に開けた三重県大紀町の港で、鰤・鯛・鰹などの漁で栄えてきた土地である。港には漁協直販の朝市が立ち、江戸時代後期から続く「赤船祭」では大漁と海上安全が祈られてきた。この地は古くから地震や台風による海の脅威とも隣り合わせで、港近くの金蔵寺境内には1854年の安政東海地震で押し寄せた津波の高さと教訓を記す「津波流死塔」が残り、地区内には1944年の昭和東南海地震による津波被害を伝える「平安の碑」も建立されている。旧紀勢町域では東南海地震の津波で64人が死亡し、447戸が流失したと伝えられる。こうした水難・津波の記憶が土地に刻まれていることから、荒天の夜に岸壁で波音に混じって声のようなものを聞いた、突堤に人影を見たといった話が港にまつわる怪異として語られることがある。漁業の現場である岸壁は今も高波や滑落の危険があり、日中の見学にとどめ、慰霊の対象への敬意を保つことが求められる。

大紀町·14 views
10

旧伊勢廃製塩場跡

三重県伊勢市の海岸部に現存する旧製塩場の遺構。伊勢神宮に奉献される御塩の製造に関わった施設の跡地と考えられている。御塩の製造は倭姫命が内宮御鎮座時代に二見浦で定めたとされ、塩・米・水は古来より天照大御神への重要な神饌とされてきた。御塩殿神社は現在も五十鈴川河口で入浜式塩田による製塩を続けており、7月の塩を採取する作業から3月の焼き固めまで、伝統的な手法で塩が製造されている。 廃塩場跡の周辺は潮風が強く、塩分による風化が進んでいるほか、満潮時の冠水が地盤を不安定にしている。遺構自体は公開されていない私有地であり、伊勢神宮関連の文化財でもあるため一般の立ち入りは許可されていない。ネット上では、この場所を訪れた際に身体の重感や方向感覚の喪失を経験したとする報告が散見されるが、濃霧時の視界の悪さ、塩分による高周波音、不安定な足場からくる心理状態の変化などの物理的要因が考えられる。

伊勢市·14 views

すべてのスポット

御在所岳(斜面の廃ロープウェイ小屋)
三重県 三重郡菰野町·山道・峠

御在所岳(斜面の廃ロープウェイ小屋)

標高1,212mの御在所岳は鈴鹿山脈の主峰で、1959年にロープウェイが開業して以降、観光地として整備されてきた。しかし山中の急峻な斜面には、運用を終えた旧施設の廃墟が点在しており、特に花崗岩質の鋭い地形が集中する三重県側では滑落事故が相次いでいる。警察記録によれば、鎖場での転倒や岩場での滑落による遭難が複数報告されている。旧ロープウェイ関連の廃屋周辺は、整備されていない険しい迂回路となっており、登山者や遭難者の遺体発見地点となった事例も存在する。こうした歴史的痕跡と実際の危険性が相まって、廃施設周辺に対する畏怖の念が形成されている。

旧伊勢廃製塩場跡
三重県 伊勢市·水辺

旧伊勢廃製塩場跡

三重県伊勢市の海岸部に現存する旧製塩場の遺構。伊勢神宮に奉献される御塩の製造に関わった施設の跡地と考えられている。御塩の製造は倭姫命が内宮御鎮座時代に二見浦で定めたとされ、塩・米・水は古来より天照大御神への重要な神饌とされてきた。御塩殿神社は現在も五十鈴川河口で入浜式塩田による製塩を続けており、7月の塩を採取する作業から3月の焼き固めまで、伝統的な手法で塩が製造されている。 廃塩場跡の周辺は潮風が強く、塩分による風化が進んでいるほか、満潮時の冠水が地盤を不安定にしている。遺構自体は公開されていない私有地であり、伊勢神宮関連の文化財でもあるため一般の立ち入りは許可されていない。ネット上では、この場所を訪れた際に身体の重感や方向感覚の喪失を経験したとする報告が散見されるが、濃霧時の視界の悪さ、塩分による高周波音、不安定な足場からくる心理状態の変化などの物理的要因が考えられる。

三重県 伊賀市·商業・遊興跡

鱒池亭

三重県伊賀市勝地、旧名賀郡青山町の山中に位置する木造の料亭旅館跡。青山高原の登山客や奥山愛宕神社への参拝客を対象に、奥山川で獲れる鱒などの川魚料理を提供していたとされ、1970年前後の開業以降営業を続けていたが、1990年代初頭に閉業した。建物は岩を組み込んだ造りで、階段や風呂にも巨岩が用いられている。閉業の背景については、経営難から経営者一家が心中したという噂が広く伝わっているが、出典は明確でなく、事実無根とする調査記録も存在する。この噂は、熊野市で起きた一家殺害事件の再現映像がこの建物で撮影されたテレビ番組が発端になったとの見方もある。ほかにも、従業員の女性が入水自殺したという説や、経営者の妻が精神を患い無理心中に至ったという説、経営者が家族を殺害した上で自ら命を絶ったとする説も語られている。訪問者からは男女の霊を見た、うめき声が聞こえた、背後に気配を感じたといった報告があり、心霊写真や、女性の顔が映り込んだとする映像が撮影されたとする話も伝わっている。建物は近年、窓ガラスの多くが失われ壁面の損壊や木造階段の崩落が進んで半壊状態となっており、敷地へ渡る橋の板もすでに失われているため、立ち入り自体が難しくなっているとされる。

旧長野トンネル(長野峠)
三重県 伊賀市·隧道・トンネル

旧長野トンネル(長野峠)

三重県津市と伊賀市の境にある長野峠は、飛鳥・奈良時代に朝廷と伊勢神宮を結んだ奈良街道の要衝で、古くは馬野峠と呼ばれていたが、鎌倉時代後期に勢力を伸ばした長野工藤氏にちなみ長野峠と改められたと伝わる。江戸時代には藤堂藩が整備した伊賀街道の一部として利用された。峠には明治・昭和・平成の三世代のトンネルが残り、明治18年に竣工した花崗岩造りの初代トンネルは、着工から4年7か月、ノミとツルハシのみで掘り進めた難工事だったとされる。この工事中の崩落事故で亡くなった作業員の霊が、内部に残るとされる無数の白い手形の由来として語られている。昭和14年に完成した二代目トンネルでは、交通事故による死者の霊や、着物姿の女性、落ち武者、人魂などの目撃情報が複数報告されており、車の後部座席に何者かが座る気配や、フロントガラスに人影が現れたという体験も伝えられている。平成20年の新トンネル開通後、旧トンネルは崩落の危険から封鎖され、現在は立ち入りができない状態にある。

名張市旧伊賀の忍者屋敷廃墟
三重県 名張市·宿泊・居住跡

名張市旧伊賀の忍者屋敷廃墟

三重県名張市を含む伊賀地域は、鎌倉から室町時代にかけて地域の自治勢力が群雄割拠する中で、民間人が自衛の技術としてゲリラ戦法を磨いた土地である。このような環境の中から伊賀流忍術が形成された。戦国時代には、伊賀の忍者は戦国大名に傭兵として従軍し、記録に登場するようになる。 名張市の山中には、かつての屋敷跡や遺構が点在している。名張藤堂家邸跡など、地域の歴史を示す施設が残存する一方で、人口流出と時間経過により、山間部の一部の屋敷は廃墟化している。赤目四十八滝の麓は、伊賀流忍者の祖とされる百地丹波も修行の地とした場所であり、修練に適した山岳環境が歴史と一体となっている。 現在、伊賀地域の忍術文化は忍者博物館や公開施設を通じて継承されており、地域としての文化遺産の保全が進められている。

三重県 名張市·商業・遊興跡

おとぼけビーバー名張店

三重県名張市、国道165号線沿いに建つ廃業したラブホテルである。かつては別の名称で営業していたが、後に現在の名称へ改められた。平成期を通じて営業していたが、2017年頃に閉業したとされる。閉業後は長らく放置され、敷地には投棄物が散乱し、外壁や内部設備の劣化が進んでいる。2023年には建物の一部が焼損する事案が確認され、放火の可能性が指摘された。この場所については、営業当時から異変が伝えられていたという。テレビの電源が理由なく落ちる、無人のトイレの水が流れる、ドアを叩く音がするといった現象が噂され、特に二階奥の部屋でトイレの水の音が起きやすいとされる。背景には、ここで女性が亡くなったという未確認の話が付随し、その霊が現象を引き起こしているとの見方が伝えられている。写真撮影時に不可解な写り込みが生じるとの噂も加わり、伊賀地方を代表する心霊スポットのひとつとして扱われるようになった。

鵜の森公園(鵜森神社・浜田城址)
三重県 四日市市·公園・城址

鵜の森公園(鵜森神社・浜田城址)

四日市市中心部にある鵜の森公園は、室町時代に田原忠秀が築いた浜田城の跡地である。天正3年(1575)6月、城主田原元綱は織田信長の家臣・滝川一益の攻撃を受けて敗れ、討死したと伝わる。落城後、旧臣たちが城跡に鵜森大明神(現・鵜森神社)を建て、忠秀以下四代の霊を祀ったとされる。園内では造成の際に由来不明の墓石が見つかったこともあるという。また昭和20年(1945)6月18日の四日市空襲による犠牲者を悼む殉難碑も、昭和55年(1980)に園内へ建立されている。こうした経緯から、公園には討ち死にした武者の霊が今も現れるとの噂があり、正体不明の少年の霊が現れるとの噂も一部で語られている。ただし目撃談を裏付ける具体的な記録は乏しく、噂の域を出ないとの指摘もある。

旧女鬼トンネル(女鬼隧道)
三重県 多気郡多気町·隧道・トンネル

旧女鬼トンネル(女鬼隧道)

三重県多気郡多気町、熊野古道伊勢路の最初の難所として知られる女鬼峠の西側に、1934年(昭和9年)に開通した旧女鬼隧道が残っている。全長103メートル、幅4メートル、高さ4.6メートルの小規模なトンネルで、1996年に新トンネルが開通したことで役目を終え、現在は鉄扉によって封鎖されている。 峠の名称「女鬼」の由来には諸説ある。郷土資料によれば、江戸期には「ねぎ峠」「めっき峠」と呼ばれていたものが音の変化を経て現在の表記に定着したとされる一方、峠に人を食う鬼が住んでいたという説、老いた者を峠に置き去りにする風習があり見捨てられた老婆が鬼婆に変じたという説、トンネル建設時に女性が人柱として埋められ、生き残った一人が他の女性を食べたために「女鬼」と名付けられたという説などが並存し、いずれも確定した史料的根拠は乏しい。 これらの由来説と結びつく形で、トンネル内では手招きする女性のような姿や、誰もいないはずの場所から聞こえる女性の声が報告されてきた。訪問後に説明のつかない交通事故に遭った、持ち込んだ照明や撮影機材が突然故障した、原因不明の発熱に見舞われたといった体験も伝えられている。一方で、大規模な事件や事故を裏付ける公的な記録は確認されておらず、これらの噂は複数の由来説が重なり合いながら広まってきたと考えられる。

錦漁港(三重県度会郡大紀町錦)
三重県 大紀町·山道・峠

錦漁港(三重県度会郡大紀町錦)

錦漁港は熊野灘に面したリアス式海岸の入り江に開けた三重県大紀町の港で、鰤・鯛・鰹などの漁で栄えてきた土地である。港には漁協直販の朝市が立ち、江戸時代後期から続く「赤船祭」では大漁と海上安全が祈られてきた。この地は古くから地震や台風による海の脅威とも隣り合わせで、港近くの金蔵寺境内には1854年の安政東海地震で押し寄せた津波の高さと教訓を記す「津波流死塔」が残り、地区内には1944年の昭和東南海地震による津波被害を伝える「平安の碑」も建立されている。旧紀勢町域では東南海地震の津波で64人が死亡し、447戸が流失したと伝えられる。こうした水難・津波の記憶が土地に刻まれていることから、荒天の夜に岸壁で波音に混じって声のようなものを聞いた、突堤に人影を見たといった話が港にまつわる怪異として語られることがある。漁業の現場である岸壁は今も高波や滑落の危険があり、日中の見学にとどめ、慰霊の対象への敬意を保つことが求められる。

矢ノ川峠
三重県 尾鷲市·山道・峠

矢ノ川峠

三重県尾鷲市と熊野市を隔てる標高800m級の難所・矢ノ川峠(やのことうげ)。かつての国道42号はこの峠を九十九折で越えており、急峻な地形と濃い霧、たびたびの転落事故で知られた。1968年(昭和43年)に矢ノ川トンネルを含む新道へ切り替えられた後、峠の旧道と古いトンネルは打ち捨てられ、廃道・廃隧道として、また紀伊半島を代表する心霊スポットとして語られるようになった。 旧道や廃隧道では、霧の中に人影が立っていた、誰もいないトンネルの奥から足音が近づいてきた、谷側から転落事故を思わせる音や声を聞いたといった体験談が語り継がれている。実際に路線バスの転落事故が起きた峠であり、その記憶が怪異の語りと分かちがたく結びついている。 地元では、峠で命を落とした人々への供養が続けられ、旧道沿いには慰霊の碑や祠も残る。 旧道は崩落や落石が進み、廃隧道内は照明もなく崩壊の危険がある。携帯電話の圏外区間も多く、単独・夜間の立ち入りは遭難に直結する。訪れる際は日中に限り、装備を整え、廃墟を荒らさず、峠で亡くなった人々への敬意をもって行動すること。

三重県 松阪市·神域・霊場

平家六代の墓

三重県松阪市の山間、日川の里にある日川寺の境内には、斜面に石塔や石碑が連なる一角がある。ここは平清盛の曾孫にあたる平六代(実名・平高清)とその一族の墓所と伝わる。平家滅亡後、六代は源氏方に捕らえられたが、文覚上人の助命嘆願により処刑を免れて出家し、妙覚と号した。文覚の配流後、妙覚は従者らを伴い伊勢へ落ち延び、この地に隠れ住んだとされ、境内に残る墓石群はその一族の痕跡とみなされている。この場所は複数の紹介記事やブログで心霊にまつわる噂の対象として取り上げられており、訪れた者が何者かに見られている感覚を抱いたという体験や、参道の途中で頭痛や気分の悪化を覚えて墓前まで進めなかったという話が伝わる。また、周辺の道路を車で通過した際、視界を横切る白い光に驚いてハンドルを切り、事故に至ったという証言も残されている。滅びた一族の悲運と、山間の集落という土地の閉塞感が結びつき、独特の雰囲気を持つ場所として扱われている。

青山高原
三重県 津市·路上・交差点

青山高原

三重県津市と伊賀市にまたがる青山高原(あおやまこうげん)は、標高756メートルの髻山(もっこさん)を主峰とする台地状の丘陵地である。布引山地と呼ばれる山並みの一部で、伊勢湾から琵琶湖、関西アルプスまでを一望できる眺望から、近畿圏の隠れた絶景ポイントとして知られてきた。 青山高原が広く名を知られるようになったのは、2003年(平成15年)以降、大規模な風力発電施設「青山高原ウインドファーム」の整備が進んで以降のことである。シーテック(中部電力グループ)と津市・伊賀市の協働事業で、初期20基から段階的に拡張され、最終的に総数89基、総出力15万キロワットに到達した。 1基あたりの定格出力1,500キロワットの大型風車を尾根筋に並列配置するこの規模は、日本国内の風力発電所として最大級である。風車のブレード長(羽根の長さ)は約40メートル、地上から羽根先端までの最大高度は約100メートルに達する。台地から伊勢湾までの広い眺望と、規則的に並ぶ風車群の景観が、独特の観光資源となった。 土木史・電力史の文脈では、青山高原の事業は日本の再生可能エネルギー導入期の象徴的プロジェクトとして位置づけられる。1990年代の電力自由化以前に始まった国内最大級の風力発電構想で、地域協議会、環境影響評価、地権者調整、送電網接続など、現在の再エネ事業のひな型となるプロセスが先行的に経験された。 台地一帯はハイキング、ドライブ、サイクリングの目的地として親しまれており、青山高原ハイキングコース、髻山展望台、青山高原保健休養地などが整備されている。風車の真下まで自動車で接近できるエリアもあり、観光案内サイトでは推奨ドライブルートが紹介されている。 伊勢湾と志摩半島、紀伊半島の山並み、晴天時には南アルプスや富士山まで視認できる眺望点があり、写真撮影と日の出・日の入り観賞のスポットとしても知られる。風車のブレードによる安全管理上、ハイキングコースは指定されたルート以外への立ち入りが制限されている。

三重県 津市·水辺

中河原海岸(文化村海岸)

三重県津市の中河原海岸(文化村海岸)は、1955年7月28日に発生した橋北中学校水難事件の現場として知られる。女子生徒の水泳訓練中に原因不明の強い潮流が生じ、36人が溺死した。刑事・民事の裁判でも異常流の科学的な原因は特定できなかったとされる。生存者からは、水中に引き込まれる際に何者かに足をつかまれたとの証言が伝わり、防空頭巾やモンペ姿の人影を見たという話も残るが、事故直後の記録にはこうした証言は見当たらず、新聞などで広く報じられたのは事故からおよそ1年後だったとする指摘もあり、後年の検証番組では記者による脚色の可能性が語られたこともある。事故のちょうど10年前の同じ7月28日には、この海岸付近で空襲による死者が出たとも伝えられ(死者数や埋葬の詳細は資料により異同がある)、二つの悲劇が同じ日付に重なることが不思議な因縁として語られる。テレビの検証番組では、当初は心霊現象を軸に構成されたものが、後の放送では離岸流など科学的な原因分析を中心とした内容に改められたこともある。事故翌年の1956年には犠牲者を慰霊する女神像が建立され、像が血の涙を流すという噂も存在する。ネット上では「引き上げられなかった遺体がある」との声も見られるが、犠牲者全員が当日中に収容されたとする記録があり誤伝とされる。現在も遊泳禁止が続き、心霊スポットとして紹介されることがある。

旧鬼ヶ城トンネル
三重県 熊野市·隧道・トンネル

旧鬼ヶ城トンネル

三重県熊野市木本町の海岸線に、鬼ヶ城という景勝地がある。荒波と風雨が長い時間をかけて削り上げた海食洞窟と海食崖が連続する、独特の地形が観光名所として知られる。国の名勝及び天然記念物に指定され、また「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部として2004年に世界文化遺産にも登録されている。 鬼ヶ城の名は、平安初期の伝承に由来する。熊野灘を荒らした海賊「多娥丸(たがまる)」を、坂上田村麻呂が朝廷の命で討伐した、という説話が地元に伝わる。鬼を退治して住民を守ったという伝承が、岬の名前の由来となった。坂上田村麻呂は実在の人物で、平安初期に蝦夷征討で活躍した武人だが、熊野での鬼退治伝承は説話文学の領域に属する。 鬼ヶ城の海岸線は、長く陸上交通の難所だった。熊野街道はこの一帯では岩山を回り込むか、岬を貫くトンネルを掘るしかない地形である。1959年(昭和34年)、国道311号の前身となる県道のルートとして、鬼ヶ城を貫通するトンネルが開削された。これが旧鬼ヶ城トンネルである。延長は短く、両坑門は装飾性の少ないコンクリート造である。 旧道のトンネルは、新道整備に伴って役目を終え、現在は熊野市の遊歩道の一部として活用されている。海岸線の景勝地・鬼ヶ城へのアプローチコースの途中にあり、徒歩で通過可能。内部は照明が設置されているが、湿気と波しぶきによる結露が床面に水たまりを作るため、注意が必要。 世界遺産登録後、鬼ヶ城周辺の遊歩道は熊野市と三重県によって順次整備が進んだ。鬼ヶ城センター(観光案内所兼物産販売施設)が登山口にあり、地元の漁師町の風景と熊野古道の文化を併せて楽しめる。 波の状況によっては、海食洞窟側の遊歩道に高波が直接当たる場合があり、強風時・荒天時は一部区間が立入禁止になる。訪問前には熊野市の観光協会公式サイトで安全情報の確認が推奨される。

熊野古道(伏拝王子付近)
三重県 熊野市·その他

熊野古道(伏拝王子付近)

伏拝王子は熊野古道中辺路上、熊野本宮大社の手前に位置する王子社である。その名は、難行苦行を経た参詣者が此地に至り、初めて本宮大社を望見して敬虔に拝した故事に由来する。この地点は中辺路最大の難所を越えた先であり、長き道程を終えた旅人たちにとって、信仰の成就を象徴する場所だった。熊野三山への参詣は平安期の宇多法皇の時代に始まり、11世紀後半の白河上皇以降、皇族から庶民に至るまで老若男女が切れ目なく訪れるようになった。12~13世紀には参詣者が蟻の行列に例えられるほど膨大となり、その過程で参詣道沿いには百以上の王子社が整備されていった。伏拝王子もその重要な中継点の一つとして、巡礼の足を癒し、聖地到達の直前の心身の整える拠点として機能してきた。2004年には中辺路を含む熊野古道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録され、平安期以来およそ千年の信仰と巡礼の道が今日に伝えられている。

市区町村から探す