東京都の心霊スポット

57 スポット10 カテゴリ

千年の都を抱える東京都は、徳川幕府の城下町として栄え、その地層に膨大な怨念を堆積させてきた。大手町に祀られる平将門の首塚、新宿の四谷怪談お岩稲荷、北条氏照の悲劇を伝える八王子城跡、戦中戦後の闇を吸い込んだ千駄ヶ谷トンネル、薬王院旧参道——平安の怨霊から空襲の犠牲者までが、煌々と輝く高層ビル群の足元で今も静かに息をしている。

人気スポット TOP10

千駄ヶ谷トンネル
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千駄ヶ谷トンネル

千駄ヶ谷トンネルは、その真上に江戸期創建の仙寿院という日蓮宗の寺院と墓地が広がることから、古くから「霊が集まりやすい場所」として都内の心霊マニアの間で語り継がれてきたとされる。トンネル内で白い人影を目撃した、突然エンジンが止まった、後部座席に人が乗り込む気配がしたなどの体験談がネット上に散見され、「墓地の真下を走るトンネル」という特異な立地がそうした噂に拍車をかけているとも言われている。また、深夜に通行すると車内の温度が急激に下がる、ラジオに意味不明な声が混じるといった怪異も報告されているとされるが、いずれも確認された事実ではなく、あくまでも噂・伝承の域を出ない。 トンネルの成り立ちを辿ると、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催に合わせて整備された、全長290メートルの自動車道であることがわかる。外苑東通りの慢性的な渋滞解消を目的として地下化が決定されたが、直上に正保元年(1644年)創建・徳川家康の側室お万の方ゆかりの仙寿院とその墓地が存在したため、墓地・境内を移転させず地下を貫通する形で建設された経緯がある。歩行者通行帯は設けられておらず徒歩での通過は不可。1964年当時の規格のまま現在も現役の都道として機能しており、オリンピック関連インフラとして土木史・都市計画史の観点からも貴重な構造物とされている。

渋谷区·
100%(2)
八王子城跡
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八王子城跡

八王子城跡は、東京都内屈指の心霊スポットとして知る人ぞ知る場所である。1590年の落城の際に命を落とした無数の将兵や女性・子供たちの霊が今なお城跡に漂っているという噂が、長年にわたって語り継がれている。特に「御主殿の滝」周辺では、落城の際に滝へ身を投げた女性たちの霊が目撃されるとされ、夜間に滝の方向から女性の泣き声や呻き声が聞こえてくるという体験談が複数報告されているという。また、山道を歩いていると突然カメラや録音機器が誤作動を起こしたり、写真に無数の光の玉(オーブ)が映り込んだりする現象が頻繁に起きると言われている。さらに、日中でも山中の一部では気温が突然下がり、人の気配を感じると訴える訪問者も少なくないとされる。 八王子城跡は、東京都八王子市元八王子町、深沢山の標高445メートルに広がる戦国末期の山城遺構である。城主・北条氏照が小田原城に不在の中、前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら約15,000の軍勢に攻められ、わずか一日で落城した。残された将兵や女性・子供を含む数千人が命を落としたとされ、その凄惨な歴史が心霊現象の噂の根底にあると言われている。現在は国の史跡に指定された史跡公園として整備され、復元石垣や曳橋なども公開されている。山頂の本丸跡までは登山道が整備されているが、八王子市は安全のため日没後の入山自粛を呼びかけている。

八王子市·
100%(1)
巣鴨プリズン跡地(東池袋中央公園・サンシャインシティ)
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巣鴨プリズン跡地(東池袋中央公園・サンシャインシティ)

東京都豊島区東池袋の一帯には、第二次世界大戦後に連合国軍が戦争犯罪人を収容した巣鴨拘置所、いわゆる巣鴨プリズンが置かれていた。極東国際軍事裁判などの判決を受けた者の刑がこの地で執行され、一九四八年十二月にA級戦犯七名の死刑が、その前後にBC級戦犯五十名あまりの刑が行われたと記録されている。施設は一九七一年に解体され、一九七八年には跡地に超高層のサンシャイン60を核とする複合施設サンシャインシティが開業した。処刑場のあった一角は豊島区立東池袋中央公園として整備され、一九八〇年には園内に「永久平和を願って」と刻まれた碑が建てられて、戦争の犠牲となった人々への慰霊が続けられている。 繁華な商業地の足下に処刑の歴史が重なるこの立地から、当地はしばしば心霊の話題と結びつけて紹介されてきた。公園やその周辺の施設で軍服を思わせる人影を見た、人魂のような光や原因の分からない物音に気づいた、といった話が来訪者から伝えられることがある。戦争と裁きの記憶が色濃く残る土地として、追悼の対象であると同時に、怪異が取り沙汰される場としても語られることがある場所である。

豊島区·
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等々力渓谷の怪談

東京23区で唯一の自然渓谷である等々力渓谷は、谷沢川が武蔵野台地の南縁を浸食して形成された1キロメートル余りの谷である。渓谷内の崖地には7世紀から8世紀にかけて造られた横穴古墳群が存在し、古代の埋葬地として活用されていた痕跡が今も残る。地名の由来は、渓谷の崖から落ちる不動の瀧が、その水音で「とどろいた」ことに由来するとされる。渓谷は古くから信仰の対象であり、平安時代後期には等々力不動尊が創建され、商売繁盛や厄除けの信仰地として機能してきた。1999年に東京都指定名勝に指定され、保護されている。地層からは粘土、礫、関東ローム層が観察でき、武蔵野の自然が都市部に残された空間としての歴史的重要性を持つ。

世田谷区·122 views
5

永代橋

永代橋は、東京都中央区新川と江東区佐賀を結び、隅田川に架かる橋である。元禄十一年(一六九八年)に幕府が架けた木橋を起源とし、財政難による廃橋の危機を町方の負担で乗り越えて存続した経緯を持つ。現在の鋼鉄アーチ橋は、関東大震災で焼失した後、大正末から昭和初めにかけての震災復興事業で架け替えられたもので、国の重要文化財に指定されている。 この橋がしばしば死の記憶と結び付けて語られる背景には、文化四年(一八〇七年)の落橋がある。深川の富岡八幡宮で十二年ぶりの祭礼が行われた際、深川へ渡ろうとする群衆が殺到し、その重みに耐えかねた橋の中央付近が崩れ落ちた。川へ転落した人々の被害は行方不明を含めて千数百人にのぼったと伝えられ、江戸期でも最大級の惨事として記録に残る。犠牲者を悼む「永代橋沈溺諸亡霊塔」は目黒区の海福寺に現存する。 こうした史実を踏まえ、落命した人々の声が川面から聞こえるといった怪異が、この橋にまつわる話として語られることがある。橋の下を流れる隅田川と、供養が続けられてきた慰霊の歴史が、都市の記憶を今に伝えている。

中央区·77 views
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玉川上水(太宰治入水の地)

玉川上水は、江戸時代の承応年間に江戸市中への給水を目的として開削された用水路で、多摩川の水を四谷方面までおよそ四十キロにわたって導いた歴史ある水路である。かつては水量が豊かで流れが速く、いったん落ちれば助かりにくい急流だったと伝えられ、近代以降は投身による死が相次いだ水辺としても知られた。東京都三鷹市を通る区間はその一部にあたる。 この流れが広く記憶されているのは、昭和二十三年六月、作家の太宰治が山崎富栄とともにこの水路で命を絶ったためである。二人の遺体は数日後に下流で発見され、発見日は太宰の誕生日にあたっていたとされる。太宰が水に入ったと考えられている付近には、郷里である青森の石を用いた玉鹿石の碑が置かれ、その一帯は現在「風の散歩道」として整備されて、三鷹駅からほど近い市民の散策路になっている。 急流ゆえに繰り返された死と、著名な作家の最期という記憶が同じ水辺に重なることで、この場所は哀切をまとった水辺として意識されてきた。穏やかな遊歩道の下を流れる水音のなかに、沈んだ気配や言葉にならない哀しみを感じ取るという受け止め方が生まれる場所として語られることがある。

三鷹市·70 views
7

高島平団地

東京都板橋区の高島平団地は、1972年に完成した、UR都市機構による日本最大級の公的住宅団地である。戦後の急速な人口流入に対応するため旧農地を開発し、1万170戸、約3万人が一度に入居した。地名は江戸時代の砲術家・高島秋帆に由来し、地下鉄との連携により都心へのアクセスが確保された。 1970年代後半から1980年初頭、団地は日本国内で自殺が集中する場所となった。1980年には133件に達し、報道機関によって「自殺の名所」と広く認識されるようになった。当局は1981年に転落防止柵やメッシュスクリーンを設置し、その後の件数は大幅に減少した。 現在、団地は高齢化が急速に進む課題に直面している。ピーク時(1991年)の約2万5千人から減少し、2012年には65歳以上が41.1%を占める状況が報告されている。高齢化に伴い孤立や見守りが地域の重要課題となり、自治会による福祉活動が日常的に展開されている。

板橋区·68 views
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八王子霊園

東京都八王子市元八王子町、武蔵野の西端にあたる加住丘陵に、東京都が運営する八王子霊園が広がっている。1971年(昭和46年)開園、面積約65ヘクタール、東京都営霊園としては最も新しい霊園のひとつである。 都営霊園は青山霊園、谷中霊園、染井霊園、雑司ヶ谷霊園、多磨霊園、小平霊園、八柱霊園、八王子霊園、瑞江葬儀所付属霊園の9園で構成され、東京都公園緑地部が一括管理を行っている。八王子霊園は都営霊園のなかで西端に位置し、丘陵地の地形を活かした公園型の墓地として設計された。 造成にあたっては、丘陵の自然林を約7割そのまま残す方針が取られた。コナラ、クヌギ、シイ、カシ類などの雑木林を維持しつつ、約500本の桜と670株のあじさいを園路沿いに植栽。春の桜、初夏のあじさい、秋の紅葉と、四季それぞれに見頃を迎える公園墓地としての性格が確立された。霊園というよりも自然公園としての散策ができる、東京都西部の隠れた花見スポットとしても知られている。 墓地区画は約2万区画、すべて統一規格の芝生墓地(4平方メートル)として設計された。従来の都営霊園に多い和型墓石・洋型墓石の自由設計を排し、規格化された墓石とプレート方式を採用することで、整然とした景観と効率的な維持管理を両立している。墓地区画の使用許可は東京都が公募制で抽選を実施しており、毎年数千件の応募が集まる。 霊園隣接地には歴史的に重要な遺跡が複数存在する。八王子城跡(国指定史跡、1590年落城)、北条氏照の墓、武蔵陵墓地(昭和天皇・香淳皇后が眠る武蔵野陵、大正天皇・貞明皇后が眠る多摩陵)が周辺数キロメートル圏内にある。武蔵陵墓地は宮内庁が管理する皇室の御陵で、八王子霊園からも近接距離にある。 戦国期の北条氏の歴史、明治以降の皇室の墓所、そして現代の都営霊園が、加住丘陵の同じエリアに集中していることは、東京都西部の歴史的・文化的特徴のひとつである。武蔵野の自然と、長い歴史の堆積を併せ持つこの地は、墓地公園というよりも「歴史と自然が交わる広大な森」として、年間を通して多くの墓参者と散策者を迎え入れている。 八王子霊園へのアクセスはJR中央線高尾駅、京王高尾線高尾駅から西東京バスで約20分。霊園内には管理事務所、駐車場、休憩所が整備され、墓参以外のハイキング目的の利用も可能である。開園時間と利用案内は東京都公園緑地部の公式サイトに掲載されている。

八王子市·65 views
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世田谷区廃倉庫(用賀地区)

用賀は江戸時代の宿場町から、戦後の高度経済成長期に首都圏の物流拠点へと急速に変貌した。1969年の東名高速全線開通と1971年の首都高速との接続、同時期の環状八号線整備により、用賀地区は流通ネットワークの要所として位置づけられた。この時期、環状八号線と東名高速インターチェンジ周辺に多数の倉庫・物流施設が集積し、戦後日本の物資流通を支える重要な機能を担った。その後1977年の東急新玉川線(現・田園都市線)開業、1993年の世田谷ビジネススクエア竣工など、地区の再開発に伴い、物流機能は徐々に郊外へ移転。廃業した倉庫建築の一部は、かつての産業景観を今に伝える遺構として地区に点在している。これらの施設は、高い天井と広大な内部空間、複雑な構造を特徴とし、音響環境(低周波の残響や環境音)が独特である。敷地周辺の現在の様相は、活発な産業地から混合用途地域への移行期の状態を物理的に示している。

世田谷区·50 views
10

江古田の森公園(旧国立療養所中野病院跡地)

東京都中野区にある江古田の森公園は、かつて結核患者の療養施設だった国立療養所中野病院の跡地に整備された防災公園である。前身は1920年に開設された東京市療養所で、当時不治とされた肺結核の患者を数多く受け入れた。戦前の療養環境は過酷で、入院した患者の多くが回復に至らず亡くなったと伝えられる。若くして結核に倒れた著名な詩人が最期を迎えた場としても記録されている。医療体制の変化を経て病院は1993年に役割を終え、建物の解体を経て、2007年に現在の公園として開かれた。 廃墟となっていた1990年代には、この一帯は東京でも指折りの心霊スポットとして名を知られた。地下に人体の臓物が液体に浸されて置かれていた、血に汚れた白衣の人物が現れる、赤い衣服の女性が木陰から立ち入りを拒むように現れる、といった噂が広まったとされる。ただし怪談を検証する書き手からは、廃病棟の写真が残っていないことや証言相互の食い違いが指摘されており、実際の医療現場をめぐる新聞報道が誇張されて怪異譚へ変質したとみる見方もある。史実と噂の境目は判然としないまま、跡地は静かな公園として日常の風景に戻っている。

中野区·49 views

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玉川上水(太宰治入水の地)
水辺·東京都 三鷹市

玉川上水(太宰治入水の地)

玉川上水は、江戸時代の承応年間に江戸市中への給水を目的として開削された用水路で、多摩川の水を四谷方面までおよそ四十キロにわたって導いた歴史ある水路である。かつては水量が豊かで流れが速く、いったん落ちれば助かりにくい急流だったと伝えられ、近代以降は投身による死が相次いだ水辺としても知られた。東京都三鷹市を通る区間はその一部にあたる。 この流れが広く記憶されているのは、昭和二十三年六月、作家の太宰治が山崎富栄とともにこの水路で命を絶ったためである。二人の遺体は数日後に下流で発見され、発見日は太宰の誕生日にあたっていたとされる。太宰が水に入ったと考えられている付近には、郷里である青森の石を用いた玉鹿石の碑が置かれ、その一帯は現在「風の散歩道」として整備されて、三鷹駅からほど近い市民の散策路になっている。 急流ゆえに繰り返された死と、著名な作家の最期という記憶が同じ水辺に重なることで、この場所は哀切をまとった水辺として意識されてきた。穏やかな遊歩道の下を流れる水音のなかに、沈んだ気配や言葉にならない哀しみを感じ取るという受け止め方が生まれる場所として語られることがある。

等々力渓谷の怪談
橋・高架·東京都 世田谷区

等々力渓谷の怪談

東京23区で唯一の自然渓谷である等々力渓谷は、谷沢川が武蔵野台地の南縁を浸食して形成された1キロメートル余りの谷である。渓谷内の崖地には7世紀から8世紀にかけて造られた横穴古墳群が存在し、古代の埋葬地として活用されていた痕跡が今も残る。地名の由来は、渓谷の崖から落ちる不動の瀧が、その水音で「とどろいた」ことに由来するとされる。渓谷は古くから信仰の対象であり、平安時代後期には等々力不動尊が創建され、商売繁盛や厄除けの信仰地として機能してきた。1999年に東京都指定名勝に指定され、保護されている。地層からは粘土、礫、関東ローム層が観察でき、武蔵野の自然が都市部に残された空間としての歴史的重要性を持つ。

世田谷区廃倉庫(用賀地区)
廃墟・残骸·東京都 世田谷区

世田谷区廃倉庫(用賀地区)

用賀は江戸時代の宿場町から、戦後の高度経済成長期に首都圏の物流拠点へと急速に変貌した。1969年の東名高速全線開通と1971年の首都高速との接続、同時期の環状八号線整備により、用賀地区は流通ネットワークの要所として位置づけられた。この時期、環状八号線と東名高速インターチェンジ周辺に多数の倉庫・物流施設が集積し、戦後日本の物資流通を支える重要な機能を担った。その後1977年の東急新玉川線(現・田園都市線)開業、1993年の世田谷ビジネススクエア竣工など、地区の再開発に伴い、物流機能は徐々に郊外へ移転。廃業した倉庫建築の一部は、かつての産業景観を今に伝える遺構として地区に点在している。これらの施設は、高い天井と広大な内部空間、複雑な構造を特徴とし、音響環境(低周波の残響や環境音)が独特である。敷地周辺の現在の様相は、活発な産業地から混合用途地域への移行期の状態を物理的に示している。

永代橋
橋・高架·東京都 中央区

永代橋

永代橋は、東京都中央区新川と江東区佐賀を結び、隅田川に架かる橋である。元禄十一年(一六九八年)に幕府が架けた木橋を起源とし、財政難による廃橋の危機を町方の負担で乗り越えて存続した経緯を持つ。現在の鋼鉄アーチ橋は、関東大震災で焼失した後、大正末から昭和初めにかけての震災復興事業で架け替えられたもので、国の重要文化財に指定されている。 この橋がしばしば死の記憶と結び付けて語られる背景には、文化四年(一八〇七年)の落橋がある。深川の富岡八幡宮で十二年ぶりの祭礼が行われた際、深川へ渡ろうとする群衆が殺到し、その重みに耐えかねた橋の中央付近が崩れ落ちた。川へ転落した人々の被害は行方不明を含めて千数百人にのぼったと伝えられ、江戸期でも最大級の惨事として記録に残る。犠牲者を悼む「永代橋沈溺諸亡霊塔」は目黒区の海福寺に現存する。 こうした史実を踏まえ、落命した人々の声が川面から聞こえるといった怪異が、この橋にまつわる話として語られることがある。橋の下を流れる隅田川と、供養が続けられてきた慰霊の歴史が、都市の記憶を今に伝えている。

江古田の森公園(旧国立療養所中野病院跡地)
公園・城址·東京都 中野区

江古田の森公園(旧国立療養所中野病院跡地)

東京都中野区にある江古田の森公園は、かつて結核患者の療養施設だった国立療養所中野病院の跡地に整備された防災公園である。前身は1920年に開設された東京市療養所で、当時不治とされた肺結核の患者を数多く受け入れた。戦前の療養環境は過酷で、入院した患者の多くが回復に至らず亡くなったと伝えられる。若くして結核に倒れた著名な詩人が最期を迎えた場としても記録されている。医療体制の変化を経て病院は1993年に役割を終え、建物の解体を経て、2007年に現在の公園として開かれた。 廃墟となっていた1990年代には、この一帯は東京でも指折りの心霊スポットとして名を知られた。地下に人体の臓物が液体に浸されて置かれていた、血に汚れた白衣の人物が現れる、赤い衣服の女性が木陰から立ち入りを拒むように現れる、といった噂が広まったとされる。ただし怪談を検証する書き手からは、廃病棟の写真が残っていないことや証言相互の食い違いが指摘されており、実際の医療現場をめぐる新聞報道が誇張されて怪異譚へ変質したとみる見方もある。史実と噂の境目は判然としないまま、跡地は静かな公園として日常の風景に戻っている。

八丈町底土海岸の流人の怨霊
水辺·東京都 八丈町

八丈町底土海岸の流人の怨霊

東京都八丈町の底土海岸は八丈島の中央北部に位置し、伊豆諸島の海の玄関口となる港湾地である。江戸時代、この島は幕府の流刑地として機能し、政治犯や罪人たちが本土への帰還を許されぬまま生涯を閉じた場所である。訪問者からは、この海岸での不思議な体験が報告されている。投稿では、夜間に撮影した写真の背景に「白いもやのようなもの」が映り込んだケース、また訪問時に「確かに独特の気配がした」という体験が記されている。複数の訪問者が経験を共有しながらも、具体的な内容については情報が限定的である。海岸は港湾施設が実在する実用的な場所であり、訪問時には夜間単独行動と転落・高波の危険が伴うため、訪問は日中の安全な範囲にとどめることが推奨される。

八王子霊園
神域・霊場·東京都 八王子市

八王子霊園

東京都八王子市元八王子町、武蔵野の西端にあたる加住丘陵に、東京都が運営する八王子霊園が広がっている。1971年(昭和46年)開園、面積約65ヘクタール、東京都営霊園としては最も新しい霊園のひとつである。 都営霊園は青山霊園、谷中霊園、染井霊園、雑司ヶ谷霊園、多磨霊園、小平霊園、八柱霊園、八王子霊園、瑞江葬儀所付属霊園の9園で構成され、東京都公園緑地部が一括管理を行っている。八王子霊園は都営霊園のなかで西端に位置し、丘陵地の地形を活かした公園型の墓地として設計された。 造成にあたっては、丘陵の自然林を約7割そのまま残す方針が取られた。コナラ、クヌギ、シイ、カシ類などの雑木林を維持しつつ、約500本の桜と670株のあじさいを園路沿いに植栽。春の桜、初夏のあじさい、秋の紅葉と、四季それぞれに見頃を迎える公園墓地としての性格が確立された。霊園というよりも自然公園としての散策ができる、東京都西部の隠れた花見スポットとしても知られている。 墓地区画は約2万区画、すべて統一規格の芝生墓地(4平方メートル)として設計された。従来の都営霊園に多い和型墓石・洋型墓石の自由設計を排し、規格化された墓石とプレート方式を採用することで、整然とした景観と効率的な維持管理を両立している。墓地区画の使用許可は東京都が公募制で抽選を実施しており、毎年数千件の応募が集まる。 霊園隣接地には歴史的に重要な遺跡が複数存在する。八王子城跡(国指定史跡、1590年落城)、北条氏照の墓、武蔵陵墓地(昭和天皇・香淳皇后が眠る武蔵野陵、大正天皇・貞明皇后が眠る多摩陵)が周辺数キロメートル圏内にある。武蔵陵墓地は宮内庁が管理する皇室の御陵で、八王子霊園からも近接距離にある。 戦国期の北条氏の歴史、明治以降の皇室の墓所、そして現代の都営霊園が、加住丘陵の同じエリアに集中していることは、東京都西部の歴史的・文化的特徴のひとつである。武蔵野の自然と、長い歴史の堆積を併せ持つこの地は、墓地公園というよりも「歴史と自然が交わる広大な森」として、年間を通して多くの墓参者と散策者を迎え入れている。 八王子霊園へのアクセスはJR中央線高尾駅、京王高尾線高尾駅から西東京バスで約20分。霊園内には管理事務所、駐車場、休憩所が整備され、墓参以外のハイキング目的の利用も可能である。開園時間と利用案内は東京都公園緑地部の公式サイトに掲載されている。

薬王院旧参道
神域・霊場·東京都 八王子市

薬王院旧参道

東京都八王子市の高尾山にある高尾山薬王院有喜寺は、関東屈指の修験道寺院である。1,200年以上の歴史を持ち、現在は真言宗智山派の大本山として位置づけられている。 寺伝によれば、開山は天平16年(744年)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が薬師如来を本尊として開いたとされる。永和元年(1376年)、俊源大徳が入山して飯縄大権現を勧請し、修験道の道場としての性格が確立された。飯縄信仰は天狗信仰と結びつき、高尾山は天狗が住む霊山として中世以降広く信仰を集めるようになった。 戦国期には北条氏が薬王院を篤く崇敬し、戦乱が霊場に及ばないよう制札を立てて保護した。江戸期には徳川幕府の祈願寺として庇護され、明治以降は関東各地の信徒の参拝対象として継続的に栄えてきた。現在の本堂、大本堂、奥之院などは江戸後期から明治期にかけての建立で、東京都の有形文化財に複数指定されている。 参道は薬王院の表参道と旧参道に分かれる。表参道は現在のメインルートで、ケーブルカーやリフトと組み合わせて山頂までアクセスできる整備されたコース。旧参道は古くから修験者が辿った山道で、整備の程度は低いが原生林に近い杉並木の景観が楽しめる。 高尾山は2007年、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで三つ星を獲得し、年間300万人を超える登山者が訪れる山となった。修験道の聖地としての性格を保ちつつ、ハイキングコースとしても国際的に知られる、稀有な存在である。

隧道・トンネル·東京都 八王子市

旧小峰トンネル(小峰隧道)

旧小峰トンネル(小峰隧道)は、東京都あきる野市と八王子市の境、標高288メートルの小峰峠に架かる煉瓦造りの隧道で、大正5年(1916年)に完成した。生糸輸送路の整備を目的に開削され、2002年に新トンネルが開通した後は車両通行ができず、徒歩のみ通れる旧道として残る。 この場所が心霊スポットとして知られる経緯には複数の要因が絡む。ある大きな事件が発覚する以前、地元紙に「峠に幽霊が出る」という趣旨のコラムが掲載され、手首から先のない少女がトンネル付近に立ち、助けを求める声を発するという話が紹介されていた。この新聞の発行人は、後に東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者として逮捕された人物の父親であったことが分かっている。 さらに事件発覚直後、大手紙が容疑者の潜伏先や遺体遺棄現場が小峰峠付近にあると報じたが、この報道は誤報であり、翌日には新聞社によるおわびが出され、後に取り消された。しかし影響は大きく、峠や隧道が事件現場であるかのような認識が広まった。実際の遺棄現場はトンネルから約2キロメートル離れており、隧道内に事件との直接の関わりはない。写真に不自然な光が写り込む、車が突然止まるといった体験が伝えられている。

絹の道(八王子・鑓水/道了堂跡)
路上・交差点·東京都 八王子市

絹の道(八王子・鑓水/道了堂跡)

東京都八王子市南部の多摩丘陵に残る古道は、幕末から明治にかけて八王子と横浜港を結び、輸出用の生糸を運んだ街道「絹の道」の一部である。養蚕と生糸取引で栄えた鑓水の商人たちが資金を出し合い、明治期にはこの道沿いの大塚山に道了堂が建てられ、周囲に土産物屋が並んで賑わったとされる。だが鉄道網と近代道路の整備によって街道は流通路としての役目を失い、堂も次第にさびれていった。 この道が心霊スポットとして名を知られるようになった背景には、道了堂跡で起きた複数の事件がある。1963年には堂を長く守っていた高齢の堂守が強盗に襲われて命を落とし、1973年には大学教授が教え子の女子学生を殺害し、この一帯に遺体を遺棄する事件が起きた。無人化した堂は1983年の不審火で焼失し、跡地はのちに大塚山公園として整備され、いまは礎石や奉献燈、延命地蔵尊などが残る。 怪異の面では、境内に残る地蔵が「首なし地蔵」と呼ばれ、怪談師の紹介を通じて広く知られるようになった。生糸の街道を行き交った人々の歴史と、跡地に重なった現実の事件の記憶とが結びつく場所として語られることがある。

八王子城跡
公園・城址·東京都 八王子市

八王子城跡

八王子城跡は、東京都内屈指の心霊スポットとして知る人ぞ知る場所である。1590年の落城の際に命を落とした無数の将兵や女性・子供たちの霊が今なお城跡に漂っているという噂が、長年にわたって語り継がれている。特に「御主殿の滝」周辺では、落城の際に滝へ身を投げた女性たちの霊が目撃されるとされ、夜間に滝の方向から女性の泣き声や呻き声が聞こえてくるという体験談が複数報告されているという。また、山道を歩いていると突然カメラや録音機器が誤作動を起こしたり、写真に無数の光の玉(オーブ)が映り込んだりする現象が頻繁に起きると言われている。さらに、日中でも山中の一部では気温が突然下がり、人の気配を感じると訴える訪問者も少なくないとされる。 八王子城跡は、東京都八王子市元八王子町、深沢山の標高445メートルに広がる戦国末期の山城遺構である。城主・北条氏照が小田原城に不在の中、前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら約15,000の軍勢に攻められ、わずか一日で落城した。残された将兵や女性・子供を含む数千人が命を落としたとされ、その凄惨な歴史が心霊現象の噂の根底にあると言われている。現在は国の史跡に指定された史跡公園として整備され、復元石垣や曳橋なども公開されている。山頂の本丸跡までは登山道が整備されているが、八王子市は安全のため日没後の入山自粛を呼びかけている。

道了堂跡(大塚山大岳寺跡・八王子市鑓水)
公園・城址·東京都 八王子市

道了堂跡(大塚山大岳寺跡・八王子市鑓水)

東京都八王子市鑓水、大塚山公園の一角に道了堂跡がある。かつてこの地は横浜港へ生糸を運ぶ交易路「絹の道(神奈川往還)」の中継地としてにぎわい、1874年に鑓水商人が道了尊を勧請、翌1875年に道了堂が建てられた。峠を行き交う人馬や旅商人が手を合わせた信仰の拠点だったが、1908年の横浜鉄道(現JR横浜線)開通で交易路は急速に衰え、堂も人の絶えた静かな旧跡へと移り変わっていった。 この場所が怪異の舞台として意識されるようになった背景には、無住となった堂の荒廃と、そこで実際に起きた事件がある。1963年、堂守を務めていた女性が殺害され、以後、堂宇は管理を失って朽ちていった。1990年に堂は解体され、跡地は公園として整備されたが、苔むした石段や石灯籠、首を失った地蔵が薄暗い雑木林のなかに残り、往時の面影をとどめている。 首なし地蔵にまつわる怪談は著名な怪談の題材として広く知られ、石段を降りてくる老婆の姿を見た、という話が伝えられることがある。一方で現在は絹の道や尾根道をたどるハイカー、犬の散歩に訪れる人も多く通過する、日常に近い散策路でもある。

山道・峠·東京都 八王子市

大垂水峠

大垂水峠は東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区の境、高尾山の南側に位置する標高392メートルの峠で、国道20号(甲州街道)が通っている。この道は1888年に旧甲州街道の小仏峠越えから付け替えられたもので、1935年には読者投票により神奈川県下の名勝史蹟四十五佳選の一つに選ばれた由緒ある峠道である。一方で1980年代から1990年代にかけては見晴らしの良い連続カーブが夜間の違法な走行競技の舞台となり、死亡事故が相次いだ。事態を受けて神奈川県側では1987年に125cc以下の原動機付自転車の通行が終日禁止される規制が敷かれ、その後は土曜・休日・祝日のみの規制に緩和されつつも、2019年の試験解除まで長く続いた。こうした経緯を背景に、深夜の峠道でバイクを走らせていた人物が一定の距離を保って追走してくる原付の存在に気づき、スピードを上げても離されずついてきた末に峠を抜けると音が消えていた、という体験が語られている。別の記録では、仲間とタイム計測をしていた際に人のいない山道から砂利を踏む足音が聞こえたという話もある。いずれも事故で亡くなった走り手の霊が今も峠に残っているのではないかという受け止め方で共有されている。

滝山城跡
公園・城址·東京都 八王子市

滝山城跡

東京都八王子市、多摩川を見下ろす丘陵に築かれた戦国の山城跡。武蔵守護代・大石氏の居城を継いだ北条氏照が大規模に改修した堅城で、1569年(永禄12年)には小田原を目指す武田信玄の大軍に攻め寄せられ、激しい攻防(滝山合戦)が繰り広げられた。氏照はのちに防御に優れた八王子城へ本拠を移し、滝山城は役目を終えた。多くの将兵が戦った地として、また都立公園として整備された今も、心霊スポットとして語られている。三方を多摩川と切り立った崖に囲まれた要害で、空堀や土塁が良好に残り、戦国の城のかたちを今に伝える。桜の名所として昼間は花見客でにぎわうだけに、人気の絶えた夕暮れ以降の静けさとの落差が、いっそう怪異の語りを際立たせていると言われる。 空堀や本丸跡をめぐる山道では、夕暮れ以降に甲冑の擦れるような音を聞いた、桜の木の下に女性の人影が立っていた、人気のない曲輪で背後から視線を感じたといった体験談が語られてきた。戦で散った人々の記憶が、土塁や堀の残る城跡の静けさと結びついている。夜の城跡で肝試しをした者が、複数の足音に追われるような感覚を覚えたという話も残る。 城跡は貴重な遺構として保全され、地元では合戦で命を落とした人々への供養の念が受け継がれている。 山城跡のため起伏が激しく、空堀や崖が多い。日没後は足元が見えず滑落や転落の危険が高い。見学は必ず日中に行い、土塁や堀などの遺構を傷つけず、亡くなった人々への敬意をもって静かに歩くこと。

旧相武病院(通称・サマーランド裏病院)
廃墟・残骸·東京都 八王子市

旧相武病院(通称・サマーランド裏病院)

東京都八王子市戸吹町、東京サマーランドの裏手にあたる丘陵地に、通称「サマーランド裏病院」として知られる医療施設の旧棟が長く残されていた。ある医療法人が運営する病院の前身にあたる建物とされ、資料では一九七〇年代前半に開院し、まもなく建物が竣工したと伝えられる。その後、法人が近隣の新施設へ機能を移したことで旧棟は使われなくなり、遅くとも一九九〇年代末には廃墟として言及されるようになった。年月とともに窓ガラスの破損や落書きが進み、若者の肝試しの標的になったため、後年には有刺鉄線や警告看板、機械警備などが設けられて厳重に封鎖された。 心霊の対象として扱われるようになった背景には、いくつかの噂がある。ある室内の壁に描かれた目玉のような絵にまつわる話、髪の長い女性の人影を見た直後に首を締めつけられる感覚を覚えたという訪問者の証言、そして改装や取り壊しの工事に入ると原因不明の事故が相次ぎ作業が難航したという言い伝えである。ただしこれらの多くは事実関係を確認できる資料に乏しく、噂として広まったものと受け止められている。

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