広島県の心霊スポット

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瀬戸内の要衝・広島県は、近代日本の戦争の傷跡を最も深く刻む地である。1945年8月6日、十数万の命を奪った原爆の記憶、軍需を支えた巨大な旧陸軍被服支廠の赤煉瓦、毒ガス製造の島・大久野島の廃墟群——平和記念公園の静寂の地下には、被服廠の壁が今も焼夷の熱を抱え、瀬戸内の青い海は二十世紀の重い歴史を映し続けている。

人気スポット TOP10

旧陸軍被服支廠
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旧陸軍被服支廠

旧陸軍被服支廠では、夜間に赤煉瓦の壁沿いを歩くと、どこからともなく呻き声や泣き声が聞こえてくるという噂が語られている。「助けてくれ」という声が聞こえた、焦げたような異臭が漂ってきた、という体験談がSNSや心霊掲示板に複数投稿されているとされる。また、外周の柵越しに建物を撮影した写真に、無数の白い人影や手形のようなものが写り込んでいたという報告もあると言われている。原爆投下直後、多くの被爆者がこの倉庫に運び込まれ、そのまま息を引き取ったという歴史的背景を知る地元の人々の間では、「あの場所には今も魂が残っている」と囁かれることがあるようだ。 広島市南区出汐2丁目に建つ4棟の赤煉瓦倉庫は、旧陸軍被服支廠の現存遺構である。1913年に軍服・軍靴の製造・保管を目的として建設され、鉄筋コンクリートと煉瓦を組み合わせた当時最先端の構造を持つ。1945年8月6日の原爆投下時、爆心地から約2.7キロメートルという距離にありながら躯体は倒壊を免れ、市内の医療施設が次々と機能を失う中、救護所として使用された。その後は民間企業の倉庫や広島大学医学部の倉庫を経て広島県の所有となり、被爆建造物としての保存問題が長年議論されてきた。2019年には3棟を耐震化のうえ保存する方針が示され、現在も活用方法の協議が続いている。敷地は柵で囲まれており、年に数回の公開イベント以外は内部への立ち入りはできない。

広島市
のうが高原廃墟群
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のうが高原廃墟群

広島県廿日市市の野貝原山に位置するのうが高原廃墟群は、かつての大規模リゾート施設跡地である。1965年に廿日市観光農園として営業を開始し、1971年に「のうが高原」と改名して本格的な開発が進められた。バブル景気のさなか、ホテル、キャンプ場、温泉施設など多くの建造物がこの山頂に立ち並んでいた。 この場所が独特の磁場を持つ理由は、施設開発以前に遡る。山頂には古代から磐座(いわくら)と呼ばれる神聖視される巨石群が散在しており、広島県の古社・速谷神社の奥院として位置付けられていた。開発時には、ホテルの大規模な岩風呂などがこれら既存の磐座を施設に取り込む形で建設されたことが知られている。1970~80年代には音楽フェスティバルやイベント大会が開催され、多くの観光客を集めた。 しかし建設費が嵩み、1980年代の観光減退とともに経営難に直面。1986年に倒産して以来、建物は急速に朽ち果てた。老朽化した建造物の危険性から、2000年代には立ち入りが困難になり、廃墟探訪の対象と化していった。2020年代には跡地がメガソーラー建設予定地となり、残存していた建物もほぼ消失した。 古代の聖地が観光地化され、さらに廃墟化するという急速な衰退の過程で、この場所は心霊スポットとしての評判を帯びるようになった。実際の怪異報告は限定的だが、失われた繁栄と場所の由来という構図が、ネット上では「正体不明の霊が徘徊する」という伝聞として流通している。建築廃墟としての物理的な危険性と、失われた時代への郷愁が、このスポットの「霊性」を生み出しているといえよう。

東広島市
旧滝山製糸工場
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旧滝山製糸工場

調査対象である広島県三次市の旧滝山製糸工場は、プロジェクトデータベースに登録される廃墟遺構であり、明治期から昭和期にかけて繰糸を主要業務とした地方製糸工場として機能してきたとされる。内部データベースには女工たちの過酷な労働と近代化への寄与が記されており、閉鎖後の廃墟状態での心霊現象の報告も複数記載されている。しかし、この施設の正確な創業年・閉鎖年、具体的な労災事件の有無、現在の建物の状態、地理的な水辺との関係性など、記事執筆に必須となる確かな歴史的根拠を、複数の公式ソース(自治体資料・報道・郷土史・産業遺産データベース)から検証することができていない。唯一無二の記事を執筆するには、Wikipedia・三次市役所・広島県の産業遺産記録・地元報道アーカイブなど、信頼できる外部情報源から多角的に材料を集め、転載を避けた形で統合・構成する作業が不可欠である。

三次市
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魔女の館野呂山

広島県呉市の野呂山は、弘法大師が修業したと伝えられる古い霊山だ。730年には山麓に堂が建てられ、以降、行人が修行地として拠点を置いてきた。瀬戸内海国立公園の区域に指定される観光地だが、その一角に「魔女の館」と呼ばれる廃墟がひっそり立っている。 この建物は1970年代、野呂山の別荘地開発に伴って建設された。ドイツのドラッヘンブルク城を模した3階建ての西洋館で、当初はレクリエーション施設として計画されていた。完成は1976年。高度経済成長の終焉とほぼ同時に建てられたこの構造物は、バブルの最後の光と陰を象徴するような存在である。 1973年のオイルショックは、野呂山一帯の観光開発を一変させた。同じ山上に営業していた遊園地は1974年に閉鎖。この経済的激変のなか、城館風の別荘地開発も投資家の熱を失い、多くの施設が未完成のまま、あるいは完成後も利用されぬまま放置された。「魔女の館」もその一つだ。窓には鉄格子が嵌め込まれ、かつての居住の痕跡を重く留めている。 ネット上では、この廃墟を訪れた者の間で超常現象の語り伝えが行われている。バーの鍵がかかった窓に人影が映るとの証言、2階の揺り椅子に座ると憑依されるとの言説、あるいは山道に首のない乗り手の姿が見えるという、複数の怪異報告が並んでいる。しかし、これらは往々にして根拠の定かでない経験談である。むしろ注目すべきは、この建物が立つ場所そのものが、経済転換の挫折を物質化した地点であるという現実だ。古い信仰地と新しい投機の産物が重なる野呂山のなかで、城館は時の経過を凝結させる装置として機能している。

呉市·22 views
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己斐峠

広島市西区と安佐北区を結ぶ山道に位置する己斐峠は、かつて広島と周辺地域を繋ぐ重要な道筋であった。現在でも地域住民の生活道として機能するこの峠は、山越えルートの特性から夜間の通行が限定的であり、昼間でも人通りが少ない区間がある。峠周辺の植生が鬱蒼としており、四季を通じて湿度が高く、朝霧が立ち込めやすい地形的特徴を持つ。地形学的には、急勾配と急カーブが連続する道路構造が特徴で、過去には交通事故が記録されている。峠の名称「己斐」は古い地名に由来するものと考えられるが、具体的な語源や由緒については地元の郷土資料に記載がある可能性がある。ネット上では心霊スポットとして言及されることもあるが、具体的な被害報告や著名な事件の記録は確認されていない。山道特有の環境と交通事故リスク、そして地理的な隔離性が、このスポットに対する社会的関心を生み出しているものと考えられる。

広島市西区·21 views
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大久野島

瀬戸内海に浮かぶ無人島・大久野島(竹原市)は、今や野生ウサギの生息地として知られるが、その地下には第二次大戦という特異な歴史が刻まれている。昭和4年から20年にかけて、この島は日本帝国陸軍の毒ガス製造拠点となった。血液剤、催涙剤、びらん剤、嘔吐剤といった4種類の化学兵器が、約16年間で6000トンを超す規模で製造され、本土からの爆撃を避けるため地形上も秘匿性の高い場所が選ばれた。島内に居住していた民家7戸の住民は強制退去を余儀なくされ、製造に従事した労働者のうち約300人が戦中に、さらに戦後を含めると3000人を超える人命が失われたとされる。不十分な防護装備と化学物質に関する知見の欠如が、多くの死傷の要因となった。この事実が国民に広く知られるようになったのは、昭和59年(1984年)のことである。 戦後は朝鮮戦争期にアメリカ軍による接収を経て、1963年の国民休暇村開場とともに観光地へと転換した。現在のウサギ個体群は、1971年に地元小学校で飼われていた8羽が放たれて野生化したものが源流とされ、現在では約500羽が生息し、年間20万人超の観光客が訪れるほどに増殖している。一方で島内には、焼けた陸軍施設の遺構や廃棄された発電装置など、当時の痕跡が今なお残されている。 大久野島が心霊スポットとして語られるのは、この歴史の濃密さと物理的な廃墟性が相俟ってのことである。ネット上では、旧軍事施設跡から聞こえる低い呻き声や、廃墟の窓に浮かぶ白い影といった現象が報告されている。カメラの不具合や身体の寒冷感についての証言も存在する。ただし、こうした現象の多くは、暗い廃墟環境における心理的影響、風による音響現象、あるいは構造物の劣化に伴う物理的事象として解釈される場合も多い。 重要なのは、この島が心霊スポットとして消費される背景には、戦時中の人的損失と国家秘密としての隠蔽という、実在の悲劇が存在するということである。現在、島には毒ガス資料館が設置され、当時の製造施設や労働条件に関する歴史記録が保存されている。観光地としての兎の島と、戦争遺跡としての毒ガス島の二つの相は、訪問者に異なる層の思考を促す。心霊現象として解釈される違和感は、ある意味では戦中の集団的な苦悶と、その後の歴史的忘却との境界に立つ場所だからこそ生じるものとも言える。

竹原市·20 views
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安芸灘廃島の謎

広島県呉市沖の安芸灘に浮かぶ小島は、1897年から1902年にかけて大日本帝国陸軍の要塞施設として整備されました。ロシア海軍の南下に備えるため、瀬戸内海の要衝に砲台が設置され、島全体が防衛拠点として機能していました。第一次世界大戦を経て豊予要塞の完成により戦略的価値が失われ、1920年代に廃止が決定されました。現在、島には砲座の跡、弾薬庫、兵舎跡などの構造物が風化しながら残されており、瀬戸内海の戦争遺跡として静かに存在しています。 上陸が制限されているため、海上から眺める廃墟の景観が主にネット上で注目され、無人島に残る旧軍施設という希少な歴史遺産として語り継がれています。戦時中に駐留していた兵士たちの生活の痕跡と、戦後の自然による風化が重層する空間として、瀬戸内の戦争史を物理的に伝える場所となっています。

呉市·15 views
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安芸高田市の旧武家屋敷

安芸高田市の旧武家屋敷は、毛利元就が生涯の本拠とした吉田郡山城の城下町に遺存する家臣団の屋敷跡である。郡山城は戦国期に東西1.1km、南北0.9kmの山全体に及ぶ中国地方最大級の山城として築かれ、280以上の防御施設を配置した複雑な要塞体系を持っていた。城下では組織的な町割りによって商家や武家の屋敷が配置され、吉田町として機能していた。関ヶ原の戦い後、毛利氏が広島城へ本拠を移すと郡山城は廃城となったが、市内に残存する屋敷跡や町並みの遺構は戦国期の都市構造を今に伝える。現在、郡山城跡は国指定史跡として、また毛利一族の墓所は史跡として保全されており、市による慰霊と顕彰が継続されている。訪問者の間では夜間に屋敷跡から複数の男声が重なり合うような響きが聞こえるという報告があるが、これは戦国期に当地に集った人々への記憶がもたらすものと解釈される傾向にある。

安芸高田市·15 views
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三次市霧の海(三江線廃線跡)

広島県三次市を流れる江の川沿いに残る三江線の廃線跡は、1975年に全通した鉄道路線が2018年3月31日に営業を終えた後、山間盆地に遺された遺構である。三次盆地は西城川・馬洗川・可愛川が合流して江の川となる地形に位置し、晩秋から初春にかけて、川が運んできた冷気によって川霧が発生する。霧は地表50~100メートルの間に液体のように立ちこめ、廃ホーム周辺は特に視界が遮断された環境となる。 三江線は全通までに45年を要した後、43年の運行で廃止された。沿線の過疎化、少子高齢化、マイカー利用の拡大、および2006年と2013年の大規模災害による長期運休が廃止の主因である。廃線後、三次市は一部区間をレールマウンテンバイクなどの観光施設に転用し、旧駅舎の保存活動も進行中である。 かつての駅舎や線路、待合室といった建造物は、地域を長く結んだ鉄路の物理的な痕跡として残存する。霧深い夜間に訪れた場合、廃絶された空間に対する不安感、霧による知覚の歪み、線路を伝わる風音が、往来した列車への記憶と交錯する可能性がある。

三次市·13 views
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旧呉海軍工廠廃墟

呉海軍工廠は1889年の呉鎮守府設置に伴い造船部として発足し、1903年に造兵廠と統合された。東洋一と称される設備を備え、戦艦大和をはじめ戦艦長門・扶桑、航空母艦赤城・蒼龍など数多の艦艇を建造した。明治から昭和初期にかけて日本海軍の主要な軍事工場として機能した。戦中には工廠での製造作業に従事する工員と軍属が過酷な労働環境下で働き、その過程で多くが命を落とした。1945年6月22日の軍港空襲ではB-29爆撃機が来襲し、呉海軍工廠関係の死者は約1900名に上った。戦後は1945年10月に廃止され、現在は民間の造船施設として運営されている。跡地には煉瓦造りの遺構や石積みの岸壁といった往時の施設の一部が現存し、戦争の記憶を伝える物理的な証拠として残されている。訪れる場合は日中の訪問に限定し、立入制限区域への侵入は厳に慎むこと。

呉市·11 views

すべてのスポット

旧滝山製糸工場
水辺·広島県 三次市

旧滝山製糸工場

調査対象である広島県三次市の旧滝山製糸工場は、プロジェクトデータベースに登録される廃墟遺構であり、明治期から昭和期にかけて繰糸を主要業務とした地方製糸工場として機能してきたとされる。内部データベースには女工たちの過酷な労働と近代化への寄与が記されており、閉鎖後の廃墟状態での心霊現象の報告も複数記載されている。しかし、この施設の正確な創業年・閉鎖年、具体的な労災事件の有無、現在の建物の状態、地理的な水辺との関係性など、記事執筆に必須となる確かな歴史的根拠を、複数の公式ソース(自治体資料・報道・郷土史・産業遺産データベース)から検証することができていない。唯一無二の記事を執筆するには、Wikipedia・三次市役所・広島県の産業遺産記録・地元報道アーカイブなど、信頼できる外部情報源から多角的に材料を集め、転載を避けた形で統合・構成する作業が不可欠である。

三次市霧の海(三江線廃線跡)
水辺·広島県 三次市

三次市霧の海(三江線廃線跡)

広島県三次市を流れる江の川沿いに残る三江線の廃線跡は、1975年に全通した鉄道路線が2018年3月31日に営業を終えた後、山間盆地に遺された遺構である。三次盆地は西城川・馬洗川・可愛川が合流して江の川となる地形に位置し、晩秋から初春にかけて、川が運んできた冷気によって川霧が発生する。霧は地表50~100メートルの間に液体のように立ちこめ、廃ホーム周辺は特に視界が遮断された環境となる。 三江線は全通までに45年を要した後、43年の運行で廃止された。沿線の過疎化、少子高齢化、マイカー利用の拡大、および2006年と2013年の大規模災害による長期運休が廃止の主因である。廃線後、三次市は一部区間をレールマウンテンバイクなどの観光施設に転用し、旧駅舎の保存活動も進行中である。 かつての駅舎や線路、待合室といった建造物は、地域を長く結んだ鉄路の物理的な痕跡として残存する。霧深い夜間に訪れた場合、廃絶された空間に対する不安感、霧による知覚の歪み、線路を伝わる風音が、往来した列車への記憶と交錯する可能性がある。

隧道・トンネル·広島県 三次市

赤名トンネル

赤名トンネルは広島県三次市布野町横谷と島根県飯南町上赤名を結ぶ国道54号の隧道で、1964年9月16日に開通した。全長は約600メートル、標高はおよそ550メートルに達し、開通前は赤名峠越えで4.8キロメートルを要した道のりを2.8キロメートルに短縮した。峠そのものは古代から出雲と備後を結ぶ交通路として利用され、近世には石見銀山の銀を運ぶ銀山街道の最大の難所とされていた。このトンネルについては、白い服を着た若い女性の姿がトンネル内に現れ、走行中の車の前に立って消えるという話が伝えられている。ほかにも、もんぺ姿の老女が車にしがみついてくる、ランドセルを背負った子どもの姿が夜間に見られる、車内で女性のささやき声が聞こえるといった話も語られている。これらの現象は、峠道特有の急な下り坂やカーブが続く地形で交通事故が多いことと結び付けて語られることが多く、事故で亡くなった人々の霊であるとする見方が示されている。一方で、目撃情報の多さに比べて、心霊スポットとされる根拠は乏しいという指摘もある。

旧中国四国地方軍大型壕跡
隧道・トンネル·広島県 呉市

旧中国四国地方軍大型壕跡

広島県呉市に残る軍用地下壕は、太平洋戦争末期の1943年から1945年4月にかけて山腹に掘削された防空指揮施設である。鉄筋コンクリート半地下構造で、天井と外壁の厚さが1.5m程度に及ぶ設計となっており、大型爆弾への耐性を備えている。地下通路は南北24m、東西22m、最大高さ8.8m程度のスケールを有し、通信室や指揮室を備えていた。 呉は海軍の重要基地であり、1945年3月から7月にかけて連合国軍による激しい空襲を受けた。3月の攻撃および7月の焼夷弾爆撃では艦艇の沈没・大破が相次ぎ、7月の空襲により市街地の大規模な焼失が生じた。 戦後、この壕跡は部分的に一般公開されるなど、戦争の歴史を記録する遺構として機能してきた。

旧呉海軍工廠廃墟
水辺·広島県 呉市

旧呉海軍工廠廃墟

呉海軍工廠は1889年の呉鎮守府設置に伴い造船部として発足し、1903年に造兵廠と統合された。東洋一と称される設備を備え、戦艦大和をはじめ戦艦長門・扶桑、航空母艦赤城・蒼龍など数多の艦艇を建造した。明治から昭和初期にかけて日本海軍の主要な軍事工場として機能した。戦中には工廠での製造作業に従事する工員と軍属が過酷な労働環境下で働き、その過程で多くが命を落とした。1945年6月22日の軍港空襲ではB-29爆撃機が来襲し、呉海軍工廠関係の死者は約1900名に上った。戦後は1945年10月に廃止され、現在は民間の造船施設として運営されている。跡地には煉瓦造りの遺構や石積みの岸壁といった往時の施設の一部が現存し、戦争の記憶を伝える物理的な証拠として残されている。訪れる場合は日中の訪問に限定し、立入制限区域への侵入は厳に慎むこと。

安芸灘廃島の謎
水辺·広島県 呉市

安芸灘廃島の謎

広島県呉市沖の安芸灘に浮かぶ小島は、1897年から1902年にかけて大日本帝国陸軍の要塞施設として整備されました。ロシア海軍の南下に備えるため、瀬戸内海の要衝に砲台が設置され、島全体が防衛拠点として機能していました。第一次世界大戦を経て豊予要塞の完成により戦略的価値が失われ、1920年代に廃止が決定されました。現在、島には砲座の跡、弾薬庫、兵舎跡などの構造物が風化しながら残されており、瀬戸内海の戦争遺跡として静かに存在しています。 上陸が制限されているため、海上から眺める廃墟の景観が主にネット上で注目され、無人島に残る旧軍施設という希少な歴史遺産として語り継がれています。戦時中に駐留していた兵士たちの生活の痕跡と、戦後の自然による風化が重層する空間として、瀬戸内の戦争史を物理的に伝える場所となっています。

魔女の館野呂山
公園・城址·広島県 呉市

魔女の館野呂山

広島県呉市の野呂山は、弘法大師が修業したと伝えられる古い霊山だ。730年には山麓に堂が建てられ、以降、行人が修行地として拠点を置いてきた。瀬戸内海国立公園の区域に指定される観光地だが、その一角に「魔女の館」と呼ばれる廃墟がひっそり立っている。 この建物は1970年代、野呂山の別荘地開発に伴って建設された。ドイツのドラッヘンブルク城を模した3階建ての西洋館で、当初はレクリエーション施設として計画されていた。完成は1976年。高度経済成長の終焉とほぼ同時に建てられたこの構造物は、バブルの最後の光と陰を象徴するような存在である。 1973年のオイルショックは、野呂山一帯の観光開発を一変させた。同じ山上に営業していた遊園地は1974年に閉鎖。この経済的激変のなか、城館風の別荘地開発も投資家の熱を失い、多くの施設が未完成のまま、あるいは完成後も利用されぬまま放置された。「魔女の館」もその一つだ。窓には鉄格子が嵌め込まれ、かつての居住の痕跡を重く留めている。 ネット上では、この廃墟を訪れた者の間で超常現象の語り伝えが行われている。バーの鍵がかかった窓に人影が映るとの証言、2階の揺り椅子に座ると憑依されるとの言説、あるいは山道に首のない乗り手の姿が見えるという、複数の怪異報告が並んでいる。しかし、これらは往々にして根拠の定かでない経験談である。むしろ注目すべきは、この建物が立つ場所そのものが、経済転換の挫折を物質化した地点であるという現実だ。古い信仰地と新しい投機の産物が重なる野呂山のなかで、城館は時の経過を凝結させる装置として機能している。

安芸高田市の旧武家屋敷
宿泊・居住跡·広島県 安芸高田市

安芸高田市の旧武家屋敷

安芸高田市の旧武家屋敷は、毛利元就が生涯の本拠とした吉田郡山城の城下町に遺存する家臣団の屋敷跡である。郡山城は戦国期に東西1.1km、南北0.9kmの山全体に及ぶ中国地方最大級の山城として築かれ、280以上の防御施設を配置した複雑な要塞体系を持っていた。城下では組織的な町割りによって商家や武家の屋敷が配置され、吉田町として機能していた。関ヶ原の戦い後、毛利氏が広島城へ本拠を移すと郡山城は廃城となったが、市内に残存する屋敷跡や町並みの遺構は戦国期の都市構造を今に伝える。現在、郡山城跡は国指定史跡として、また毛利一族の墓所は史跡として保全されており、市による慰霊と顕彰が継続されている。訪問者の間では夜間に屋敷跡から複数の男声が重なり合うような響きが聞こえるという報告があるが、これは戦国期に当地に集った人々への記憶がもたらすものと解釈される傾向にある。

幽霊の棲む江波邸
その他·広島県 広島市

幽霊の棲む江波邸

江波は広島市中区の海辺の集落で、江戸期は瀬戸内海の島だった。明治初期の埋立により陸続きとなり、外港として機能した。戦前は船大工や漁業者の家々が立ち並び、古い木造建築が密集していた。1945年8月6日の原爆投下時、背後の山に隠れた地形が災いして火災から守られ、周辺が焦土と化する中で江波は焼け残った。戦後、区画整理や埋立が進み、町並みは大きく変貌した。旧家を含む戦前の建物の多くが解体・転売され、かつての集落の痕跡は地図からも消えつつある。

旧陸軍被服支廠
路上・交差点·広島県 広島市

旧陸軍被服支廠

旧陸軍被服支廠では、夜間に赤煉瓦の壁沿いを歩くと、どこからともなく呻き声や泣き声が聞こえてくるという噂が語られている。「助けてくれ」という声が聞こえた、焦げたような異臭が漂ってきた、という体験談がSNSや心霊掲示板に複数投稿されているとされる。また、外周の柵越しに建物を撮影した写真に、無数の白い人影や手形のようなものが写り込んでいたという報告もあると言われている。原爆投下直後、多くの被爆者がこの倉庫に運び込まれ、そのまま息を引き取ったという歴史的背景を知る地元の人々の間では、「あの場所には今も魂が残っている」と囁かれることがあるようだ。 広島市南区出汐2丁目に建つ4棟の赤煉瓦倉庫は、旧陸軍被服支廠の現存遺構である。1913年に軍服・軍靴の製造・保管を目的として建設され、鉄筋コンクリートと煉瓦を組み合わせた当時最先端の構造を持つ。1945年8月6日の原爆投下時、爆心地から約2.7キロメートルという距離にありながら躯体は倒壊を免れ、市内の医療施設が次々と機能を失う中、救護所として使用された。その後は民間企業の倉庫や広島大学医学部の倉庫を経て広島県の所有となり、被爆建造物としての保存問題が長年議論されてきた。2019年には3棟を耐震化のうえ保存する方針が示され、現在も活用方法の協議が続いている。敷地は柵で囲まれており、年に数回の公開イベント以外は内部への立ち入りはできない。

原爆ドーム
路上・交差点·広島県 広島市

原爆ドーム

1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾の爆心地から約160メートルに位置していた広島県産業奨励館は、爆発による熱と爆風で内部が炎上し、木造部分は焼失しました。コンクリートと鉄骨製の外壁と柱、穹隆形の屋根骨組みだけが残され、現在の原爆ドームとなっています。その直後から多くの被爆者が川を求めて元安川に向かい、熱傷と放射線被曝によって亡くなられました。 戦後、復興の象徴として、また原爆被害の証拠として保存の議論が繰り返されてきた建造物です。1996年にユネスコ世界遺産(負の遺産)に登録され、平和記念公園と一体となって国内外の来訪者に戦争と平和について考える場を提供しています。慰霊碑への献花や献水、年1回の原爆死没者慰霊式・平和記念式典が営まれ、被爆者と遺族によって亡くなられた方々への哀悼が今も守られています。 心霊現象として語られることもありますが、それは物理的な事象というより、この土地で失われた多くの生命と、時間を超えた祈りの感覚が、訪問者の心に呼び起こされる経験を言い表したものと言えます。

水辺·広島県 広島市佐伯区

魚切ダム

広島市佐伯区、八幡川上流に位置する魚切ダムは、1945年の枕崎台風や1951年のルース台風による洪水被害を受け、広島県が1969年から建設に向けた調査・検討を進め、169億円を投じて1981年に完成した重力式コンクリートダムである。治水・上水道・発電を目的とし、ダム湖は窓竜湖と呼ばれる。周辺の山は戦時中に遺体処理場として使われたとの説があり、これに関連して皮膚が爛れた霊や顔の崩れた霊、白い服を着た女性の霊が目撃されるという噂が広まっている。ダム北側にあるトンネルでも同様に女性の姿を見たとの証言が複数報告され、オーブや人魂が写り込む心霊写真、訪問時の吐き気や頭痛、鳥肌といった体調不良を訴える声も見られる。実際に、車内に遺書を残した女性の遺体が湖面で発見された事案が報道されており、暴行事件に絡んでダム付近が使われたとする噂も伝えられ、こうした現実の出来事が心霊譚に重なりながら伝わっている。

商業・遊興跡·広島県 広島市安佐北区

関川荘

関川荘は広島市安佐北区白木町の山あいに位置する、昭和30年代に地元の資産家の出資で開業したとされる日帰り入浴・食事施設の廃墟である。アクセスの不便さと経営不振が原因で1990年代初頭までに閉鎖されたと伝えられる。閉業後は補修されることなく放置され、現在は建物の老朽化が進み、内部は崩落が著しく立ち入りが困難な状態にある。敷地入口には観音渕と呼ばれる小さな滝つぼがあり、そのほとりには地蔵が祀られている。敷地奥には送迎用とみられる日産キャブライトの廃車が2台残されている。心霊の噂としては、かつて温泉浴場があった場所に女性の霊が現れるというものが複数の記録で共通して伝えられている。この女性が誰であるか、どのような経緯で亡くなったのかを示す具体的な記録は確認できず、営業当時に施設内で死亡した人物ではないかという推測が語られるにとどまる。

己斐峠
山道・峠·広島県 広島市西区

己斐峠

広島市西区と安佐北区を結ぶ山道に位置する己斐峠は、かつて広島と周辺地域を繋ぐ重要な道筋であった。現在でも地域住民の生活道として機能するこの峠は、山越えルートの特性から夜間の通行が限定的であり、昼間でも人通りが少ない区間がある。峠周辺の植生が鬱蒼としており、四季を通じて湿度が高く、朝霧が立ち込めやすい地形的特徴を持つ。地形学的には、急勾配と急カーブが連続する道路構造が特徴で、過去には交通事故が記録されている。峠の名称「己斐」は古い地名に由来するものと考えられるが、具体的な語源や由緒については地元の郷土資料に記載がある可能性がある。ネット上では心霊スポットとして言及されることもあるが、具体的な被害報告や著名な事件の記録は確認されていない。山道特有の環境と交通事故リスク、そして地理的な隔離性が、このスポットに対する社会的関心を生み出しているものと考えられる。

のうが高原廃墟群
宿泊・居住跡·広島県 東広島市

のうが高原廃墟群

広島県廿日市市の野貝原山に位置するのうが高原廃墟群は、かつての大規模リゾート施設跡地である。1965年に廿日市観光農園として営業を開始し、1971年に「のうが高原」と改名して本格的な開発が進められた。バブル景気のさなか、ホテル、キャンプ場、温泉施設など多くの建造物がこの山頂に立ち並んでいた。 この場所が独特の磁場を持つ理由は、施設開発以前に遡る。山頂には古代から磐座(いわくら)と呼ばれる神聖視される巨石群が散在しており、広島県の古社・速谷神社の奥院として位置付けられていた。開発時には、ホテルの大規模な岩風呂などがこれら既存の磐座を施設に取り込む形で建設されたことが知られている。1970~80年代には音楽フェスティバルやイベント大会が開催され、多くの観光客を集めた。 しかし建設費が嵩み、1980年代の観光減退とともに経営難に直面。1986年に倒産して以来、建物は急速に朽ち果てた。老朽化した建造物の危険性から、2000年代には立ち入りが困難になり、廃墟探訪の対象と化していった。2020年代には跡地がメガソーラー建設予定地となり、残存していた建物もほぼ消失した。 古代の聖地が観光地化され、さらに廃墟化するという急速な衰退の過程で、この場所は心霊スポットとしての評判を帯びるようになった。実際の怪異報告は限定的だが、失われた繁栄と場所の由来という構図が、ネット上では「正体不明の霊が徘徊する」という伝聞として流通している。建築廃墟としての物理的な危険性と、失われた時代への郷愁が、このスポットの「霊性」を生み出しているといえよう。

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