福島県の心霊スポット

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会津・中通り・浜通りの三地方からなる福島県は、戊辰戦争最大の悲劇・会津戦争の舞台となった地である。十六、七歳の少年たちが城下の炎を見て自刃した飯盛山の白虎隊、南北朝の戦場として知られる霊山、廃道に沈む旧三森トンネル——会津武士の忠義と東日本大震災・原発事故の記憶が幾重にも重なり、奥州の闇は今も深く静かに横たわっている。

人気スポット TOP10

旧甲子トンネル
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旧甲子トンネル

福島県西白河郡西郷村と下郷町を結ぶ国道289号甲子道路は、1970年の国道指定から38年間、自動車での通行を遮断された交通難所だった。標高1,400メートルの甲子峠を越える唯一のルートでありながら、険しい地形と豪雪のため、1975年の着工から2008年の開通まで33年の歳月を要した。この長い工期の中で、地形と工事は幾度となく衝突した。2002年の台風6号による集中豪雨は甲子峠付近で大規模な地滑りを引き起こし、それまで敷設されていた複数のトンネルと橋梁の廃棄を余儀なくさせた。当初の甲子道路では、きびたきトンネルをはじめとする複数の坑道が掘られたが、この地滑り被害によってルート全体が見直され、新たに掘り直される羽目になったのである。廃止されたトンネルには片見トンネルなどが含まれ、約7年間の運用期間を経て2002年に封鎖された。その後、迂回ルートとして新たに約900メートルのトンネルが新設され、2008年9月21日、全長4,345メートルの甲子トンネルがついに開通した。だが新しいトンネルも周囲の地質によって試験されることになる。開通後、トンネルに含まれるスメクタイトという膨張性の鉱物が水分を吸収し、路面が最大33センチメートルも隆起する異常が発生した。トンネル内のひび割れや水漏れも相次ぎ、その後の調査で地震とトンネル工事による地盤の劣化が問題の背景にあることが判明した。こうして、難工事と自然の猛威、そして地質学的な異常現象が折り重なった場所として、旧甲子トンネルと廃止区間の存在は知られるようになった。今日、旧道に残された廃トンネルの遺構は、かつての工事の苦労と、この峠がいかに困難な地形であるかを物語る証として、山中に静かに存在している。

西白河郡西郷村·
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赤い足跡
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赤い足跡

いわき市の郊外にある交差点付近では、訪問者が何らかの違和感を感じたという報告がある。ユーザー投稿では、昼間の来訪時に理由のない気分の悪さを感じた、また別の投稿では夜間に乗車中に後部座席に存在しない誰かの存在を感じたという体験が述べられている。これらは個人の感覚体験であり、一貫した物理的現象として記録されているわけではない。訪問時には周辺が住宅街であることに注意し、迷惑行為にならない範囲にとどめることが望ましい。

いわき市
霊山
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霊山

福島県伊達市と相馬市の境にある霊山(りょうぜん)は、標高825メートルの山である。安山岩の柱状節理が露出した独特の山容で、奇岩怪石の連なる山頂部は古代から修験道の聖地として知られてきた。 寺伝によれば、貞観元年(859年)、慈覚大師円仁がこの山に登って霊山寺を開いたとされる。延暦寺と関係の深い天台宗の修験道場として整備され、平安期から中世にかけて東北地方の山岳信仰の重要拠点として栄えた。最盛期には3,600の僧坊と修行僧を擁し、東北地方有数の宗教センターとして機能したと郷土史に記録される。 南北朝動乱期に入って、霊山は政治・軍事の舞台にも引き込まれる。延元2年(1337年)、南朝方の鎮守府大将軍・北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、霊山寺の伽藍を活かして霊山城を築いた。霊山城は、南朝方が陸奥国を統治するための軍事拠点として、また東北南部の南朝勢力の中心として位置づけられた。 北畠顕家は後醍醐天皇の側近として南朝方を支えた中心人物で、たびたび関東・東北を転戦した。延元3年(1338年)、和泉国石津(現在の大阪府堺市)で北朝方の高師直軍と戦って戦死した。享年21、若き南朝の英雄として、軍記物語『太平記』に詳しく描かれている。 顕家の死後も霊山城は南朝方の拠点として機能を続けたが、貞和3年(1347年)、北朝方の畠山高国と吉良貞家連合軍の猛攻により陥落した。城と霊山寺の伽藍はことごとく焼き尽くされ、1,000年近い宗教センターとしての歴史が終わった。 戦後、霊山は1936年(昭和11年)に国の史跡に指定された。山頂周辺には霊山城跡、伽藍跡の礎石、北畠顕家ゆかりの場所などが点在し、歴史散策のコースが整備されている。霊山の山頂周辺一帯は奇岩と紅葉の名所としても知られ、福島県を代表する登山スポットのひとつとなっている。 登山道は霊山子供村駐車場から登り、山頂まで片道約1時間半。一般のハイカーから登山初心者まで安全に楽しめる難易度。秋の紅葉期(10月中旬から11月初旬)と春の新緑期が特に人気の高い時期である。

伊達市
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いわき市炭鉱地帯廃墟の坑夫霊

福島県いわき市は太平洋に面した地域で、明治期から昭和中期にかけて常磐炭田の中心地として発展した。常磐炭田は日本の主要な石炭産地の一つで、最盛期には100を超える鉱山が稼働し、国内炭出量の約1割を占めていた。坑口集落や炭住長屋、選炭場が市内各所に営まれ、明治から昭和にかけて日本の工業化を支えた。 坑内労働は極めて危険を伴い、複数の重大事故が記録されている。特に1927年3月27日には内郷町の町田坑で大規模な坑内火災が発生し、186名が亡くなっている。このほか落盤やガス中毒、水没事故も報告されている。高度経済成長期に石油へのエネルギー転換が進むと採算が悪化し、各鉱山は段階的に閉山を迎え、1976年に最後の炭鉱が閉山した。 現在、坑口跡は暗がりに包まれ、かつて機械音が響いていた空間は沈黙へと変わった。寄せられる体験談で語られるのは、深夜に坑口跡付近を通ると地中からトロッコの軋りに似た音や呻きが聞こえる、無風のなかで淡い光が揺れた、といったものである。このような現象は、産業遺産としての場所の記憶と、実在した複数の労働災害の履歴が、地形的特性(地下空間、暗がり)と重なることで、音響的・視覚的な錯覚を生じさせるものと考えられる。 いわき市石炭・化石館や慰霊碑を通じて、坑夫たちの労働と犠牲への記憶が世代を超えて保存されている。旧炭鉱地帯の坑口跡や廃坑施設は私有地・立入禁止区域が多く、陥没や有毒ガス、崩落の危険が極めて高い。訪れる場合は公開施設や慰霊碑を昼間に巡り、坑夫への敬意を欠かさないこと。

いわき市·19 views
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天神沼

会津若松市郊外の山あいに位置する小規模な沼。水面が黒く見えることから「黒い池」との別称で知られ、古くから地域で認識されてきた。会津盆地を取り巻く山々の中にあり、会津地方で根強い水神信仰の対象地となっている。沼の周辺は足場に乏しく、特に夜間は霧が濃くなりやすく、方向感覚を失いやすい地形的特性を持つ。地元では水難を経験した土地として認識されており、季節ごとの小祭や花を手向けるなど、水神への祈りと犠牲者への弔いが穏やかに継続されている。

会津若松市·14 views
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白虎隊自刃の地・飯盛山

飯盛山は1868年の戊辰戦争における会津藩の悲劇の象徴地である。会津藩が若年層を年齢別に編成した白虎隊のうち、16~17歳で構成された士中二番隊が、戸ノ口原での戦闘で新政府軍に敗退した後、この山頂に到達した。当時城下から望む鶴ヶ城天守の周辺が黒煙に包まれているのを目撃した少年たちは、城の落城と判断し、武士の名誉を守るべく自刃を決断した。記録では20名が自刃し、19名が確認されている。ただし一人、飯沼貞吉のみが救助されて生き延び、その証言により白虎隊の悲劇は歴史に刻まれることになった。 現在、飯盛山には白虎隊十九士の墓所と慰霊堂が立ち、さらに宇賀神堂、国指定重要文化財のさざえ堂が建つ。毎年春秋の隊士祭では多くの参拝者が訪れ、少年たちの鎮魂が営まれている。歴史的追悼地として現在も深い敬意に包まれた空間を保ち続けている。

会津若松市·12 views
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須賀川市旧阿武隈川水害霊

福島県須賀川市は江戸時代、奥州街道屈指の宿場町として栄えた地である。市内中心部を貫く阿武隈川は流域面積約5,400㎢の一級河川で、舟運による物資輸送の要として機能してきた。しかし同時に、この河川は増水のたびに氾濫を繰り返す「暴れ川」として知られ、流域の集落は水害に幾度も見舞われてきた。記録に残る被害としては、1986年の台風による大規模な洪水、1998年の豪雨被害、そして2019年の令和元年東日本台風では支流を中心に50か所以上の氾濫が発生している。 こうした水害の繰り返しのなかで、近代以降も堤防の整備や河川改修が進められてきた。流域の集落では、川で命を落とした人々への供養と水神への祈りが世代を超えて静かに受け継がれ、堤防沿いには水害供養塔や祠が今も維持されている。増水後の河岸沿いの道を歩くと、濁流の方向から低い呻き声に似た響きが断続的に聞こえるという語り部の証言が地域に共有されている。これは単なる怪異ではなく、川と暮らす緊張感を伝える戒めとして、防災意識とともに語り継がれてきたものである。 訪問する場合は日中に堤防上の整備された道から景観を眺めるにとどめ、水害の犠牲者と治水に携わった人々への敬意を欠かさないこと。夜間の河原への接近は転落・溺水の危険が極めて高いため、心霊目的の単独訪問は控えることが望ましい。

須賀川市·10 views
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楢葉町旧原発避難区域の廃墟

福島県浜通りの楢葉町は、2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故により、町域全域が長期避難区域に指定された。最初は警戒区域として完全に立ち入り禁止となり、2012年8月には避難準備区域に緩和された後、2015年9月5日に避難指示が全面解除された。全域避難を強いられた自治体の中では最初の完全解除である。 避難指示解除後、インフラは段階的に復旧した。JR常磐線の全線再開通、商業施設の再開、医療機関の再稼働など、表面的な社会基盤は整備された。しかし帰還者は想定より遥かに少数にとどまった。長年の避難生活で避難先に生活基盤を確立した住民が多く、また原発との歴史を共有しながらも再び町に根付く決断には至らない者が大半である。 この現象のなかで、無人のまま放置された家屋が町のあちこちに点在するようになった。これら廃屋からは、夕暮れ時に物音や気配が感じられると訪問者の間で語られている。窓から灯りが漏れているように見える、庭に人影があるように感じる、風のない夜に衣擦れの音が聞こえるという報告が複数ある。廃屋本体に紐づく具体的な事件や被害者は伝わっていない。土地全体が経験した急速な離村という歴史的外傷が、残された建造物を通じて知覚されている状態と考えられる。

楢葉町·10 views
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金の橋・銀の橋(ふたご橋)

福島県猪苗代町と会津若松市の境、猪苗代湖から日橋川が流れ出る地点には、「金の橋」「銀の橋」と呼ばれる二連の橋が架かっている。1959年に完成したこの橋は、実際に金色・銀色をしているわけではなく、同時期に完成した対の橋であることから名付けられ、「ふたご橋」とも称される。国道49号が湖の流出口の中州を貫く形で通っており、猪苗代湖畔と会津盆地を結ぶ交通の要所となっている。 この橋を巡っては、深夜に通りかかった車の後部座席に、いつの間にか女性の姿が乗っているという噂が古くから語られている。タクシー運転手が客を降ろした後に後部座席を確認すると誰もいなかったという類の話や、一方の橋で見かけた女性の姿が次の橋でも同じように現れたという証言も伝わっている。二つの橋が連続して架かる地形そのものが、こうした怪異の型を生み出す土台になっているとみられる。 猪苗代湖は古くから水難事故が伝えられる湖であり、湖水が流れ出す起点にあたるこの橋周辺の怪異も、湖にまつわる死者への記憶と結びつけて語られることがある。

猪苗代町·8 views
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旧二岐温泉廃旅館

二岐温泉は福島県岩瀬郡天栄村、二岐山の山麓に湧く古湯で、開湯は安和2年(969年)と伝えられる。標高約800メートルのブナ林に囲まれた渓谷沿いにあり、江戸期には入浴を制限された隠し湯とされた。周辺には平家の落人が定住したという伝承も残る。カルシウム硫酸塩泉の湯は切り傷や火傷への効能で知られ、長く湯治場として利用されてきた。漫画家つげ義春が1967年に投宿し、作品『二岐渓谷』の舞台としたことでも知られ、その宿は改修後も玄関を残す形で営業を続けているという。現在も数軒の宿が点在する山あいの秘湯である。谷あいの木造建築と深い山霧が独特の景観を生むことから「廃旅館」として心霊の対象に挙げられることがあるものの、廃業した特定の宿の所在や、怪異・事件を裏づける信頼できる記録は確認できなかった。

岩瀬郡天栄村·7 views

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いわき市炭鉱地帯廃墟の坑夫霊
廃墟・残骸·福島県 いわき市

いわき市炭鉱地帯廃墟の坑夫霊

福島県いわき市は太平洋に面した地域で、明治期から昭和中期にかけて常磐炭田の中心地として発展した。常磐炭田は日本の主要な石炭産地の一つで、最盛期には100を超える鉱山が稼働し、国内炭出量の約1割を占めていた。坑口集落や炭住長屋、選炭場が市内各所に営まれ、明治から昭和にかけて日本の工業化を支えた。 坑内労働は極めて危険を伴い、複数の重大事故が記録されている。特に1927年3月27日には内郷町の町田坑で大規模な坑内火災が発生し、186名が亡くなっている。このほか落盤やガス中毒、水没事故も報告されている。高度経済成長期に石油へのエネルギー転換が進むと採算が悪化し、各鉱山は段階的に閉山を迎え、1976年に最後の炭鉱が閉山した。 現在、坑口跡は暗がりに包まれ、かつて機械音が響いていた空間は沈黙へと変わった。寄せられる体験談で語られるのは、深夜に坑口跡付近を通ると地中からトロッコの軋りに似た音や呻きが聞こえる、無風のなかで淡い光が揺れた、といったものである。このような現象は、産業遺産としての場所の記憶と、実在した複数の労働災害の履歴が、地形的特性(地下空間、暗がり)と重なることで、音響的・視覚的な錯覚を生じさせるものと考えられる。 いわき市石炭・化石館や慰霊碑を通じて、坑夫たちの労働と犠牲への記憶が世代を超えて保存されている。旧炭鉱地帯の坑口跡や廃坑施設は私有地・立入禁止区域が多く、陥没や有毒ガス、崩落の危険が極めて高い。訪れる場合は公開施設や慰霊碑を昼間に巡り、坑夫への敬意を欠かさないこと。

赤い足跡
路上・交差点·福島県 いわき市

赤い足跡

いわき市の郊外にある交差点付近では、訪問者が何らかの違和感を感じたという報告がある。ユーザー投稿では、昼間の来訪時に理由のない気分の悪さを感じた、また別の投稿では夜間に乗車中に後部座席に存在しない誰かの存在を感じたという体験が述べられている。これらは個人の感覚体験であり、一貫した物理的現象として記録されているわけではない。訪問時には周辺が住宅街であることに注意し、迷惑行為にならない範囲にとどめることが望ましい。

霊山
宿泊・居住跡·福島県 伊達市

霊山

福島県伊達市と相馬市の境にある霊山(りょうぜん)は、標高825メートルの山である。安山岩の柱状節理が露出した独特の山容で、奇岩怪石の連なる山頂部は古代から修験道の聖地として知られてきた。 寺伝によれば、貞観元年(859年)、慈覚大師円仁がこの山に登って霊山寺を開いたとされる。延暦寺と関係の深い天台宗の修験道場として整備され、平安期から中世にかけて東北地方の山岳信仰の重要拠点として栄えた。最盛期には3,600の僧坊と修行僧を擁し、東北地方有数の宗教センターとして機能したと郷土史に記録される。 南北朝動乱期に入って、霊山は政治・軍事の舞台にも引き込まれる。延元2年(1337年)、南朝方の鎮守府大将軍・北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、霊山寺の伽藍を活かして霊山城を築いた。霊山城は、南朝方が陸奥国を統治するための軍事拠点として、また東北南部の南朝勢力の中心として位置づけられた。 北畠顕家は後醍醐天皇の側近として南朝方を支えた中心人物で、たびたび関東・東北を転戦した。延元3年(1338年)、和泉国石津(現在の大阪府堺市)で北朝方の高師直軍と戦って戦死した。享年21、若き南朝の英雄として、軍記物語『太平記』に詳しく描かれている。 顕家の死後も霊山城は南朝方の拠点として機能を続けたが、貞和3年(1347年)、北朝方の畠山高国と吉良貞家連合軍の猛攻により陥落した。城と霊山寺の伽藍はことごとく焼き尽くされ、1,000年近い宗教センターとしての歴史が終わった。 戦後、霊山は1936年(昭和11年)に国の史跡に指定された。山頂周辺には霊山城跡、伽藍跡の礎石、北畠顕家ゆかりの場所などが点在し、歴史散策のコースが整備されている。霊山の山頂周辺一帯は奇岩と紅葉の名所としても知られ、福島県を代表する登山スポットのひとつとなっている。 登山道は霊山子供村駐車場から登り、山頂まで片道約1時間半。一般のハイカーから登山初心者まで安全に楽しめる難易度。秋の紅葉期(10月中旬から11月初旬)と春の新緑期が特に人気の高い時期である。

天神沼
山道・峠·福島県 会津若松市

天神沼

会津若松市郊外の山あいに位置する小規模な沼。水面が黒く見えることから「黒い池」との別称で知られ、古くから地域で認識されてきた。会津盆地を取り巻く山々の中にあり、会津地方で根強い水神信仰の対象地となっている。沼の周辺は足場に乏しく、特に夜間は霧が濃くなりやすく、方向感覚を失いやすい地形的特性を持つ。地元では水難を経験した土地として認識されており、季節ごとの小祭や花を手向けるなど、水神への祈りと犠牲者への弔いが穏やかに継続されている。

白虎隊自刃の地・飯盛山
神域・霊場·福島県 会津若松市

白虎隊自刃の地・飯盛山

飯盛山は1868年の戊辰戦争における会津藩の悲劇の象徴地である。会津藩が若年層を年齢別に編成した白虎隊のうち、16~17歳で構成された士中二番隊が、戸ノ口原での戦闘で新政府軍に敗退した後、この山頂に到達した。当時城下から望む鶴ヶ城天守の周辺が黒煙に包まれているのを目撃した少年たちは、城の落城と判断し、武士の名誉を守るべく自刃を決断した。記録では20名が自刃し、19名が確認されている。ただし一人、飯沼貞吉のみが救助されて生き延び、その証言により白虎隊の悲劇は歴史に刻まれることになった。 現在、飯盛山には白虎隊十九士の墓所と慰霊堂が立ち、さらに宇賀神堂、国指定重要文化財のさざえ堂が建つ。毎年春秋の隊士祭では多くの参拝者が訪れ、少年たちの鎮魂が営まれている。歴史的追悼地として現在も深い敬意に包まれた空間を保ち続けている。

旧津々良トンネル
隧道・トンネル·福島県 南相馬市

旧津々良トンネル

東北地方の山間部に位置する旧津々良トンネルは、地方道の難所を貫通するために建設された古い隧道のひとつである。坑門には正確な建設年や事業主体を示す銘板が残っているが、現在は風化と汚損のため判読困難な状態にある。文献資料では昭和初期から戦後復興期にかけての建造との推定があるが、確実な記録に当たれていない。 沿線では生活道路として長く使われ、近隣集落の通学路や物流路として機能してきた。集落の高齢化が進み、利用者が減少した1990年代以降、新道や峠経由のバイパスが整備されるにつれて、旧トンネルを通行する車両は減少した。現在は沿線の生活道としての役割をほぼ終え、ハイキングや撮影目的の訪問者がときどき訪れる程度となっている。 構造物自体は、両坑門ともに馬蹄形断面のシンプルなコンクリート造で、装飾性は乏しい。坑門上部には地名を刻んだ銘板の痕跡が残るが、判読は困難。内部は照明設備がなく、湿度が高いため壁面には苔が広がる。両坑口に植生が迫り、車両通行は事実上不可能。徒歩であれば通過可能だが、落石や陥没の兆候があるため、自治体は事前確認を推奨している。 地元の郷土史研究家による調査では、トンネル開通時の住民の喜びや、開通記念の式典の様子を伝える証言が残っているとの記録がある。一方で、本記事執筆時点でこのトンネルが文化財指定の対象になっている記録は確認できていない。同種の昭和期コンクリート造隧道は全国各地の山間部に現存し、土木史研究の対象として近年再評価が進んでいる。

南相馬市旧原発避難区域の廃墟
廃墟・残骸·福島県 南相馬市

南相馬市旧原発避難区域の廃墟

福島県南相馬市は、2011年3月の福島第一原子力発電所事故により、当初の警戒区域指定から始まった長期の避難を経験した地域である。事故後、市域の一部は帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の3段階に再編され、2016年7月の避難指示解除まで多くの住民が離散した。 この地域は、平将門の軍事訓練に起源し1000年以上続く相馬野馬追の伝統地として知られてきた。国指定重要無形民俗文化財(1952年指定)である同祭は、相馬中村・太田・小高の3神社と関連する各地で行われ、装甲した武者集団が馬で行進する光景が毎年繰り返されてきた。 15年以上の不在により、集落には無人の家屋、閉ざされた商店、児童の姿が消えた学校跡が点在する。こうした景観を背景に、訪問者の間でも建物内からの異音や人影の目撃といった体験談が散見されるが、事故という明確な歴史的断絶を背景に、これらはしばしば喪失感と深く結びついた証言として伝えられている。

隧道・トンネル·福島県 双葉郡浪江町

仙人沢トンネル

仙人沢トンネルは福島県双葉郡浪江町室原・川房地区にまたがる国道114号(福浪線)上のトンネルで、全長は1024.44メートルにおよぶ。大柿ダムの建設によって水没する旧道の付け替えとして、農林水産省東北農政局の請戸川農業水利事業の一環で1977年度頃に着工し、1981年3月に竣工した。町内でも有数の長さを持つトンネルで、内部にはラジオ再放送設備が設置されているとされる。2011年の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故の後、この一帯は帰還困難区域に指定され、長期にわたり一般車両の通行が制限された。2017年に通行が再開され、2023年には特別通過交通制度の適用も終了している。こうした背景を持つ長大なトンネルについて、複数の心霊関連サイトでは女性とみられる霊の目撃報告が最も多いと紹介されている。走行中に理由がわからないまま反対車線側に進んでしまい事故に至ったという証言や、壁面に人の顔のようなものが浮かび上がって見えたという体験も伝えられる。近接する大柿ダムでの水難や投身自殺との関連を指摘する声もあるが、事件性を裏付ける記録は確認されていない。

只見町旧只見線水害霊
橋・高架·福島県 只見町

只見町旧只見線水害霊

福島県南会津郡只見町は、2011年の新潟・福島豪雨で甚大な被害を受け、JR只見線の橋梁が複数流失するなど、地域の歴史に大きな爪あとを残した土地である。長い不通期間と復旧工事を経て路線は再開したが、流された旧橋梁の跡地や付け替え前の路盤跡には、いまも「水害の記憶」が空気のなかに残ると語られ、心霊スポットの文脈でも繰り返し名前が挙がる場所となっている。 寄せられる体験談で多いのは、夜に旧橋梁跡の近くを通ると、川の方向から呻き声に似た低い音が断続的に聞こえる、というものである。霧の濃い晩に対岸の路盤跡を歩く列車のような輪郭がぼんやりと現れた、岸辺で立ち止まると足元から這い上がってくる冷気を感じた、と語る訪問者がいる。被災の記憶が新しい土地ゆえに、現象を体験した人は決まって慰霊の気持ちを先に述べる傾向がある。 地元では、災害で命を失った方々への弔いを最優先に置きながら、再開した只見線への愛着を語ることが、復興の物語と共に編まれている。慰霊碑や追悼の場が川沿いに置かれ、現象の話は哀悼と分かちがたく結びついた形で受け継がれてきた。 只見川の流域は今も水位が大きく変動する一級河川であり、旧橋梁跡や旧路盤跡の周辺は崩落・滑落の危険が残る。被災地としての歴史を抱える土地でもあり、心霊スポット文脈で大声を上げる、刺激的な撮影をする行為は控え、訪れる際は慰霊の意味合いを共有してから現地に立つこと。再開した只見線に乗車して景色を眺める形が、地域への敬意ある接し方として推奨される。

国見町旧奥州街道の旅人霊
宿泊・居住跡·福島県 国見町

国見町旧奥州街道の旅人霊

福島県北端の国見町は奥州街道の要衝で、江戸期には藤田宿と貝田宿の二つの宿場を擁していた。五街道の一つである奥州街道は江戸から青森方面へ27の宿場を配置し、参勤交代の大名行列、商人、伊勢参りの巡礼など多くの旅人が往来した。宿場町はこうした旅人の往来を支えるため、本陣・脇本陣・旅籠を備え、伝馬(輸送用馬)と人足を常備していた。長旅の途上で病を得た旅人が宿場で亡くなる例は珍しくなく、その供養のため街道沿いに地蔵や供養塚が置かれている。江戸時代の宿場機能が失われた後、道路は現国道4号線へ転換されたが、旧街道の一部は農村地帯に細道として残存している。夜間に街灯が乏しく、農地や用水路の危険性もあり、当地が心霊スポットとして語られる際には、旅人の往来と往来者の死という歴史的背景が層をなしている。

旧二岐温泉廃旅館
宿泊・居住跡·福島県 岩瀬郡天栄村

旧二岐温泉廃旅館

二岐温泉は福島県岩瀬郡天栄村、二岐山の山麓に湧く古湯で、開湯は安和2年(969年)と伝えられる。標高約800メートルのブナ林に囲まれた渓谷沿いにあり、江戸期には入浴を制限された隠し湯とされた。周辺には平家の落人が定住したという伝承も残る。カルシウム硫酸塩泉の湯は切り傷や火傷への効能で知られ、長く湯治場として利用されてきた。漫画家つげ義春が1967年に投宿し、作品『二岐渓谷』の舞台としたことでも知られ、その宿は改修後も玄関を残す形で営業を続けているという。現在も数軒の宿が点在する山あいの秘湯である。谷あいの木造建築と深い山霧が独特の景観を生むことから「廃旅館」として心霊の対象に挙げられることがあるものの、廃業した特定の宿の所在や、怪異・事件を裏づける信頼できる記録は確認できなかった。

楢葉町旧原発避難区域の廃墟
集落・廃村·福島県 楢葉町

楢葉町旧原発避難区域の廃墟

福島県浜通りの楢葉町は、2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故により、町域全域が長期避難区域に指定された。最初は警戒区域として完全に立ち入り禁止となり、2012年8月には避難準備区域に緩和された後、2015年9月5日に避難指示が全面解除された。全域避難を強いられた自治体の中では最初の完全解除である。 避難指示解除後、インフラは段階的に復旧した。JR常磐線の全線再開通、商業施設の再開、医療機関の再稼働など、表面的な社会基盤は整備された。しかし帰還者は想定より遥かに少数にとどまった。長年の避難生活で避難先に生活基盤を確立した住民が多く、また原発との歴史を共有しながらも再び町に根付く決断には至らない者が大半である。 この現象のなかで、無人のまま放置された家屋が町のあちこちに点在するようになった。これら廃屋からは、夕暮れ時に物音や気配が感じられると訪問者の間で語られている。窓から灯りが漏れているように見える、庭に人影があるように感じる、風のない夜に衣擦れの音が聞こえるという報告が複数ある。廃屋本体に紐づく具体的な事件や被害者は伝わっていない。土地全体が経験した急速な離村という歴史的外傷が、残された建造物を通じて知覚されている状態と考えられる。

泉崎村谷地久保旧村営住宅
宿泊・居住跡·福島県 泉崎村

泉崎村谷地久保旧村営住宅

福島県西白河郡泉崎村は奥州街道の宿場として発展した土地で、その谷地久保地区には、かつて村営住宅として使われていた建物があった。この住宅に家族で暮らしていた者の証言によれば、深夜に二階の窓ガラスへ骸骨のような人影が浮かんだのを見た、日中に部屋で休んでいた際に体が動かなくなる金縛りに見舞われたという体験が伝えられている。建物は現在すでに解体されたとされ、周辺では住宅前の路上で凍死体が見つかった、近くの鉄筋コンクリート造の村営住宅でも自死者が出たなど、複数の不幸な出来事が重なる一帯としても知られる。同じ谷地久保では、退去後に購入した者が一週間足らずで手放したという別の廃屋も存在し、老婆の姿をした霊が目撃されるとの話もある。こうした証言が積み重なり、谷地久保周辺は泉崎村を代表する怪異の伝わる場所として数えられている。

金の橋・銀の橋(ふたご橋)
橋・高架·福島県 猪苗代町

金の橋・銀の橋(ふたご橋)

福島県猪苗代町と会津若松市の境、猪苗代湖から日橋川が流れ出る地点には、「金の橋」「銀の橋」と呼ばれる二連の橋が架かっている。1959年に完成したこの橋は、実際に金色・銀色をしているわけではなく、同時期に完成した対の橋であることから名付けられ、「ふたご橋」とも称される。国道49号が湖の流出口の中州を貫く形で通っており、猪苗代湖畔と会津盆地を結ぶ交通の要所となっている。 この橋を巡っては、深夜に通りかかった車の後部座席に、いつの間にか女性の姿が乗っているという噂が古くから語られている。タクシー運転手が客を降ろした後に後部座席を確認すると誰もいなかったという類の話や、一方の橋で見かけた女性の姿が次の橋でも同じように現れたという証言も伝わっている。二つの橋が連続して架かる地形そのものが、こうした怪異の型を生み出す土台になっているとみられる。 猪苗代湖は古くから水難事故が伝えられる湖であり、湖水が流れ出す起点にあたるこの橋周辺の怪異も、湖にまつわる死者への記憶と結びつけて語られることがある。

公園・城址·福島県 福島市

弁天山

福島市渡利地区の東側に位置する標高約142メートルの丘陵。江戸期以前は説話「山椒大夫」に登場する安寿・厨子王の居所とされる椿館があったとの伝承から椿山と呼ばれていた。寛文5年(1665年)、阿武隈川に舟運が開かれたのを機に、水運の安全を願って竹生島から弁財天が勧請され、以後弁天山と称されるようになったという。1702年に福島城主となった板倉氏が、この弁財天が城を見下ろす位置にあることを理由に河畔へ移したという記録も残る。1926年以降は公園として整備され、現在は芝生広場や遊歩道が設けられた市民の憩いの場となっている。一方で山中には使われなくなった建物(元動物病院とも噂される)の跡が残り、そこで殺人あるいは自殺があったとの噂が伝わる。事実として確認された記録ではないが、テレビや書籍で怪談を紹介してきた稲川淳二がこの場所を取材し番組で取り上げたこともあり、以後心霊スポットとして知られるようになった。女性の霊や、戦国期の落ち武者を思わせる霊を見たという目撃談、生首を目にしたという噂もあり、心霊写真が撮れるとも言われている。園内に残る古井戸を覗き込むと不幸が起こるとされ、覗いた帰路に事故に遭って死亡したという話も伝わっている。

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