山梨県の心霊スポット ランキング TOP10
山梨県にある心霊スポットを 閲覧数 ・恐怖度(怖い率)・体験談数 の 3 軸で順位化しています。 一覧ではなく順位推移を見たいときに使ってください。
どれだけ調べられているかを示す注目度指標。スポット名で直接検索された回数に近い。
青木ヶ原樹海
山梨県南都留郡富士河口湖町と鳴沢村、富士山北西麓に広がる青木ヶ原樹海(あおきがはらじゅかい)は、面積約30平方キロメートルの広大な原生林である。深い緑の樹冠が海原のように連なる景観から「樹海」と呼ばれ、富士箱根伊豆国立公園の一部として国の特別保護地区に指定されている。 樹海の地質は、864年(貞観6年)から866年にかけて発生した富士山の貞観大噴火に由来する。噴火に伴う溶岩流(青木ヶ原溶岩)が、当時山麓に存在していた原野と森林、湖の一部を覆い尽くした。冷却した溶岩台地の上に、千年余りの時間をかけてヒノキ、ツガ、モミ、アカマツなどの針葉樹を中心とする原生林が再生したのが、現在の青木ヶ原樹海の姿である。 溶岩台地という特殊な地形のため、樹海内では地表に深い土壌層が発達せず、樹木の根は岩盤の表面を這うように伸びる。複雑な地形と均一な樹冠が方向感覚を失わせやすいことから、古くから「樹海に入ると方角がわからなくなる」と言われ、登山地図と方位磁石(コンパス)の併用が推奨される地形である。 「コンパスが効かない」という都市伝説が広く知られるが、これは正確ではない。溶岩の磁鉄鉱含有量はわずかで、地磁気を狂わせるほどの強度はない。コンパスは通常通り機能する。むしろ、樹海内の整備された遊歩道を離れて自由に歩くと、地形と植生の均一さで方向感覚を保つのが難しい、というのが実際の困難の理由である。 樹海内には複数の溶岩洞窟が存在する。富岳風穴(国の天然記念物)、鳴沢氷穴(同)、西湖蝙蝠穴などが観光地として整備され、夏でも内部の気温が0度近くに保たれる冷気洞として知られる。風穴・氷穴は江戸期から養蚕種の冷蔵保管に利用された歴史があり、産業遺産としての側面もある。 樹海は「自殺の名所」というレッテルが社会的問題として議論されてきた。1960年代以降、心中・自殺の現場として複数の報道があり、文学作品(松本清張『波の塔』、戦後の様々な小説)に登場したことで全国的に知られるようになった。山梨県と地元自治体、警察、いのちの電話などの相談機関が連携し、樹海の入口に「再考を促すメッセージ」と相談窓口連絡先を掲示する取り組みを継続している。 観光地としての青木ヶ原樹海は、整備された遊歩道を歩くハイキングコースとして安全に楽しめる。富岳風穴・鳴沢氷穴を結ぶ遊歩道、東海自然歩道、富士河口湖町の樹海観光案内所が提供するガイドツアーなどが、観光案内サイトに掲載されている。
旧笹子トンネル
山梨県大月市と甲州市の境、標高1,096メートルの笹子峠の直下に、旧笹子トンネルは穿たれている。1938年(昭和13年)開通、全長239メートル、当時の国道8号(現国道20号、甲州街道)の改良工事の一環として建設された。 甲州街道の笹子峠は江戸期から「箱根八里より険しい」と評された難所で、馬車や荷車の通行には大きな障害だった。明治期から大正期にかけて改良工事が断続的に行われたが、決定的な改善は昭和初期のトンネル開通を待つことになる。当時の内務省土木局の指揮の下、両坑門は鉄筋コンクリート造で堂々たる装飾を施し、柱形と帯石、上部の蛇腹状装飾が施された。近代土木の美意識が色濃く表れた構造物として、土木学会の選奨土木遺産にも選定されている。 1958年(昭和33年)、より低い標高に新笹子隧道(中央自動車道の前身となる新道)が開通すると、旧笹子トンネルは国道指定を外れて山梨県道212号の一部となった。利用者の減少に伴って植生が両坑口周辺を覆い、トンネル内部も湿度が高く苔の生育が目立つようになった。 1997年(平成9年)、笹子隧道は国の登録有形文化財に登録された。建造から半世紀以上が経過した昭和初期土木構造物としての価値が認められた形である。トンネル自体は現在も通行可能だが、車道幅員が狭く照明設備がないため、夜間の通行は推奨されていない。 注意点として、2012年12月に中央自動車道の現役トンネル「笹子トンネル」で天井板崩落事故が発生しているが、これは旧笹子トンネルではなく、中央自動車道上り線の別構造物である。当時のメディア報道で混同が見られたが、両者は別の場所に位置する別のトンネルである。
笹子トンネル
山梨県大月市笹子町と甲州市大和町を結ぶ笹子峠は、甲州街道の難所として古くから知られてきた。標高1,096メートルの峠を越える経路に、現在は複数のトンネルが整備されており、それぞれ「笹子トンネル」の名で呼ばれる構造物がある。 最も古いのは1903年(明治36年)、中央本線(旧国鉄)が開通させた笹子トンネル(鉄道)。当時の日本最長のトンネルとして開通した。続いて自動車道として1938年(昭和13年)、国道20号の旧笹子トンネルが開通した。両坑門に煉瓦アーチと装飾を施した美しい構造物で、1997年(平成9年)に登録有形文化財に登録された。 1958年(昭和33年)に新笹子隧道(後の国道20号本線)が開通し、旧トンネルは県道に格下げされた。さらに1977年(昭和52年)、中央自動車道の笹子トンネルが完成。上り線4,717メートル、下り線4,784メートルの長大トンネルで、首都圏と山梨・長野方面を結ぶ大動脈となった。 中央自動車道の笹子トンネルは、2012年(平成24年)12月2日午前8時頃、上り線で天井板崩落事故を起こした。長さ140メートルにわたって天井板が落下し、通行中の乗用車3台に直撃、9名が亡くなる重大事故となった。国土交通省と運輸安全委員会の事故調査によれば、天井板を吊るすボルトの経年劣化が主因とされた。事故後、中日本高速道路は当該トンネルの天井板を撤去し、ジェットファン式換気に切り替え、全国の同型構造トンネルの一斉点検と補強が行われた。 事故慰霊碑が笹子峠の入口付近に建立され、毎年12月2日に犠牲者を悼む慰霊式典が行われている。日本のトンネルインフラの老朽化問題を象徴する事故として、メディアと土木学界が継続的に議論の対象としてきた。 旧笹子隧道(県道)と中央自動車道の笹子トンネルは別の構造物であることに注意が必要。旧隧道は登録有形文化財として車両通行可能(夜間と大型車は推奨されない)、中央自動車道は事故後の補修と運用見直しを経て、現在は通常通行している。
神隠しの山中温泉
山梨県東部・富士吉田市の郊外、富士山の北麓に広がる山々の奥に、「神隠しの山中温泉」と地元で呼ばれてきた小さな湯のひとつがある。標高が高く、霧と天候の急変が多いこの一帯は、晴れた空が短時間で完全な視界不良に転じる気象条件で知られ、登山者・観光客が道に迷いやすい場所として古くから戒められてきた。現象は「山の神に連れて行かれる」という言葉で穏やかに語り継がれる、富士信仰の周辺の心霊スポットでもある。 寄せられる体験談で多いのは、湯への山道を歩いていると、急に空気が冷たくなり、気づいたら別の方向の沢にたどり着いていた、というものである。鳥や獣の声が一斉に止まる時間があった、見知らぬ風景に出てしまい、しばらく方向感覚が戻らなかった、と語る訪問者がいる。具体的な事故として記録に残らない「迷い」の体験が、伝承を支える形で蓄積されてきた。 富士山周辺は古来より修験道の対象として尊ばれ、山と里の境界に対する畏敬の感覚が文化に深く根づいている。地元では、神隠しは怪奇現象というより、人が山に対して持つべき距離感を伝える戒めの物語として穏やかに語られてきた。 山中の湯への道は気象条件で容易に視界不良となり、装備のない単独行動は遭難に直結する。心霊目的の深夜入山は致命的なリスクを伴う。訪れる場合は富士吉田市の観光案内所で最新の気象情報を確認し、日中の正規ルートで複数人で行動し、富士山周辺の信仰への敬意を欠かさないこと。
大日影トンネル
山梨県甲州市勝沼、ぶどう畑の広がる丘陵を貫く旧国鉄中央本線の煉瓦造りトンネル。1903年(明治36年)に開通し、急勾配の難所として長く列車を通してきたが、新線への切り替えにより1997年に役目を終えた。その後は遊歩道として整備された時期もあったが、老朽化のため立ち入りが制限され、ひんやりと暗い廃隧道として、心霊スポットとしても語られるようになった。全長は約1.3kmあり、内部に入ると外の光がまったく届かなくなる区間が長く続くため、わずかな物音や気配さえ増幅され、ひとりで歩くには勇気のいる場所だと言われる。 トンネルの内部では、出口の光が遠ざかる中ほどで人の気配を感じた、誰も歩いていないのに足音が反響してついてきた、壁の煉瓦に手をついた瞬間に強い寒気を覚えた、といった体験談が伝わる。百年以上にわたって列車と人を見送ってきた長い隧道の闇と、染み出す湧水の冷たさが、こうした語りを支えている。勝沼側と深沢側を結ぶこのトンネルは夏でもひやりと冷たく、暑い季節の肝試しスポットとしても語られてきた。 難工事の歴史を持つトンネルだけに、地元では建設や運行に携わった人々への敬意が受け継がれており、遺構を荒らす行為は戒められている。 トンネル内は照明や換気が乏しく、足元も悪い。立ち入りが制限されている区間も多く、無断での進入は事故や法令違反につながる。訪れる際は公開状況を確認し、開放された範囲と時間を必ず守ること。
南アルプス市旧農業試験場廃墟
南アルプス市は釜無川と御勅使川がもたらす国内最大級の扇状地を擁し、かつては「月夜にも灼ける」と呼ばれた乾燥地帯だった。江戸期の灌漑施設整備を経て、戦後は農業基盤の拡大とともに、養蚕地帯から果樹栽培地帯へ産業転換を遂行した。この転換を技術的に支えたのが、山梨県の各種農業試験施設である。昭和期の県農業試験場は各地に分場や試験圃場を設けて、地域の農業改良と品種研究を担ってきた。しかし1980年代以降、試験機関の統廃合が進み、1984年に農業試験場などの統合、2006年の総合農業技術センターへの改組により、個別の試験施設は次々と役割を終えた。市域内の旧試験場建屋も、改組と合理化の流れのなかで取り壊されずに放置されたものと考えられる。研究棟や温室跡、試験区画のコンクリート施設が残存し、地域農業の発展を支えた技術的基盤が、時間の経過とともに地形に刻まれている。 敷地は多くの場合私有地・公共管理地であり、建屋内部は床の腐朽、薬品残渣、ガラス片など実害の危険が高い。無断侵入や夜間探訪は法的にも安全的にも避けるべきである。
昇仙峡・仙娥滝
山梨県甲府市の昇仙峡は、荒川上流の花崗岩が深く削り出した渓谷で、1953年に国の特別名勝に指定された。仙娥滝は渓谷の終点に位置し、落差約30メートルの滝で、その名は中国神話の月へ行った嫦娥に由来する。昇仙峡全体は金峰山への参詣路として機能し、修験道の行場として古くから行者が訪れた。江戸時代末期の1834年から1843年にかけて、地域の農民である長田円右衛門が御嶽新道の開削を行い、9年の歳月をかけて完成させた。この新道の開通により、それまで秘境であった仙娥滝や渓谷の景観が初めて広く知られるようになり、昇仙峡が観光地として発展するきっかけとなった。ネット上では夜間に滝付近で詠唱のような音が聞こえたり、岩肌に人の輪郭が見えたりするという体験が報告されているが、これは水音の反響や飛沫による光の屈折による可能性が指摘されている。
北杜市旧八ヶ岳山岳霊
八ヶ岳連峰は単なる観光地ではなく、地形そのものが古い物語を刻み込んだ地である。約130万年前の火山活動で形成された山体は、かつて富士山より高い約3,400メートルあったとされ、現在も複数の峰が聳え立つ。縄文時代から黒曜石採掘地として人が足を踏み入れ、江戸時代には硫黄採掘が進むなど、人間の営みと深く結びついてきた歴史を持つ。 富士山の神と八ヶ岳の神が己の高さを競ったという民間伝説は、水を樋で流して判定したという独特の仲裁方法を語り、八ヶ岳が高いと判定されたもののプライドを傷つけられた富士山の神が八ヶ岳を蹴飛ばし、8つに裂けたという物語として伝わる。この民話は、地質学的事実とも相まって、八ヶ岳という山の特異な地形を人々の心に焼き付けてきた。 近現代、八ヶ岳の峰々は登山者に人気の目的地となった反面、同時に遭難の多発地帯でもある。急峻な地形と不安定な岩場での滑落、雪崩、気象の急変により、多くの登山者が遭難の危機に直面する。尾根から谷へ、一度転落すれば回収は困難であり、捜索活動はしばしば難航する。こうした物理的危険と山の古い歴史が織り交ぜられる中で、北杜市の八ヶ岳奥深い山岳地帯は「何かが起こる場所」として周辺地域に語り継がれ、心霊現象や不可解な事象の報告が繰り返されてきた。地山そのものが求める警戒と敬意こそが、この山に向き合う者に必要とされている。
富士山心霊スポット
富士山は日本最高峰の活火山であり、単なる登山スポットではなく、古来より信仰と死の風景が交錯する場所として知られている。現在の富士山が形を成したのは約1万年前からの噴火活動に遡り、特に864年の貞観大噴火では北西斜面から数箇月にわたって溶岩が流出した。この溶岩が堆積した地に成長したのが青木ヶ原樹海であり、それが現代では自殺対策の重要地域として認識されるに至っている。 江戸時代、富士山の麓に位置する富士吉田市は富士講信仰の中心地となり、庶民の登山が盛んになった。この時期、市内には86軒を超える宿坊が軒を連ね、全国から信者たちが聖山への登拝を目指した。富士山信仰は身心を清める行為と見なされ、それは信仰的な純潔さと獲得の道筋として機能していた。しかし同時に、富士山は女人禁制の山であり、女性たちは麓から山頂を遥拝することしか許されず、この制限自体が富士山の聖性の表現でもあった。 20世紀後半、この構図は大きく変わった。1960年代以降、樹海は心霊伝承が集積するスポットとしてのイメージを獲得し、現在では自殺防止対策が継続的に講じられている。ネット上で散見される富士山五合目の山小屋での不可解な現象や、駅周辺での心霊報告なども、この複層的な履歴の上に立っている。信仰の対象から始まり、登山の目標地を経由して、現代では死と心霊の地として重ねられた富士山。その重層的な意味の蓄積が、各種の心霊伝承を生み出し続けている。
上野原市旧甲州街道の旅人霊
1602年に開設された甲州街道は、江戸日本橋から信州下諏訪を結ぶ五街道の一つ。山梨県東部の上野原市には、この街道沿いに上野原宿・鶴川宿・野田尻宿・犬目宿の四つの宿場が置かれた。桂川に沿ったこの地は、大名の参勤交代、商人や行商、御嶽信仰の修験者や富士講の信者など、時代を通じて多くの旅人が行き交う要衝であった。 旧街道筋には、今日も本陣跡や脇本陣跡、一里塚、常夜灯が残存し、道脇には旅路で急病や疲労のために倒れた者を供養する地蔵や馬頭観音が多数祀られている。深夜に旧街道を歩くと、自分の足音に続いて藁草履のような乾いた音が背後に聞こえる、常夜灯の光の中に菅笠と道中合羽の人影が見える、といった現象がしばしば報告されている。本来、これらは宿場を支えた人々と旅の途上で命を失った者への記憶の痕跡であり、街道文化の中で供養と敬意の対象として静かに受け継がれてきた伝承である。