北海道の心霊スポットランキング
旭岳温泉廃ホテル
北海道上川郡東川町、大雪山連峰の主峰・旭岳(標高2,291メートル)の南東麓に湧く旭岳温泉郷。この温泉地から国道に沿って20キロメートルほど南下した忠別川沿いに、隣接する天人峡温泉がある。両温泉郷の間には深い渓谷が刻まれ、忠別川の急流と切り立った断崖が独特の景観を作っている。 かつての天人峡温泉は、最盛期に三軒のホテル旅館が並ぶ山岳秘湯として知られていた。1971年(昭和46年)に天人峡パークホテル、1979年に天人峡グランドホテル、そして老舗の天人閣の三軒である。高度経済成長期から平成初期にかけて、北海道観光の山岳コースのひとつとして賑わった時期がある。 しかし、深い渓谷の底にある立地のため、冬季のアクセスが極めて困難であること、ロードヒーティングを含む施設維持コストが高いこと、団体観光客の減少などが重なり、2010年代に入って閉館が相次いだ。2011年に天人峡グランドホテル、続いて2017年にパークホテルが営業を終了した。閉館後、両ホテルともに解体されないまま長く放置されてきた。 2020年代に入って解体工事の議論が進み、東川町と所有者の協議のうえ、グランドホテルは段階的に撤去作業が進められている。今後数年で景観が大きく変わることが見込まれる。 撮影で訪れる人もいるが、敷地はすべて私有地で立入禁止の看板が設置されている。冬期は積雪と氷結で道路状況が極めて危険、夏期もヒグマの出没情報があるため、東川町は単独行動を控えるよう呼びかけている。隣接する天人峡温泉の入浴施設は現役の天人閣が引き続き営業中で、温泉そのものの泉質は北海道屈指と評価されている。
雄別炭鉱病院跡
北海道釧路市阿寒町、釧路湿原から内陸に分け入った山中に、雄別炭鉱(ゆうべつたんこう)跡が広がっている。1923年(大正12年)の鉱区設定に始まり、戦前から戦後にかけて北海道有数の炭鉱として栄えた。最盛期の1960年代前半には鉱山労働者とその家族を中心に、雄別三鉱と総称される三つの鉱区を合わせて約15,000人の人口を抱えた。 雄別炭鉱の代表的な施設のひとつが、1958年(昭和33年)に完成した雄別炭鉱病院である。北海道大学医学部や東京の医療研究機関との連携のもと、当時の日本国内でも先進的な総合病院として整備された。地上3階、地下1階、馬蹄形(U字型)の平面プランを採用し、各病棟と診療科を効率的に配置する設計が特徴だった。建築設計は山田守の流れを汲む建築家グループが担当したとされ、戦後の医療施設建築の好例として建築界でも注目された。 馬蹄形の廊下プランは、入院患者の往来動線、医療スタッフの作業効率、自然採光、緊急時の避難動線を総合的に考慮した設計思想に基づく。バリアフリーや感染症対策の発想は今日的水準で見ても先進的で、北海道の山中という辺境に、なぜこれほどの先進病院があったのかという問いが、地域史と建築史の研究対象となってきた。 背景には炭鉱経営者の福利厚生方針があった。雄別炭鉱を経営する雄別炭鉱株式会社は、鉱山労働者の労働環境改善と長期勤続奨励のため、住居・医療・教育・娯楽の各分野で積極投資を続けていた。病院の他にも、鉄筋コンクリート造の集合住宅、小中学校、購買所、映画館などが山中の鉱業所周辺に整備されていた。 1960年代後半、石炭から石油へのエネルギー転換、坑内事故、労働組合との対立、競合炭鉱の閉山などの要因が重なって、雄別炭鉱の経営は急速に悪化した。1969年8月に隣接する茂尻鉱業所でガス爆発事故(茂尻炭鉱ガス爆発事故、19名死亡)が発生し、安全コストの増加にも直面した。雄別炭鉱株式会社は1970年(昭和45年)2月、三鉱を一斉閉山して経営を撤退した。 閉山後の人口流出は急激だった。約15,000人いた住民は1年でほぼ全員が地区を去り、雄別の町はゴーストタウン化した。病院も含む主要施設の多くは解体されたが、雄別炭鉱病院だけは費用と立地の問題から解体されず、半世紀以上にわたり原野の中に放置されている。 建物は釧路市の山中、私有地および国有林の混在する地域にある。雪と風雨による窓ガラスの破損、内部の劣化が進んでいるが、馬蹄形の構造体は今もはっきりと確認できる。北海道の近代化遺産として一部の研究者と建築史家が記録保存を提唱しているが、文化財指定の動きには至っていない。立入禁止区域で、安全上の理由から訪問は推奨されない。釧路市立博物館に雄別炭鉱関係の資料が収蔵されている。
松前城跡
松前城跡では、戊辰戦争の激戦を今に伝える怪異が語られている。本丸御門の石垣に残る弾痕の付近を深夜に通ると、鎧武者の影が石垣沿いをすり抜けていくのを目撃したという証言が複数あるとされる。また城跡周辺の松前公園では、夜桜シーズンが終わり人気のなくなった時期に「甲冑姿の人影が桜並木の奥に消えた」「どこからともなく刀を打ち合わせるような金属音が聞こえた」といった噂が地元でひっそりと語り継がれているという。土方歳三率いる旧幕府軍の攻撃によって城が1日で陥落した際、多くの命が失われたとされており、その無念が霊的な現象を引き起こしているのではないかと囁かれている。昭和24年の火災で焼失した本丸御門の跡付近では、炎のような光が揺れるのを見たという体験談も伝わっているとされる。 松前城は安政元年(1854年)に築かれた日本最北かつ最後の日本式城郭で、北海道唯一の本格的な石垣と天守を持つ城として知られる。ペリー来航を機に海防拠点として建設され、戊辰戦争末期には榎本武揚・土方歳三率いる旧幕府軍に攻略された歴史を持つ。現在の天守は昭和35年に鉄筋コンクリートで復元されたもので、松前城資料館として公開されている。城跡を含む松前公園は約250品種・1万本の桜が咲く名所としても有名で、毎年4月下旬から5月上旬には多くの観光客が訪れる。
豊浜トンネル跡
北海道古宇郡神恵内村と古平郡古平町を結ぶ国道229号、積丹半島西岸の海岸線に、豊浜トンネル(とよはまとんねる)はあった。1985年(昭和60年)開通の延長1,089メートル、半島西岸の通年通行を可能にする重要な土木構造物として、北海道道路網の中で大きな役割を担っていた。 このトンネルが日本の土木史と防災史に深く刻まれたのは、1996年(平成8年)2月10日午前8時10分頃に起きた岩盤崩落事故である。トンネルの古平町側坑口直上の崖が、高さ約70メートル、幅約50メートル、厚さ約13メートルにわたって突如崩落した。重量約27,000トンと推計される巨大な岩塊が、坑口直上から崩れ落ち、トンネル坑口部分とその前後の道路を完全に塞いだ。 崩落の瞬間、トンネル内を通行中の北海道中央バス(神威岬の朝のツアー観光バス)と乗用車2台が瓦礫の下に閉じ込められた。間一髪で脱出した乗客1名を除き、バスの運転手と乗客、乗用車の運転手と同乗者を合わせて20名が犠牲となった。北海道の道路災害として戦後最大規模の事故である。 岩塊があまりに巨大だったため、救出作業は岩塊の破砕から始めなければならなかった。建設省(現国土交通省)と北海道、自衛隊、専門の発破業者が現場対応にあたり、最終的に4回の発破作業を経て岩塊の除去にこぎ着けた。事故発生から最後の遺体収容まで6日間を要した。 運輸省と建設省の事故調査委員会の報告書によれば、崩落の主因は積丹半島西岸特有の海食崖と岩盤の節理状況、長期的な凍結融解の繰り返しによる岩盤の劣化、海水の浸透による断層の進行であった。北海道の道路網に多数存在する海岸沿いの岩盤の安全性評価が、全国的に見直されるきっかけとなった事故である。 事故後、北海道開発局は新ルートとして山側に新豊浜トンネル(延長1,580メートル)を建設し、2000年(平成12年)に開通させた。旧豊浜トンネルは封鎖され、両坑口は厳重に塞がれた状態で残されている。 旧坑口近くの海岸沿いに、犠牲者を悼む慰霊碑が建立された。毎年2月10日の事故の日には、遺族と関係者による慰霊式典が継続されている。北海道の道路防災史のなかで、豊浜トンネルの事故は最も重要な教訓として位置づけられ、その後の岩盤監視技術の発達、リアルタイム計測機器の導入、防災予算の確保において、強い動機を与え続けている。 国道229号は、現在の新豊浜トンネルと迂回路を通じて通年通行可能。神恵内村と古平町は、海岸線景観と漁業の町としての魅力で観光客を迎え入れている。神威岬、積丹岬、神恵内村ニセコ積丹小樽海岸国定公園の構成地域である。
常紋トンネル
北海道北見市と紋別郡遠軽町の境、JR石北本線の常紋峠を貫通する全長507メートルの単線トンネルが、常紋トンネル(じょうもんトンネル)である。1914年(大正3年)10月、石北本線の前身である網走本線の延伸工事の一環として開通した。 建設工事は、北海道の鉄道網が急速に拡大した大正初期の典型的な強行軍工事だった。当時、北海道の鉄道建設や道路建設、ダム建設の現場では、本州の都市部から斡旋業者を通じて集められた労働者を強制的な労働条件で働かせる「タコ部屋」と呼ばれる労働形態が広く存在した。常紋トンネルの工事もこの労働形態で進められたことが、戦後の労働史研究で明らかにされている。 工事中の労働災害や過酷な労働条件による死亡者が多かったことは、地元の郷土史と労働運動史の双方で記録されている。生き埋めや遺体が壁に塗り込められたという伝承が地元に長く伝わってきたが、伝承の真偽は長らく確認されないままだった。 1968年(昭和43年)の十勝沖地震でトンネル内部の損傷が発生し、補修工事が行われた。1970年(昭和45年)の本格的な改修工事で、内部のレンガ壁を撤去して鉄筋コンクリート巻に置き換える作業が行われた際、壁の内側から複数の人骨が発見された。発見者の証言と道警の調査により、これらの遺骨は当時のタコ部屋労働者のものである可能性が極めて高いと判断された。 その後の鑑定で、これまでに約50体の遺骨が確認されている。これらは身元判明者の遺族に引き取られたものを除き、地元の常紋トンネル工事殉難者追悼碑(北見市留辺蘂町)に合葬され、追悼碑が建立されている。 この事件を契機に、北海道近代史におけるタコ労働の実態調査が大きく進んだ。北海道の郷土史と労働史の文献には常紋トンネルの事例が必ず触れられる、近代日本の労働史を象徴する場所のひとつとなった。 トンネル自体は現在も石北本線の現役区間として使用されている。普通列車と特急列車が日々通過しており、JR北海道の点検と維持管理が継続している。鉄道遺産・労働遺産として、北海道の近代史を学ぶ重要な現場になっている。
中島公園
札幌の都心部に位置する中島公園では、夜間に菖蒲池のほとりを歩いていると、水面から白い人影が浮かび上がるのを見たという目撃情報が語られている。「池の方向から誰かに呼ばれるような声が聞こえた」「ボート乗り場の近くで、誰もいないはずなのに足音が続いてきた」といった体験談がネット上に散見され、地元の心霊愛好家の間では定番スポットとして認識されているとされる。また、深夜に公園内を撮影した写真に正体不明の光の玉や人影が写り込んでいたという噂も絶えない。公園の歴史を辿ると、明治期に貯木場として開削された堀に端を発しており、木材搬出に関わった労働者たちの霊が今も水辺に留まっているのではないかという言い伝えも一部で語られている。 中島公園の起源は、明治19年(1886年)に請負人・鈴木元右衛門が築造した貯木場の堀「元右衛門堀」にあり、これが現在の菖蒲池の前身とされる。明治20年には北海道物産共進会の会場として整備が進み、大正期に公園としての形が整えられた。園内には重要文化財の豊平館や札幌コンサートホール「Kitara」、北海道立文学館などの文化施設も充実しており、四季を通じて市民に親しまれてきた歴史ある都市公園である。昼間は桜や紅葉を楽しむ人々で賑わう一方、夜の静寂に包まれた池のほとりには、また別の顔があると囁かれている。
旧函館区公会堂
北海道函館市元町、函館山の麓に立つ旧函館区公会堂(きゅうはこだてくこうかいどう)は、明治末に建てられた洋風の集会施設で、国の重要文化財に指定されている。1910年(明治43年)竣工、コロニアル様式の木造2階建てで、ブルーグレーの壁と黄色のドアと窓枠の配色が異彩を放つ、函館を代表する明治建築のひとつである。 建設の経緯は、1907年(明治40年)8月25日に函館で発生した大火である。函館区(当時の行政区分、現・函館市)の市街地8,977戸が焼失する大規模火災で、函館区民集会施設も焼失した。再建にあたり、函館の豪商・相馬哲平が当時の金額で5万円という巨額を寄付し、これを主な原資として公会堂の建設が進められた。設計は函館の建築家・小西朝次郎が担当した。 建物は典型的なコロニアル様式の特徴を備える。総ブルーグレーに塗装された下見板張りの外壁、車寄せの破風と柱頭装飾、左右対称の正面構成、屋根の小屋根(ドーマー)、優美な丸窓と縦長窓の組み合わせ。室内はシャンデリアと暖炉を備えた洋室と、和室を併設する和洋折衷の構成で、明治末期の日本における洋風建築の到達点のひとつを示している。 建物は函館区の集会施設として機能した。地元商工会の会合、各種文化講演、コンサート、結婚披露宴などが開かれ、函館の社会・文化生活の中心だった。皇族の函館巡幸の際の宿泊・接遇施設としても使われた経緯がある。 1974年(昭和49年)に国の重要文化財に指定され、その後の修復工事を経て、現在は函館市が文化財として一般公開している。2018年から2021年にかけて行われた大規模な保存修理工事で、屋根葺き替え、外壁塗装、内装の全面修復が実施された。 2021年4月のリニューアル後、有料公開施設として運営されている。ハイカラドレス体験プログラム(明治期の貴婦人風の衣装を着用して館内を見学できる体験)は函館観光の人気企画として知られる。函館市公式サイトに開館時間と入場料の最新情報が掲載されている。函館港の眺望を楽しめる元町公園内に立地し、八幡坂や旧函館聖ヨハネ教会など、明治・大正期の洋風建築群を巡る散策コースの一部にも組み込まれている。
円形校舎
北海道美唄市の山中に、戦後北海道の炭鉱小学校の遺構として知られる円形校舎跡がある。三菱美唄鉄道沿線にあった三菱美唄炭鉱の児童たちが通った沼東(しょうとう)小学校の旧校舎で、1959年(昭和34年)に建設された独特の円形プランの学校建築である。 美唄炭鉱は三菱鉱業(後の三菱マテリアル)が経営した北海道有数の炭鉱で、明治末から1972年(昭和47年)の閉山まで操業した。最盛期の1960年前後、炭鉱労働者とその家族を中心に約15,000人の住民が炭鉱地区に居住し、学校・病院・購買所・娯楽施設などのインフラが整備されていた。 沼東小学校はこの炭鉱地区の児童たちが通う小学校で、最盛期には児童数1,570名というマンモス校に成長した。膨らみ続ける児童数に対応するため、限られた敷地で多数の教室を確保できる構造として、当時流行していた「円形校舎」の設計が採用された。 円形校舎は、中央に螺旋階段を置き、その周囲を扇形の教室が放射状に取り囲む構造を持つ。各教室は中央から外周に向かって扇形に広がり、外周窓から豊かな採光を確保できる。中央の螺旋階段が縦動線をコンパクトにまとめるため、敷地面積を最小限に抑えて多数の教室を配置できる利点があった。1950年代から1960年代にかけて、全国で60〜70棟程度が建設されたとされる。 沼東小学校の特徴的な点は、東西2棟の円形校舎が湾曲した渡り廊下で結ばれていることで、上空から見ると眼鏡のような形状になる「メガネ校舎」として地域で親しまれた。設計と施工は1958〜1959年の短期間で行われ、児童数の急増に対応する迅速な建築事例として教育施設史の研究対象になっている。 美唄炭鉱の経営悪化に伴って児童数は急減した。1970年代に入ると、炭鉱閉山が現実化し、沼東小学校の児童も大幅に減少した。1972年(昭和47年)の三菱美唄炭鉱閉山と1973年(昭和48年)の三菱美唄鉄道廃止により、地区の人口流出が加速。1974年(昭和49年)3月、沼東小学校は閉校した。 閉校後、校舎は解体されないまま山中に取り残された。湿地的な地形にあるため建物の一部が湧水で水没する状態となっている。コンクリート構造体としての強度は保たれているが、内部の木造部分や設備は劣化が進んでいる。 建物が建つ敷地は私有地と森林の混在地で、立入制限の対象である。安全のため一般の見学は推奨されない。美唄市の郷土史資料館に当時の学校生活、炭鉱の暮らし、円形校舎建築の経緯を伝える資料が収蔵されており、近代日本の炭鉱集落の歴史を学ぶことができる。 戦後日本の炭鉱興亡史と、教育施設建築の流行、地域社会の急速な消長を象徴する建物として、土木史と建築史の双方から記録保存の取り組みが進められている。
洞爺湖ホテル跡
洞爺湖南岸の廃ホテル跡地では、夜間に客室の窓から明かりが灯るのを目撃したという証言が複数あるとされる。「誰もいないはずの最上階に人影が見えた」「湖の方向からすすり泣くような声が聞こえてきた」といった体験談がネット上に書き込まれており、地元でも心霊スポットとして語り継がれているという。また、廃墟の周辺を車で通りかかった際にエンジンが突然止まった、カメラに謎の光の玉が写り込んだといった噂も絶えないとされる。バブル崩壊後に夢破れた多くの人々の念が残っているのではないか、とも囁かれている。 洞爺湖は約11万年前のカルデラ噴火によって形成されたカルデラ湖で、湖面標高84メートル、最深部180メートル、周囲43キロメートルに及ぶ円形に近い湖である。中央には火山島群「中島」を抱き、2009年には「洞爺湖有珠山ジオパーク」として日本初の世界ジオパーク認定を受けた、地形学的にも世界的に珍しい場所として知られる。 このホテルは1970〜80年代の北海道リゾート開発最盛期に建設されたが、バブル崩壊後の集客低迷や団体旅行スタイルの変化、ニセコ・トマムなど新興リゾートへの顧客流出が重なり、2000年代に廃業した。解体費用の問題から長期間放置された時期もあったが、2008年のG8洞爺湖サミットを機に景観整備が進められ、段階的な解体計画が進行中とされている。なお、2000年3月の有珠山噴火では温泉街の一部が被害を受けており、この土地が火山という大きな自然の力と隣り合わせであることも、怪談の背景として語られることがあるという。
旧美唄炭鉱廃墟
北海道美唄市茶志内町の山中に、三菱美唄炭鉱の遺構群が残されている。三菱鉱業(現・三菱マテリアル)が1915年(大正4年)に開鉱した北海道有数の大規模炭鉱で、最盛期の1960年(昭和35年)前後には鉱山労働者とその家族を中心に約15,000人が炭鉱集落を形成していた。 美唄炭鉱の歴史は、明治後期の三菱財閥による北海道炭鉱業への本格進出と軌を一にしている。空知地区の他の炭鉱(夕張、芦別、赤平、歌志内など)と並ぶ位置づけで、戦前から戦後の高度経済成長期にかけて、本州の重工業向けに大量の石炭を供給した。 炭鉱集落のインフラは当時としては先進的だった。鉄筋コンクリート造の集合住宅(炭住)、給水・暖房設備、学校、病院、購買所、娯楽施設などが山中に整然と配置された。特に1959年(昭和34年)に建設された沼東小学校(後の円形校舎で知られる)は、急増する児童数に対応した独特の設計で、戦後の教育建築史にも残る事例となっている。 1972年(昭和47年)、エネルギー転換と石炭需要の低下、坑内事故への対応コスト増を背景に、三菱美唄炭鉱は閉山した。三菱美唄鉄道(炭鉱専用鉄道、美唄駅と常盤台駅を結んだ)も翌1973年に廃止され、鉱業所と関連施設は急速に放棄された。 閉山後の人口流出は急激で、最盛期15,000人いた炭鉱集落の住民は1年でほぼ全員が町を去った。旧炭住、選炭場、坑口、変電所、ホッパー、社宅街などの大部分が解体されないまま山中に取り残された。50年以上にわたって雪と風雨にさらされ続け、現在ではコンクリート構造体の崩落が進んでいるが、廃墟群としての規模は北海道でも屈指である。 美唄市は炭鉱遺産の整理を段階的に進めているが、山中の私有地と国有林が混在するエリアで、立入は安全上の理由で原則禁止されている。市の郷土資料館「美唄市郷土史料館」と「炭鉱メモリアル森林公園」で、当時の暮らしと炭鉱史を学べる展示が行われている。