宮崎県の心霊スポット ランキング TOP10

宮崎県にある心霊スポットを 閲覧数恐怖度(怖い率)・体験談数 の 3 軸で順位化しています。 一覧ではなく順位推移を見たいときに使ってください。

どれだけ調べられているかを示す注目度指標。スポット名で直接検索された回数に近い。

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飫肥城廃墟区域

飫肥城は宮崎県日南市の城下町中心部に位置する江戸期の城跡である。天正15年(1587)に伊東祐兵が豊臣秀吉から領地を与えられて以来、伊東氏14代が1871年の廃藩まで支配した。城域は東西750メートル、南北500メートルの規模を有し、シラス台地の段差を活かした複数の曲輪で構成されている。 現在、本丸跡、大手門、旧藩校振徳堂(天保2年開校)といった施設は復元・整備されて公開されている一方で、城域の外縁部には石垣の崩落や雑草地が残存している。これらの手つかずの領域は、活発に保存整備される中心部と対照的に、訪問客の少ない静謐な空間を形成している。1977年に九州で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定され、城下町全体が歴史的景観として位置づけられている。

日南市·7 views
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青島断崖

宮崎市青島周辺の断崖は、新生代新第三紀に海底に堆積した砂岩と泥岩が規則正しく互層をなす「宮崎層群」が地殻変動により傾斜・露出し、長年の波浪侵蝕によって形成された海岸地形である。地層の岩質の硬度差により砂岩と泥岩の溝が深く刻まれ、干潮時には幅20メートルから100メートルにわたって波状の凹凸が連なり、遠景から洗濯板に見立てた「鬼の洗濯板」という名称で知られている。国指定天然記念物に指定され、宮崎から南方8キロメートルにわたって連続する地質学的遺産である。 青島神社は「彦火火出見命が海神宮から帰還した際に青島に上陸して宮を営んだ」という山幸彦・海幸彦の神話に基づき創祀されたと伝えられ、天津日高彦火火出見命、豊玉姫命、塩筒大神を祀る。縁結びと航海安全の神として信仰されており、断崖一帯は信仰と歴史が層状に積み重なる場所である。 断崖の自然美と信仰の結合は、海を生活圏とする歴史を持つ地域社会の記憶を濃厚に反映している。一方で急傾斜・波浪・強風による転落危険が極めて高く、訪問者の安全と地域への敬意が必須である。

宮崎市·6 views
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青島神社周辺海岸

宮崎県宮崎市の青島周辺に広がる断崖は、新生代の砂岩と泥岩が交互に積み重なる「宮崎層群」が傾斜露出し、波食によって硬度差が顕著になった結果、規則正しい波状の凹凸が長さ8キロメートルにわたって連続する。この波状岩は「鬼の洗濯板」と呼ばれ、干潮時には最大100メートル幅に及ぶ景観が出現する。国指定天然記念物に指定されている。青島神社は日向神話の舞台として、彦火火出見命(山幸彦)が海神宮から帰還した地点とされ、縁結びと航海安全の守護神として祀られている。江戸期以来、潮待ちの船乗りや地域の漁業者に厚い信仰を集めてきた。 夜間の海岸では、波と風、岩の不規則な反射音が複合的に作用する。人工光が少ない環境で暗順応が進むと、岩肌の凹凸が人の顔や体に見えやすくなり、小さな音の定位が曖昧になる。これらの知覚特性と、古来からこの地に根ざした海難への記憶や神話的世界観が結びつくことで、「何かが見えた」「声が聞こえた」という主観的な報告が生まれる。地域の海運と信仰の歴史の重さが、感覚体験を通じて感じ取られている。

宮崎市·5 views
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旧宮崎廃海軍基地跡

宮崎県宮崎市の現在の宮崎ブーゲンビリア空港一帯には、太平洋戦争中に旧日本海軍が建設した赤江飛行場の遺構が残されている。1943年に練習航空隊の基地として開設された当地は、翌1944年からは九州最大級の前線基地として機能し、3本の滑走路を持つ大規模な施設だった。1945年3月から終戦までの間、約380人の特攻隊員がここから出撃した。 現在、宮崎空港の周辺部には複数の掩体壕(えんたいごう)が存在している。特に本郷地区に散在する6基のコンクリート製掩体壕は、航空機を空襲から守るために戦中に構築された施設であり、終戦から80年以上経た今も、その直線的な輪郭を保ったまま草地に埋もれている。基地跡の北西から南東方向へ走っていた滑走路の痕跡も部分的に確認でき、西側の旧滑走路上には現在、一ツ葉有料道路が走っている。 慰霊碑が建立され、戦没者への追悼が地域に根付く場所として扱われている。

宮崎市
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堀切峠

堀切峠は宮崎市南部、国道220号の旧道沿いに位置する峠道で、太平洋を望む絶景と海岸の奇岩「鬼の洗濯板」で知られる観光地である。峠の急カーブが続く区間は、2008年にトンネルを含む新道が開通する以前、日南方面へ抜ける主要道路として利用されていた。この峠では昭和40年代、幼稚園児を乗せたバスがカーブを曲がりきれず崖下に転落し、乗員全員が死亡する事故が起きたとされる。この事故を契機に、峠周辺では子どもの霊にまつわる噂が広まったという。目撃情報としては、通行する車のボディやフロントガラスに小さな手形のようなものが浮かぶ、子どもの笑い声のような音が聞こえるといった話が伝えられている。峠道が交通の難所として利用されていた時期には、特定のカーブでの死亡事故が相次いだとの証言もあり、その事故後に赤いテールランプが不自然に現れて消えたという体験談も残されている。景勝地としての知名度と、峠道特有の事故の記憶が結びつき、堀切峠は宮崎県内で知られる心霊スポットの一つとして扱われている。

宮崎市
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浦城トンネル

浦城トンネルは宮崎県延岡市浦城町付近(北川町長井との境に近い)、国道388号沿いに位置するトンネルである。トンネル西側には延岡市営火葬場「悠久苑」があったが、2012年に新施設への移転に伴い閉鎖され、建物は現在も残るものの立ち入りはできない。かつて火葬場の前には公衆電話ボックスが設置されており、この電話ボックス付近で、電話をかけていた母親とその子どもが自動車にはねられ死亡したとの噂が伝わっている。この事故の噂を背景に、三輪車に乗った男の子の霊がトンネル内を走る車と並走するという話が広まった。ほかにも、トンネル内で車のエンジンが突然停止する、電話ボックスがあった付近から着信音が響くが履歴には残らないといった現象が報告されている。電話ボックスは既に撤去され、周辺は静まり返っているが、複数の心霊情報サイトで同様の噂が紹介され続けている。

延岡市
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久峯隧道(コツコツトンネル)

久峯隧道は宮崎市佐土原町下那珂の国道10号沿いにある1962年竣工、全長73メートルほどの隧道で、照明のない直線トンネルである。通称「コツコツトンネル」として知られ、この呼び名は、クラクションを3回鳴らすとコツコツという足音が響き女性の霊が近づいてくる、あるいは車の窓ガラスを叩く音が聞こえるという噂に由来する。噂の由来としては、この付近に住むある女性が許されない相手と密会する際、相手がトンネル内でクラクションを3回鳴らして合図を送っていたとする話がある。ある時、いたずらで同じ回数のクラクションを鳴らした車が通り、合図と思い込んで駆け出した女性が走行中の車にはねられて亡くなったとする筋立てが紹介されている。加えて、トンネル周辺にはかつて防空壕や火葬場の跡地があったとする説も紹介され、戦時の記憶がこの場所の不気味さを補強する要素として結び付けられている。ただしこれらはいずれも検証されていない噂であり、実際の被害者や事件の記録は確認されていない。

宮崎市
8

ホテルアイランド

宮崎市青島に近い加江田地区に、かつて「ホテルアイランド」と呼ばれる廃墟が存在した。ラブホテルとして営業していたが、建物はもともと昭和初期の結核療養施設、あるいは傷病兵を収容した病院だったという説が伝わり、廊下の奥には見取り図にない螺旋階段が続き、その先に手術室があったという噂が語られている。営業中に怪奇現象が相次いだために経営者が撤退し廃業したとされ、廃墟化した後は暗がりに老婆の姿を目撃した、うめき声や助けを求める声が響いたといった話が広まった。心霊写真が撮影されたとの報告もあり、テレビの怪談企画で紹介されたことで全国的な知名度を得た。一方で病院時代の詳細や死亡事故について自治体史や報道による裏付けは確認されておらず、建物は倒壊の危険を理由に2005年に解体され、現在は跡形をとどめていない。

宮崎市
9

平和台公園

宮崎市下北方町の丘陵地に整備された都市公園で、園内には1940年に紀元二千六百年記念事業として完成した高さ36メートル余りの「平和の塔」がそびえる。塔は当初「八紘之基柱」と呼ばれ、正面には秩父宮雍仁親王の筆による「八紘一宇」の文字が刻まれていた。終戦後、GHQの指示で文字と四隅の像が撤去され、1960年代になって復元された経緯を持つ。園内のはにわ園には多数の埴輪が並び、深夜になると埴輪が動き出したり目が光るという噂が伝えられている。平和の塔の周辺では女性の霊が目撃されるとの話があり、園内の池では入水した女性の霊が現れるという話も語られている。戦争で亡くなった人々を慰霊する目的で整備された経緯から、戦死者の霊が成仏できずにいるとする説や、終戦時に集団自殺があったという噂と結び付け、その人数分の埴輪が置かれているとする話も伝えられている。

宮崎市
10

寒川集落

宮崎県西都市の山間部、三財川北岸の斜面に位置する寒川集落は、慶長2年(1597年)創建と伝わる寒川天神社の存在から、江戸時代以前より人が住んでいたとされる約400年の歴史を持つ山村だった。かつては林業を基盤に200人を超える住民が暮らしていたが、1960年代以降の林業衰退と高齢化により人口は減少を続け、1978年には集落の小中学校が閉校した。1986年、住民が市に集団移転を陳情し、1989年3月、最後まで残っていた6世帯13人(平均年齢70歳超)が麓の地区へ移り住み、宮崎県内で最初の集団離村となった。移転の条件として、かまどを壊し畳を上げることが求められ、住居として二度と使えない状態にしてから集落を去ったと伝えられている。現在、大半の家屋は倒壊・腐朽が進み、旧校舎も倒壊が進んでいるが、神社の祠は今も保たれている。こうした無人の廃村跡では、白髪の老婆の姿をした霊が廃屋の窓からじっと見つめてくる、という噂が複数の記録で語られている。

西都市