神奈川県の心霊スポットランキング
油壺
神奈川県三浦市三崎町小網代、三浦半島南端の入江は、油壺と呼ばれている。隣接する小網代湾と共に天然の良港を形作り、ヨットハーバーや東京大学三崎臨海実験所が周囲に整備されている。 地名「油壺」の由来は、永正13年(1516年)に滅亡した三浦氏の故事に基づく。鎌倉幕府草創以来400年続いた相模の名族・三浦氏は、新井城(現在の油壺・諸磯一帯)に本拠を置き、関東への進出を目論む小田原・伊勢宗瑞(北条早雲)と対峙していた。3年に及ぶ籠城戦の末、援軍は到着せず、最後の当主・三浦道寸義同とその子荒次郎義意以下諸将が討死または自刃して落城した。 この落城の様子を伝える江戸期の地誌『新編相模国風土記稿』『新編武蔵風土記稿』『三浦三崎志』などには、城兵が崖から入江に身を投じたため海面に流れた血が油のように凪いだことから「油壺」と呼ばれるようになった、という記述がある。新井城の遺構は東京大学三崎臨海実験所と京急油壺マリンパーク跡地の周辺に散在し、土塁や堀の一部が現在も確認できる。 京急油壺マリンパークは2021年に閉園した。跡地は現在再開発計画が進行している。油壺湾沿いには遊歩道と観光案内板が整備され、油壺の入江と新井城跡をめぐる散策コースを歩くことができる。
横浜廃倉庫街の怪奇
神奈川県横浜市の港湾地区に残る旧廃倉庫街は、かつて貿易港として栄えた横浜の歴史を物語る建造物だが、近代化開発から取り残された区画は長年放置され心霊スポットとして知られるようになった。明治から昭和にかけて多くの荷役労働者が過酷な環境で働き、事故や病気で命を落としたこの地には、彼らの霊が今も漂っているという伝承がある。廃倉庫の内部では夜間に荷物を引きずるような音が聞こえるという報告が相次いでおり、港のインフラが整備される前に海没した人足の霊が波に引かれて戻ってくるのだとも言われる。
相模湖
神奈川県相模原市緑区、相模川中流域に造成された相模ダムによってできた人造湖が相模湖である。湖面標高167メートル、満水面積3.26平方キロメートル、総貯水量約6,330万立方メートル。日本初の多目的ダム湖として、洪水調節、上水道、工業用水、発電を兼ねる目的で計画された。 ダム計画は昭和初期に始まる。神奈川県と東京府の急速な工業化・都市化に対応するため、神奈川県土木部が1938年(昭和13年)に相模川総合開発計画を策定した。建設工事は1940年(昭和15年)に着工し、第二次世界大戦の混乱を挟んで1947年(昭和22年)に完成、湛水を開始した。 建設工事には延べ約360万人の労働力が動員された。戦時下の資材難・労働力不足という背景のなか、内地の労働者だけでは到底まかなえず、当時の国家動員体制の下、朝鮮半島出身の労働者と中国人捕虜が砂利採取や運搬作業に動員された。神奈川県と当時の各事業者の記録、戦後の調査によって、朝鮮人約800名、中国人約290名の動員規模が確認されている。 工事による殉職者は確認できる範囲で83名にのぼる。神奈川県は1990年代に湖畔の県立相模湖公園内に湖銘碑を建立、戦時動員の日本人・朝鮮人・中国人の名前を刻み、毎年慰霊行事を継続している。神奈川県と相模原市の郷土資料は、当時の動員と殉職の実態を後世に伝える資料として公開されている。 ダム湖の建設に先立ち、湖底に沈んだ集落として勝瀬地区が知られる。約100戸の住民が湖底化の補償を受けて湖畔の高台や他地域へ移住した。当時の地形図、移住前後の写真、住民の証言記録は相模原市立博物館に収蔵されている。 戦後、相模湖は首都圏近郊の観光地として整備され、ボート遊覧、釣り、ピクニックで親しまれてきた。湖畔には相模湖公園、相模湖プレジャーフォレスト、勝瀬橋などがあり、JR中央本線の相模湖駅から徒歩でアクセスできる。秋には湖畔の紅葉と県境の山々の眺望が楽しめる。湖を渡る遊覧船は通年運航している。
小田原心霊トンネル
神奈川県小田原市に存在するこのトンネルは、地元の心霊スポット愛好者の間で「小田原心霊トンネル」として恐れられている場所だ。トンネル内部を歩いていると突然後ろから走ってくる車の気配を感じるのに振り返っても何もないという体験や、誰もいないはずなのに肩を叩かれる感触に驚いて走って逃げ出したという体験談が絶えない。このトンネルでは過去に不幸な交通事故が発生しており、亡くなった方々の無念の霊がトンネル内に留まっていると言われている。
横浜外人墓地
神奈川県横浜市中区山手町にある横浜外国人墓地(よこはまがいこくじんぼち)は、開港期から現代まで横浜で亡くなった外国人を埋葬してきた墓地である。約18,000平方メートルの敷地に、約4,400人の故人が眠り、40カ国以上の国籍を持つ人々が埋葬されている。 墓地の起源は、嘉永7年(1854年)3月、再来日したペリー艦隊のミシシッピー号で、二等水兵ロバート・ウィリアムズ(24歳)がマストから墜落して死亡したことに遡る。ペリーは幕府との交渉の中で、ウィリアムズの埋葬地として「海の見える地」を要求した。これに応じて横浜村(現在の元町・山手地区)の増徳院の境内が墓所として提供され、ウィリアムズの墓が建てられた。これが横浜外国人墓地の最初の埋葬である。 1858年の日米修好通商条約と続く各国との通商条約により、横浜は開港地として正式に開かれた。外国人居留地が山手丘陵を中心に形成され、ヨーロッパ、アメリカ、中国、東南アジアなどから多くの外国人が居住するようになる。それに伴って外国人専用の埋葬地として、文久元年(1861年)に山手の高台の現在地が整備された。 墓地に眠る人々の多くは、開港期から明治・大正・昭和初期にかけて横浜で生活し、文化・経済・宗教・外交の各分野で活動した外国人である。横浜の近代化に貢献した英国人、フランス人、ドイツ人、アメリカ人の実業家、医師、宣教師、教師、技師、建築家、商人、軍人、そしてその家族たちが眠る。日本に骨を埋めた者、不慮の事故で命を落とした者、外国人居留地で生まれそのまま亡くなった子どもなど、横浜の国際都市としての歴史と表裏一体の埋葬地である。 墓地内には、フランス人技師レオンス・ヴェルニー(横須賀製鉄所の建設指導)、英国人外交官ヘンリー・ヒースコート、米国人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンなど、日本近代史の教科書にも登場する人物の墓が複数ある。生麦事件(文久2年・1862年)の被害者リチャードソンの墓もある。 第二次世界大戦中、外国人墓地は連合国国民の埋葬地として一部で接収・転用の動きがあったが、戦後速やかに復旧された。1971年(昭和46年)、財団法人横浜外国人墓地(現在は公益財団法人横浜外国人墓地)が設立され、現在に至るまで管理運営を続けている。 墓地は通常、外国人墓地友の会の協力金(任意)と引き換えに見学可能。期間や時間に制限があり、宗教施設・埋葬施設としての厳粛な性格を守るため、墓石を踏まないなどのマナーが訪問者に求められる。墓地の上の高台には「外国人墓地資料館」(小さな展示室)があり、墓地の歴史と眠る人々の物語を学べる。 横浜山手地区一帯は「山手洋館巡り」の観光コースとして整備されており、外国人墓地はその中核に位置する。エリス号殉難碑、英国総領事館、外国人墓地、山手234番館などを徒歩で巡れる文化観光ルートになっている。みなとみらい線元町・中華街駅から徒歩約10分。
旧小坪トンネル
神奈川県逗子市にある旧小坪トンネルは、鎌倉時代の処刑場跡に近い位置にあり、古くから死霊が集まる場所として恐れられてきた。断頭された罪人たちの怨念がこの地に染み込んでいるという伝承は数百年の時を超えて現代にまで受け継がれており、心霊現象の目撃談は今も増え続けている。トンネル内部を通行中に、白装束を纏った人物が壁際に立って通行人を見つめているのを目撃したという報告が複数の利用者から寄せられており、その人物は視線を向けると瞬時に消えてしまうという。
旧善波トンネル
神奈川県秦野市と伊勢原市の境にある善波峠は、国道246号の旧ルート上にある峠である。標高は約300メートル、丹沢山地南端の小規模な峠で、相模湾側と丹沢北部を結ぶ古くからの交通路だった。 旧善波トンネルは、1928年(昭和3年)開通の延長143メートルの自動車道トンネルである。両坑門はコンクリート造で、当時としては標準的な装飾が施されている。1930年代の地方道トンネルの典型例として、土木史的にも関心の対象となる構造物である。 1965年(昭和40年)9月2日、このトンネル付近で発生した交通事故が、地元の郷土史に重要な位置を占めている。当時17歳の少年が、バイクで峠を走行中、対向するトラックと正面衝突して死亡した。少年の名は「準一」と伝えられ、若い命が交通事故で失われた悲劇として、地元で長く記憶されてきた。 事故の後、遺族と地域の住民が事故現場近くに地蔵を建立し、「もう死なないで 準一」と刻んだ看板を立てた。看板と地蔵は、若者の死を悼むと同時に、後続の運転者に安全運転を呼びかける警鐘の意味を込めて設置されたものだった。看板は1989年(平成元年)に老朽化のため一度撤去されたが、地蔵そのものは現在も残されており、地元の交通安全祈願の対象として手向けが続けられている。 旧善波トンネルは、1980年代以降の国道246号の改良工事に伴い、新しいバイパスルートの建設で交通量が大きく減少した。現在は地域住民の生活道として、また旧道散策のコースとして利用されている。 秦野市と伊勢原市の郷土史と交通安全運動の記録の中で、旧善波トンネルの事故と「準一の地蔵」の物語は、戦後の交通安全教育の象徴的な事例として語り継がれている。神奈川県警察本部の交通安全広報の資料にも、この事例が触れられたことがある。 旧トンネルの両坑口は、植生が迫る荒れた状態に近いが、徒歩での通過は可能。車道幅員が狭く、照明は設置されていないため、夜間の通行は推奨されない。
旧小田原城跡
神奈川県小田原市の旧小田原城跡は、戦国時代に北条氏の本拠地として栄えた名城の面影を今に伝える史跡だが、戦乱の歴史ゆえに多くの霊的な伝承が根付いている場所でもある。城が落城した際に多数の武将や姫君が命を落とし、その無念の魂が今も城跡を徘徊しているという話は古くから語り継がれてきた。石垣の近くを夜間に歩くと、甲冑の擦れるような音が聞こえたり、白い女性の影が石垣の上を滑るように移動するのを見たという証言が複数存在する。
三角埋立地
神奈川県横浜市にある三角埋立地は1970年代の大規模な海底埋立工事中に多数の犠牲者が出た事故現場として知られており、工事関係者の霊が埋立地の周辺を夜間に徘徊しているという噂が地域に伝わっている。夜間は立ち入り禁止であり、フェンス越しに内部を覗いた者が不気味な体験をするという報告が続いている。
旧鎌倉街道
鎌倉時代に幕府と各地を結んだ古道の総称である旧鎌倉街道は、中世の戦乱の時代に多くの武士が行き交い、合戦や処刑も行われた歴史的な場所である。街道沿いには首塚や古い祠が今も点在しており、夜間に甲冑の音が聞こえるという伝承が各地に残され、心霊スポットとして探訪者が訪れている。