神奈川県の心霊スポット

32 スポット11 カテゴリ

幕末の開港地・横浜と鎌倉武士の古戦場を併せ持つ神奈川県は、海と山と異国の記憶が混じり合う土地である。三浦一族の壮絶な集団自害を伝える油壺、ダム湖底に集落と工事犠牲者を沈めた相模湖、夭折した青年の名を刻む旧善波トンネル、外国人墓地の眠る山手——戦国の海戦から近代の悲劇まで、多層の死者の声が湿った潮風に紛れて聞こえてくる。

人気スポット TOP10

油壺
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油壺

神奈川県三浦市三崎町小網代、三浦半島南端の入江は、油壺と呼ばれている。隣接する小網代湾と共に天然の良港を形作り、ヨットハーバーや東京大学三崎臨海実験所が周囲に整備されている。 地名「油壺」の由来は、永正13年(1516年)に滅亡した三浦氏の故事に基づく。鎌倉幕府草創以来400年続いた相模の名族・三浦氏は、新井城(現在の油壺・諸磯一帯)に本拠を置き、関東への進出を目論む小田原・伊勢宗瑞(北条早雲)と対峙していた。3年に及ぶ籠城戦の末、援軍は到着せず、最後の当主・三浦道寸義同とその子荒次郎義意以下諸将が討死または自刃して落城した。 この落城の様子を伝える江戸期の地誌『新編相模国風土記稿』『新編武蔵風土記稿』『三浦三崎志』などには、城兵が崖から入江に身を投じたため海面に流れた血が油のように凪いだことから「油壺」と呼ばれるようになった、という記述がある。新井城の遺構は東京大学三崎臨海実験所と京急油壺マリンパーク跡地の周辺に散在し、土塁や堀の一部が現在も確認できる。 京急油壺マリンパークは2021年に閉園した。跡地は現在再開発計画が進行している。油壺湾沿いには遊歩道と観光案内板が整備され、油壺の入江と新井城跡をめぐる散策コースを歩くことができる。

三浦市
横浜廃倉庫街の怪奇
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横浜廃倉庫街の怪奇

神奈川県横浜市の新港地区には、開港期から昭和後期まで港湾の物流を担った倉庫群が残されている。1859年の横浜開港から数十年、明治29年の第1期築港工事、明治32年からの第2期工事を経て、新港ふ頭は日本初の接岸式ふ頭システムとして整備された。その中核をなす赤レンガ倉庫は明治末期から大正初期にかけて国の模範倉庫として建設され、絹・茶などの輸出品と綿糸・砂糖などの輸入品の保税倉庫として機能した。 1989年に倉庫としての用途を廃止されるまで、130年近くにわたって港湾労働を支えた施設である。波止場と倉庫に囲まれた街区には、100年以上の貨物取扱と物流システムの変遷が物理的に刻まれている。港湾の近代化と衰退の両方を記録する空間として、現在では保存と活用の対象となっているが、再開発から外れた一部の廃倉庫跡は依然として無人のままであり、往時の作業風景と現在の静寂の落差が際立つ場所である。

横浜市
小田原城跡(小田原城址公園)
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小田原城跡(小田原城址公園)

神奈川県小田原市に残る小田原城跡(小田原城址公園)は、戦国時代に北条氏五代の本拠として関東に勢力を誇った城の遺構である。1590年の小田原征伐では豊臣秀吉率いる大軍に包囲され、数ヶ月に及ぶ籠城戦の末に北条氏は滅亡した。明治の廃城令を経て公園として整備され、現在は復興天守や石垣、堀跡が残り、観光客の訪れる歴史公園となっている。 この地では複数の目撃談が伝えられている。園内の大木のそばで、白く煙のような輪郭をした人影が現れ、目撃者が石垣を越えて逃げると、その人影はなおも高い場所からこちらを見下ろしていた(それ以上追ってくることはなかった)という報告がある。目撃者はその人影を、かつて城を守っていた武士ではないかと推測している。また園内を訪れた一行のうち一人が急に様子を変え、後になって「落ち武者らしき人に追われた」と語ったとする話も残されている。 こうした噺は、大軍に囲まれて命を落とした城兵や領民の記憶が、復元された城郭の景観と重なり合うことで生まれたものとして語られることがある。

小田原市
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小坪隧道(通称:小坪トンネル)

小坪隧道は、神奈川県逗子市小坪と鎌倉市材木座を結ぶ県道311号線に架かるトンネルで、通称「小坪トンネル」として知られる。1883年(明治16年)、地元有志の資金により素掘りで開削され、大正期に煉瓦造りへ改修された後も、幅5.5メートル・全長113メートルほどの狭くカーブした構造をほぼそのまま残している。トンネルが貫く尾根の上には民間の火葬場が置かれ、隣接する名越切通には中世の横穴墓群「まんだら堂やぐら群」が広がり、発掘調査では人骨が出土し、合戦や刑死との関連を指摘する説もある。 昭和20年代前半(1948〜49年頃)、この一帯を走るタクシー運転手の間で若い女性の霊が同乗するという噂が広まり、後部座席に見知らぬ女性が座っていた、ボンネットに人影が落ちてきた、フロントガラスに手形が浮かぶといった話が語られるようになった。川端康成の短編『無言』にも、火葬場の下を通る車に若い女の幽霊が乗り込む逸話が描かれており、こうした話が広く知られる一因となっている。

逗子市·28 views
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中井町旧結核療養山荘廃墟

丹沢山麓に位置する神奈川県中井町の旧結核療養山荘は、戦前から戦後にかけて結核患者の療養施設として機能した廃墟。結核療養所は1930年代にかけて全国に建設され、清瀬をはじめとした療養地の形成が進みました。戦前期の療養所は「空気・安静・栄養」による自然療法に依存し、外界から隔離された山麓の静寂な環境が治療に適していると考えられていました。戦後、ストレプトマイシンなどの抗結核薬が導入されると、療養所の役割は急速に変わりました。薬物療法の有効性により入院期間が短縮され、多くの結核療養所は機能を失い、廃棟化していきました。この施設も同様の転換期を経て、やがて役目を終えたと考えられます。現在、敷地は管理されており、建物は自然に呑まれた木造廃棟として残されています。

中井町·26 views
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相模湖

神奈川県相模原市緑区、相模川中流域に造成された相模ダムによってできた人造湖が相模湖である。湖面標高167メートル、満水面積3.26平方キロメートル、総貯水量約6,330万立方メートル。日本初の多目的ダム湖として、洪水調節、上水道、工業用水、発電を兼ねる目的で計画された。 ダム計画は昭和初期に始まる。神奈川県と東京府の急速な工業化・都市化に対応するため、神奈川県土木部が1938年(昭和13年)に相模川総合開発計画を策定した。建設工事は1940年(昭和15年)に着工し、第二次世界大戦の混乱を挟んで1947年(昭和22年)に完成、湛水を開始した。 建設工事には延べ約360万人の労働力が動員された。戦時下の資材難・労働力不足という背景のなか、内地の労働者だけでは到底まかなえず、当時の国家動員体制の下、朝鮮半島出身の労働者と中国人捕虜が砂利採取や運搬作業に動員された。神奈川県と当時の各事業者の記録、戦後の調査によって、朝鮮人約800名、中国人約290名の動員規模が確認されている。 工事による殉職者は確認できる範囲で83名にのぼる。神奈川県は1990年代に湖畔の県立相模湖公園内に湖銘碑を建立、戦時動員の日本人・朝鮮人・中国人の名前を刻み、毎年慰霊行事を継続している。神奈川県と相模原市の郷土資料は、当時の動員と殉職の実態を後世に伝える資料として公開されている。 ダム湖の建設に先立ち、湖底に沈んだ集落として勝瀬地区が知られる。約100戸の住民が湖底化の補償を受けて湖畔の高台や他地域へ移住した。当時の地形図、移住前後の写真、住民の証言記録は相模原市立博物館に収蔵されている。 戦後、相模湖は首都圏近郊の観光地として整備され、ボート遊覧、釣り、ピクニックで親しまれてきた。湖畔には相模湖公園、相模湖プレジャーフォレスト、勝瀬橋などがあり、JR中央本線の相模湖駅から徒歩でアクセスできる。秋には湖畔の紅葉と県境の山々の眺望が楽しめる。湖を渡る遊覧船は通年運航している。

相模原市緑区·23 views
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山の神トンネル

神奈川県厚木市の山間部にある旧道トンネル。戦後の道路改良に伴い役目を終えた坑道が現在も存在します。坑口の先には廃キャンプ場跡が残っています。 訪問者の報告では、深夜に立ち寄った際「特に何も起きませんでしたが、なんとなく長居したくない気分になり早めに帰りました」と、一般的な不安感や違和感を感じることもあるようです。 旧道のトンネルは管理者が存在し、坑内の劣化と落石の危険が常にあります。心霊目的の訪問は事故リスクが高く、近隣住民の生活道路でもあるため迷惑になります。

厚木市·21 views
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伊勢原市大山阿夫利神社の禁足地

神奈川県伊勢原市の大山(おおやま)は、高さ1,252メートルの山岳信仰の中心地である。阿夫利神社は山腹(696メートル)と山頂に二社の本宮を置き、江戸時代には年間20万人を超える参拝者を集める一大信仰圏を形成していた。この時期、大山講と呼ばれる信仰結社は16の国々に組織を展開し、修験者(やまぶし)による精神的指導を通じて、農村部から都市部に至る広範な社会層に信仰を浸透させていった。 修験道の行場として機能してきた大山の特質は、単なる参拝地ではなく、厳しい山岳修行の舞台にあった。参道から分岐する奥深い領域は、険峻な地形と急峻な断崖を特徴とし、一般の巡礼者が立ち入ることを想定しない空間として長く保護されてきた。この禁足区間では、行者たちが断食や瞑想、滝行といった苦行に打ち込み、神仏習合の信仰体系のなかで精神的修練を重ねる場所であり、同時に参詣者の祈りを受け止める聖域としての役割を帯びていた。 山頂部の空気の質感の異変、音のしない夜間の参道から聞こえてくる低い響き、視界の端に捉える人影の存在感――こうした体験談は、この山が備えもつ感覚的な異質性と、積み重ねられた信仰の層厚さを物語る。修験者の修行が行われた岩場や谷筋の記憶は、現在もなお参詣者の感覚を触発する何かとして機能し続けているとも考えられる。 禁足地への接近や夜間登拝は、滑落や落石による生命の危険が極めて高い。参拝者は社務所の指示に従い、整備された参道に留まり、行者と山の聖性への敬意を保つことが求められる。

伊勢原市·21 views
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横浜外人墓地

神奈川県横浜市中区山手町にある横浜外国人墓地(よこはまがいこくじんぼち)は、開港期から現代まで横浜で亡くなった外国人を埋葬してきた墓地である。約18,000平方メートルの敷地に、約4,400人の故人が眠り、40カ国以上の国籍を持つ人々が埋葬されている。 墓地の起源は、嘉永7年(1854年)3月、再来日したペリー艦隊のミシシッピー号で、二等水兵ロバート・ウィリアムズ(24歳)がマストから墜落して死亡したことに遡る。ペリーは幕府との交渉の中で、ウィリアムズの埋葬地として「海の見える地」を要求した。これに応じて横浜村(現在の元町・山手地区)の増徳院の境内が墓所として提供され、ウィリアムズの墓が建てられた。これが横浜外国人墓地の最初の埋葬である。 1858年の日米修好通商条約と続く各国との通商条約により、横浜は開港地として正式に開かれた。外国人居留地が山手丘陵を中心に形成され、ヨーロッパ、アメリカ、中国、東南アジアなどから多くの外国人が居住するようになる。それに伴って外国人専用の埋葬地として、文久元年(1861年)に山手の高台の現在地が整備された。 墓地に眠る人々の多くは、開港期から明治・大正・昭和初期にかけて横浜で生活し、文化・経済・宗教・外交の各分野で活動した外国人である。横浜の近代化に貢献した英国人、フランス人、ドイツ人、アメリカ人の実業家、医師、宣教師、教師、技師、建築家、商人、軍人、そしてその家族たちが眠る。日本に骨を埋めた者、不慮の事故で命を落とした者、外国人居留地で生まれそのまま亡くなった子どもなど、横浜の国際都市としての歴史と表裏一体の埋葬地である。 墓地内には、フランス人技師レオンス・ヴェルニー(横須賀製鉄所の建設指導)、英国人外交官ヘンリー・ヒースコート、米国人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンなど、日本近代史の教科書にも登場する人物の墓が複数ある。生麦事件(文久2年・1862年)の被害者リチャードソンの墓もある。 第二次世界大戦中、外国人墓地は連合国国民の埋葬地として一部で接収・転用の動きがあったが、戦後速やかに復旧された。1971年(昭和46年)、財団法人横浜外国人墓地(現在は公益財団法人横浜外国人墓地)が設立され、現在に至るまで管理運営を続けている。 墓地は通常、外国人墓地友の会の協力金(任意)と引き換えに見学可能。期間や時間に制限があり、宗教施設・埋葬施設としての厳粛な性格を守るため、墓石を踏まないなどのマナーが訪問者に求められる。墓地の上の高台には「外国人墓地資料館」(小さな展示室)があり、墓地の歴史と眠る人々の物語を学べる。 横浜山手地区一帯は「山手洋館巡り」の観光コースとして整備されており、外国人墓地はその中核に位置する。エリス号殉難碑、英国総領事館、外国人墓地、山手234番館などを徒歩で巡れる文化観光ルートになっている。みなとみらい線元町・中華街駅から徒歩約10分。

横浜市·20 views
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善波トンネル

神奈川県秦野市と伊勢原市の境、国道246号が善波峠を貫く善波トンネル。古くからの交通の難所で、トンネルの開通以前から善波峠は事故や遭難の多い峠道として知られていた。現在も交通量の多い幹線でありながら、神奈川県内でも指折りの心霊スポットとして語られている。 最もよく知られるのは、トンネル付近で白い服や赤い服をまとった女性の霊が現れ、走行中の車やバイクの前に立つ、追い越していくバイクの後ろに人がまたがっている、といった目撃譚である。この一帯は実際に二輪車の事故が多発しており、現実の事故の記憶と怪異の語りが分かちがたく結びついている。峠には古くから旅人の安全を見守る地蔵が祀られ、慰霊の対象となってきた。 地元では、峠で命を落とした人々への供養が続けられており、地蔵への手入れを欠かさぬ住民もいる。怪異を面白がる前に、まず手を合わせる土地柄である。 国道246号はカーブが連続し、トンネル内外とも交通量が非常に多い。路上での停車や徒歩での進入は重大事故に直結する。訪れる際は車内から通過するにとどめ、無理な減速や撮影を避け、亡くなった人々への鎮魂を第一に考えること。

秦野市·12 views

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油壺
路上・交差点·神奈川県 三浦市

油壺

神奈川県三浦市三崎町小網代、三浦半島南端の入江は、油壺と呼ばれている。隣接する小網代湾と共に天然の良港を形作り、ヨットハーバーや東京大学三崎臨海実験所が周囲に整備されている。 地名「油壺」の由来は、永正13年(1516年)に滅亡した三浦氏の故事に基づく。鎌倉幕府草創以来400年続いた相模の名族・三浦氏は、新井城(現在の油壺・諸磯一帯)に本拠を置き、関東への進出を目論む小田原・伊勢宗瑞(北条早雲)と対峙していた。3年に及ぶ籠城戦の末、援軍は到着せず、最後の当主・三浦道寸義同とその子荒次郎義意以下諸将が討死または自刃して落城した。 この落城の様子を伝える江戸期の地誌『新編相模国風土記稿』『新編武蔵風土記稿』『三浦三崎志』などには、城兵が崖から入江に身を投じたため海面に流れた血が油のように凪いだことから「油壺」と呼ばれるようになった、という記述がある。新井城の遺構は東京大学三崎臨海実験所と京急油壺マリンパーク跡地の周辺に散在し、土塁や堀の一部が現在も確認できる。 京急油壺マリンパークは2021年に閉園した。跡地は現在再開発計画が進行している。油壺湾沿いには遊歩道と観光案内板が整備され、油壺の入江と新井城跡をめぐる散策コースを歩くことができる。

中井町旧結核療養山荘廃墟
廃墟・残骸·神奈川県 中井町

中井町旧結核療養山荘廃墟

丹沢山麓に位置する神奈川県中井町の旧結核療養山荘は、戦前から戦後にかけて結核患者の療養施設として機能した廃墟。結核療養所は1930年代にかけて全国に建設され、清瀬をはじめとした療養地の形成が進みました。戦前期の療養所は「空気・安静・栄養」による自然療法に依存し、外界から隔離された山麓の静寂な環境が治療に適していると考えられていました。戦後、ストレプトマイシンなどの抗結核薬が導入されると、療養所の役割は急速に変わりました。薬物療法の有効性により入院期間が短縮され、多くの結核療養所は機能を失い、廃棟化していきました。この施設も同様の転換期を経て、やがて役目を終えたと考えられます。現在、敷地は管理されており、建物は自然に呑まれた木造廃棟として残されています。

伊勢原市大山阿夫利神社の禁足地
神域・霊場·神奈川県 伊勢原市

伊勢原市大山阿夫利神社の禁足地

神奈川県伊勢原市の大山(おおやま)は、高さ1,252メートルの山岳信仰の中心地である。阿夫利神社は山腹(696メートル)と山頂に二社の本宮を置き、江戸時代には年間20万人を超える参拝者を集める一大信仰圏を形成していた。この時期、大山講と呼ばれる信仰結社は16の国々に組織を展開し、修験者(やまぶし)による精神的指導を通じて、農村部から都市部に至る広範な社会層に信仰を浸透させていった。 修験道の行場として機能してきた大山の特質は、単なる参拝地ではなく、厳しい山岳修行の舞台にあった。参道から分岐する奥深い領域は、険峻な地形と急峻な断崖を特徴とし、一般の巡礼者が立ち入ることを想定しない空間として長く保護されてきた。この禁足区間では、行者たちが断食や瞑想、滝行といった苦行に打ち込み、神仏習合の信仰体系のなかで精神的修練を重ねる場所であり、同時に参詣者の祈りを受け止める聖域としての役割を帯びていた。 山頂部の空気の質感の異変、音のしない夜間の参道から聞こえてくる低い響き、視界の端に捉える人影の存在感――こうした体験談は、この山が備えもつ感覚的な異質性と、積み重ねられた信仰の層厚さを物語る。修験者の修行が行われた岩場や谷筋の記憶は、現在もなお参詣者の感覚を触発する何かとして機能し続けているとも考えられる。 禁足地への接近や夜間登拝は、滑落や落石による生命の危険が極めて高い。参拝者は社務所の指示に従い、整備された参道に留まり、行者と山の聖性への敬意を保つことが求められる。

南足柄市足柄峠の峠の亡者
山道・峠·神奈川県 南足柄市

南足柄市足柄峠の峠の亡者

神奈川県と静岡県の境に位置する足柄峠は、万葉集にも詠まれた古い峠道で、東海道の難所として知られている。中世から近世にかけては合戦の舞台にもなり、多くの人命が失われた土地である。 本サイトの投稿から報告されているのは、夜間に訪れた利用者がスマホの電池の急な消耗を経験した、また野生動物が逃げていくのを目撃したという観察である。地域の伝承では、昔から不気味な場所として認識されており、実際に訪問した人物が「二度と行かない」と語ったという報告も記録されている。 足柄峠は急勾配の山道で、霧と降雨に弱く、視界が悪くなりやすい。訪問する場合は日中に正規の登山道を利用し、危険な時間帯の通行は避けること。

山の神トンネル
隧道・トンネル·神奈川県 厚木市

山の神トンネル

神奈川県厚木市の山間部にある旧道トンネル。戦後の道路改良に伴い役目を終えた坑道が現在も存在します。坑口の先には廃キャンプ場跡が残っています。 訪問者の報告では、深夜に立ち寄った際「特に何も起きませんでしたが、なんとなく長居したくない気分になり早めに帰りました」と、一般的な不安感や違和感を感じることもあるようです。 旧道のトンネルは管理者が存在し、坑内の劣化と落石の危険が常にあります。心霊目的の訪問は事故リスクが高く、近隣住民の生活道路でもあるため迷惑になります。

大磯町旧別荘地の廃邸宅
宿泊・居住跡·神奈川県 大磯町

大磯町旧別荘地の廃邸宅

神奈川県大磯町は明治30年代から大正にかけて、伊藤博文や大隈重信ら8人の総理大臣経験者を含む政財界人が別荘を構えた保養地である。1887年の大磯駅開設により交通が便宜化し、明治末期には170戸、大正10年には200戸を超える別荘が相模湾を望む高台に立ち並んだ。本スポットは、その時代に建設された邸宅の一つで、和洋折衷の意匠を備えた建物が現存している。 邸宅の所有者や竣工時期は特定されていないが、当該エリアは現在も明治記念大磯邸園として複数の文化財指定建造物を含む保存地区として維持されている。廃邸宅も同地区の一角に残存し、近年の海塩風化や経年変化により、外観の劣化が進んでいる状況にある。 ネット上では、夕暮れから夜間に廃邸の周辺で人影を目撃した、屋内から古い楽曲のような音が聞こえたといった投稿が散見される。ただし、具体的な事件や死傷事例と結びつく記録は確認されていない。地元では旧別荘地全体を文化的資産として位置づけており、怪異の語りも土地に浸透した時間的深度への関心として受け止められる傾向にある。

寒川町旧工場地帯の夜の怪音
水辺·神奈川県 寒川町

寒川町旧工場地帯の夜の怪音

神奈川県寒川町の相模川下流沿いには、高度経済成長期に金属加工や化学関連の中小工場が集積していた産業地帯が今も存在する。やがて産業構造の転換に伴い操業を終えた工場群が川沿いに残され、夜間には川面を渡る風音や貨物列車の響きが、工業施設の廃墟と重なって独特の音景観を形づくっている。この地帯は地域の経済を支えた労働現場として、また過去に職場での事故で命を落とされた方々の記憶の場として、地元では慎重に語り継がれてきた。

小田原城跡(小田原城址公園)
公園・城址·神奈川県 小田原市

小田原城跡(小田原城址公園)

神奈川県小田原市に残る小田原城跡(小田原城址公園)は、戦国時代に北条氏五代の本拠として関東に勢力を誇った城の遺構である。1590年の小田原征伐では豊臣秀吉率いる大軍に包囲され、数ヶ月に及ぶ籠城戦の末に北条氏は滅亡した。明治の廃城令を経て公園として整備され、現在は復興天守や石垣、堀跡が残り、観光客の訪れる歴史公園となっている。 この地では複数の目撃談が伝えられている。園内の大木のそばで、白く煙のような輪郭をした人影が現れ、目撃者が石垣を越えて逃げると、その人影はなおも高い場所からこちらを見下ろしていた(それ以上追ってくることはなかった)という報告がある。目撃者はその人影を、かつて城を守っていた武士ではないかと推測している。また園内を訪れた一行のうち一人が急に様子を変え、後になって「落ち武者らしき人に追われた」と語ったとする話も残されている。 こうした噺は、大軍に囲まれて命を落とした城兵や領民の記憶が、復元された城郭の景観と重なり合うことで生まれたものとして語られることがある。

座間市旧米軍キャンプ座間の怪
その他·神奈川県 座間市

座間市旧米軍キャンプ座間の怪

神奈川県座間市と相模原市にまたがるキャンプ座間は、1937年に東京から移転してきた旧陸軍士官学校の跡地である。昭和天皇による命名「相武台」のもと、終戦まで800名を超える学生が教育を受けた施設だった。1945年9月、米陸軍第1騎兵師団が進駐し、1950年に米陸軍第8軍司令部が設置されて現在に至る。 広大な敷地には、昭和天皇の行幸時に揮毫された相武台碑、終戦時に埋設されたが後に復旧された陸軍大臣杉山元の碑文、かつて士官学校生が朝礼で参詣した雄健神社跡の鳥居(1985年再建)など、戦争と和平の重層が刻まれた遺構が残されている。富士山公園内の遙拝所方位盤は、学生たちが毎朝、各方向の聖地に向けて礼をした場所である。 現在、キャンプ座間に関連した心霊現象の報告は、フェンス沿いの坂道で深夜に号令のような声を聞く、懐中電灯が明滅する、人影が見えるといったものとして、ネット上で散発的に言及されている。しかし確実に検証された事件や統一的な被害報告はなく、具体的な根拠は不明である。

愛川町中津川の橋上霊
橋・高架·神奈川県 愛川町

愛川町中津川の橋上霊

神奈川県愛甲郡愛川町の中津川に架かる橋。訪問者の投稿では、スマホのカメラが勝手に起動し何枚も写真を撮っていたという報告があり、撮影された写真は全て真っ暗だったとのこと。別の投稿では、知人の体験に興味を持ち実際に訪れた際、「独特の気配を感じた」と記述されている。 中津川は愛川町を流れる生活河川で、この橋は現役の交通路である。撮影や長時間の立ち止まりは周辺の通行者や住民に影響を与える可能性があるため、訪問時は周囲への配慮が必要。

横浜廃倉庫街の怪奇
廃墟・残骸·神奈川県 横浜市

横浜廃倉庫街の怪奇

神奈川県横浜市の新港地区には、開港期から昭和後期まで港湾の物流を担った倉庫群が残されている。1859年の横浜開港から数十年、明治29年の第1期築港工事、明治32年からの第2期工事を経て、新港ふ頭は日本初の接岸式ふ頭システムとして整備された。その中核をなす赤レンガ倉庫は明治末期から大正初期にかけて国の模範倉庫として建設され、絹・茶などの輸出品と綿糸・砂糖などの輸入品の保税倉庫として機能した。 1989年に倉庫としての用途を廃止されるまで、130年近くにわたって港湾労働を支えた施設である。波止場と倉庫に囲まれた街区には、100年以上の貨物取扱と物流システムの変遷が物理的に刻まれている。港湾の近代化と衰退の両方を記録する空間として、現在では保存と活用の対象となっているが、再開発から外れた一部の廃倉庫跡は依然として無人のままであり、往時の作業風景と現在の静寂の落差が際立つ場所である。

横浜外人墓地
神域・霊場·神奈川県 横浜市

横浜外人墓地

神奈川県横浜市中区山手町にある横浜外国人墓地(よこはまがいこくじんぼち)は、開港期から現代まで横浜で亡くなった外国人を埋葬してきた墓地である。約18,000平方メートルの敷地に、約4,400人の故人が眠り、40カ国以上の国籍を持つ人々が埋葬されている。 墓地の起源は、嘉永7年(1854年)3月、再来日したペリー艦隊のミシシッピー号で、二等水兵ロバート・ウィリアムズ(24歳)がマストから墜落して死亡したことに遡る。ペリーは幕府との交渉の中で、ウィリアムズの埋葬地として「海の見える地」を要求した。これに応じて横浜村(現在の元町・山手地区)の増徳院の境内が墓所として提供され、ウィリアムズの墓が建てられた。これが横浜外国人墓地の最初の埋葬である。 1858年の日米修好通商条約と続く各国との通商条約により、横浜は開港地として正式に開かれた。外国人居留地が山手丘陵を中心に形成され、ヨーロッパ、アメリカ、中国、東南アジアなどから多くの外国人が居住するようになる。それに伴って外国人専用の埋葬地として、文久元年(1861年)に山手の高台の現在地が整備された。 墓地に眠る人々の多くは、開港期から明治・大正・昭和初期にかけて横浜で生活し、文化・経済・宗教・外交の各分野で活動した外国人である。横浜の近代化に貢献した英国人、フランス人、ドイツ人、アメリカ人の実業家、医師、宣教師、教師、技師、建築家、商人、軍人、そしてその家族たちが眠る。日本に骨を埋めた者、不慮の事故で命を落とした者、外国人居留地で生まれそのまま亡くなった子どもなど、横浜の国際都市としての歴史と表裏一体の埋葬地である。 墓地内には、フランス人技師レオンス・ヴェルニー(横須賀製鉄所の建設指導)、英国人外交官ヘンリー・ヒースコート、米国人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンなど、日本近代史の教科書にも登場する人物の墓が複数ある。生麦事件(文久2年・1862年)の被害者リチャードソンの墓もある。 第二次世界大戦中、外国人墓地は連合国国民の埋葬地として一部で接収・転用の動きがあったが、戦後速やかに復旧された。1971年(昭和46年)、財団法人横浜外国人墓地(現在は公益財団法人横浜外国人墓地)が設立され、現在に至るまで管理運営を続けている。 墓地は通常、外国人墓地友の会の協力金(任意)と引き換えに見学可能。期間や時間に制限があり、宗教施設・埋葬施設としての厳粛な性格を守るため、墓石を踏まないなどのマナーが訪問者に求められる。墓地の上の高台には「外国人墓地資料館」(小さな展示室)があり、墓地の歴史と眠る人々の物語を学べる。 横浜山手地区一帯は「山手洋館巡り」の観光コースとして整備されており、外国人墓地はその中核に位置する。エリス号殉難碑、英国総領事館、外国人墓地、山手234番館などを徒歩で巡れる文化観光ルートになっている。みなとみらい線元町・中華街駅から徒歩約10分。

三角埋立地
路上・交差点·神奈川県 横浜市

三角埋立地

神奈川県横浜市の三角埋立地は、1960~1970年代の高度経済成長期における大規模港湾開発プロジェクトの一部として造成された。当期、横浜港は昭和38年(1963)の山下ふ頭完成、昭和45年(1970)の本牧ふ頭完成、昭和46年以降の大黒ふ頭・金沢地先埋立など、段階的な拡張工事を実施した。これらの埋立地は京浜工業地帯の重化学工業発展を支える物流・工業用地として機能し、日本の経済高成長を支える基盤となった。海上と陸上工事が交錯する複雑な環境下での施工であり、同期の港湾工事全般は多くの建設労働者を動員した大事業である。現在も当地は管理区域内の倉庫群と区画が静かに配置され、当時の港湾インフラ整備の跡を留めている。

打越橋
橋・高架·神奈川県 横浜市中区

打越橋

神奈川県横浜市中区の打越橋は、1928年(昭和3年)に竣工した鋼製アーチ橋である。関東大震災(1923年)後、かつて牛島山と呼ばれた丘に多くの避難民が居住するようになり、丘の上と下の交通を確保する必要から架設された。上路式2ヒンジ鋼ランガー橋で、橋長38.4メートル、幅員7.3メートル。竣工当初は淡いピンク色に塗装されていたが、後に朱色に塗り替えられた。設計は横浜市土木局による。 設計上、当該地区周辺に居住していた外国人移住者を意識した西洋的な美的配慮が特徴で、国際都市・横浜の歴史的背景を反映した構造物である。橋下の切通し工事で生じた土砂は山下公園の造成に用いられた。1990年には「かながわの橋100選」に、2003年には横浜市認定歴史的建造物に、2015年には土木学会選奨土木遺産に認定された。 震災復興期の土木技術と、大正期の横浜における外国人居留地文化の交差を示す建造物として、都市史的価値を持つ。

集落・廃村·神奈川県 横須賀市

田浦廃村(湘南田浦ニュータウン跡)

神奈川県横須賀市の田浦地区、国道16号沿いから西側に入った丘陵地に、住宅開発の途中で放棄された集落跡がある。1999年、この土地では大規模な戸建て住宅地「湘南田浦ニュータウン」の開発許可が下り、既存の住民は立ち退きに応じたものの、事業者側の事情で工事は着工されず計画は頓挫した。住民が去った後も家財道具や生活用品が置き去りにされた住宅が二十軒以上残り、長年にわたって手つかずのまま放置され、次第に廃墟群として知られるようになった。訪れた人々の間では、廃屋のひとつが2000年公開のホラー映画に登場する屋敷を思わせる外観だとして「伽椰子の家」と呼ばれ、少女の霊が現れるという噂が語られてきた。2013年に開発区域は別の事業者に引き継がれ、当初は再び戸建て住宅地として造成する計画が進められたが、2015年にこの住宅開発計画は取り下げられ、太陽光発電施設の建設計画に変更された。2017年から周辺一帯は立ち入りが制限され、2018年から2019年にかけて残っていた建物は解体された。現在も立ち入りは制限され警察による巡回が行われており、かつての住宅跡は工事用地として整備が進められている。

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