福岡県の心霊スポット ランキング TOP10
福岡県にある心霊スポットを 閲覧数 ・恐怖度(怖い率)・体験談数 の 3 軸で順位化しています。 一覧ではなく順位推移を見たいときに使ってください。
どれだけ調べられているかを示す注目度指標。スポット名で直接検索された回数に近い。
志免鉱業所竪坑櫓
福岡県糟屋郡志免町志免4丁目。平地のただ中に、地上47.6メートルのコンクリート塔が立つ。志免鉱業所竪坑櫓と呼ばれるこの建造物は、現存する塔櫓型立坑では国内最古のもので、2007年に国の重要文化財に指定された。 炭鉱としての歴史は古い。明治22年、海軍が艦艇の燃料を確保するため筑豊炭田の南端に位置するこの地を直営の海軍炭鉱として開発。第二次大戦下の昭和16年から18年にかけて、海軍第四燃料廠が現在の竪坑櫓を建設した。深さ430メートル、当時の日本で最も深い立坑のひとつである。最盛期の職員数は約3,000人、年間出炭量は最大41万トン。戦後は石炭庁、国鉄を経て1964年に閉山した。 炭鉱の操業中、坑内事故の記録は公的な統計に残るものだけでも複数件確認されている。落盤、ガス突出、ケージ事故。閉山後、塔と周辺の坑跡は長く放置されたが、1990年代以降の保存運動の結果、現在は周辺が公園として整備されている。立入禁止区域は明確に表示されている。 夜になると塔の頂から微かな音が聞こえる、という話は地元では古くから言われている。巻揚機の軋み、誰かを呼ぶ声。事実かどうかは別として、戦時下に多くの労働者が地下深くで働いていた場所だという歴史を踏まえると、こうした語りが生まれること自体に文化的な意味がある。
千仏鍾乳洞
北九州市小倉南区の平尾台にある千仏鍾乳洞は、1935年に国の天然記念物に指定された大規模な洞窟である。平尾台は日本三大カルストの一つで、約3億4千万年前の海洋生物の遺骸が石灰岩となり、地殻変動を経て現在地に至ったカルスト台地である。この石灰岩層が地下水の浸食作用により、幾千万年の歳月をかけて形成された。 洞窟は平尾台の東側断崖に開口し、奥行は約900メートルに及ぶ。洞内は四季を通じて気温16度、水温14度で保たれ、鍾乳石、石筍、石柱が豊富に発達している。特に大小30余個の鍾乳石が垂下し、光の反射によって多くの造形を見せる。現在も地下水が流れており、洞窟は今なお浸食・発達の過程にある。 「千仏」の名は、古くは天平13年に行基の開創とされる叡山願光寺の末寺「千仏院」に由来する。その後、天正年間に大友宗麟の兵火で焼失し廃絶した。入口から480メートルまでは通常の歩行が可能だが、その先は水深が増し、流水に足を浸して進む「奥の細道」と呼ばれる区間がある。
仲哀隧道(旧仲哀トンネル)
福岡県京都郡みやこ町と田川郡香春町の境、仲哀峠に位置する旧仲哀トンネル(仲哀隧道)は、明治17年(1884年)に着工され明治22年(1889年)に完成した、日本最古級の国道トンネルとして知られる。全長432メートル、内壁の両端部は煉瓦と石造で固められ、中央部は素掘りのまま残されている。馬蹄形の坑口周りには花崗岩の切石が用いられ、煉瓦積みの坑門がその意匠を引き立てている。昭和4年に幅員が拡張されたが、昭和42年(1967年)に新トンネルが開通してからは旧道として残された。現在は落盤の危険から柵で閉鎖されている一方、国の登録有形文化財として保存されている。 この一帯が心霊スポットとして知られるようになった背景には、昭和38年(1963年)から翌年にかけて発生した連続殺人事件がある。集金中だった専売公社職員とその運転手が何者かに襲われ、運転手が仲哀峠付近で絞殺された遺体で発見された事件で、犯人は最終的に死刑判決を受けた。事件現場としての印象が強く残るなかで、坑内に狐火のような光が並ぶ、入口付近にあった公衆電話に女性の姿が現れる、通過した後に事故に遭うといった噂が生まれ、語られるようになったとされる。実際の事件の記憶と、闇に沈む煉瓦造りの坑門という光景が結びつき、この場所を心霊スポットとして印象づけている。
太宰府天満宮裏
太宰府天満宮は、9世紀の学者・政治家・菅原道真を祀る古社である。道真は33歳で学者としての最高位である文章博士に就き、その後右大臣にまで昇進したが、901年に藤原氏の政争に敗れて大宰府へ左遷された。この地で2年間の不遇を過ごしたのち、903年に59歳で没した。死後、都で相次いだ落雷や政治家の突然死が彼の怨念とおそれられ、民間信仰は道真を「天神」として祀ることで鎮魂しようとした。910年代には墓所に社が造営され、後に全国の天満宮の総本社へと発展している。現在の本殿は1591年に再建されたもので、境内に植わる6000本の梅の樹は道真が生前愛でた木である。本殿裏手の杜は、無実の罪で異郷に没した人物への歴史的記憶と信仰が層積した空間として、参拝者に深い静謐さをもたらす場所となっている。
旧犬鳴トンネル
「この先、日本国憲法は通用しない」。犬鳴峠を語るとき、必ずと言っていいほど引かれるこのフレーズ。実際にそんな看板があったのか、というと、それを直接撮影した写真は存在しない。インターネット黎明期の2000年代前半、複数の心霊系掲示板に「友人が見た」という伝聞として書き込まれ、それが繰り返し引用されているうちに事実として定着していった、というのが現在の研究者・ジャーナリストの一致した見方である。 では犬鳴峠そのものはどんな場所か。福岡県宮若市と糟屋郡久山町の境にある標高約400メートルの峠で、修験道の行場として古くから知られていた。江戸時代の文献には犬鳴山という記述が残り、明治期には炭鉱開発も行われた地域である。 トンネルの来歴は事実関係がはっきりしている。1949年(昭和24年)に開通した片側交互通行の隧道で、1975年(昭和50年)に新トンネルが完成したのを機に旧道として閉鎖された。現在は北側坑口がコンクリートと土砂で完全に封鎖され、車両も歩行者も通行できない。封鎖の主な理由は構造物の老朽化と落石、不法侵入と廃棄物投棄の対策で、自治体の公式資料にも明記されている。 それでも峠そのものは抜け道として、また心霊スポットを目当てとした訪問者の目的地として、今も人を引き寄せる。地元自治体は深夜の進入を控えるよう繰り返し呼びかけている。封鎖された坑口の前に立つ者が時折、奥から声を聞いたと語る。その語り自体が、半世紀をかけて積み重なった文化現象として記録されるべきものになっている。
志賀島蒙古塚
福岡市東区の志賀島は博多湾と玄界灘を隔てる細長い島で、中道でつながっています。島北部に立つ蒙古塚は、十三世紀の元寇で博多湾一帯が戦地となった際、戦死した蒙古軍兵士の供養塔として伝えられています。玄界灘を望む丘陵に位置する慰霊の場です。 海風や波音が響く静寂のなかで塚を前にすると、元寇という国際的な戦の記憶が、海の景観に深く融け込んでいることに気づかされます。訪問者は多くの場合、この場所で歴史への静かな思いを馳せています。 塚の周辺は岬の急斜面と岩場が近く、足場が悪い地形です。訪れる際は日中に限定し、慎重な行動をお勧めします。
田川市伊田竪坑周辺
福岡県田川市の伊田竪坑周辺は、日本の産業遺産を象徴する場所である。明治43年に完成した竪坑櫓は高さ28.4メートルで、イギリスから輸入された鋼材を使用した国内最大級の明治期産業施設として、当時「日本三大竪坑」の一つに数えられていた。三井田川鉱業所の中核として、昭和39年の閉山まで筑豊炭田随一の規模を誇った重要な炭鉱である。 この地の暗い歴史として、昭和10年7月13日に大規模なガス爆発事故が発生した。最初の爆発で3人が死亡、その後救助活動中に再び爆発が起こり、二次災害を含めて66人の生命が失われた。安全面で優良とされていた鉱山での予期せぬ悲劇であり、その後も採掘に従事した多くの労働者たちは危険と隣り合わせの日々を送った。竪坑に吸い込まれ、地底で繰り広げられた採掘作業の過酷さは、地上の人間には測り知れない。 昭和58年、閉山後の跡地は石炭記念公園として再整備され、二つの煙突と竪坑櫓が当時の面影を伝える。これらは国登録有形文化財として指定され、平成30年には筑豊炭田遺跡群全体が国指定史跡となった。公園内の石炭・歴史博物館には約1万5千点の資料が保存されており、ユネスコ世界記憶遺産に登録された山本作兵衛のコレクションも展示されている。かつて多くの労働者が働き、犠牲者たちが眠る地の上に、現在は市民が憩う平和な空間が広がっている。
旧門司港レトロ地区
福岡県北九州市門司区の門司港は、1889年の特別輸出港指定によって急速に発展した国際貿易港である。1916年には外国貿易の出入港船舶数が全国1位(年間4974隻)となり、明治末から大正期にかけて九州の経済中心地として栄えた。この繁栄を象徴する洋館や倉庫、税関庁舎など数多くの建造物が現存する。 しかし1942年の関門鉄道トンネル開通により、門司港は交通の要所から周辺地域への「通過地点」へと転換された。その後、対中国貿易の途絶や港湾機能の衰退により、経済的重要性は大きく低下した。戦後、改修されないまま放置された倉庫群や施設が周縁に点在することになった。 1995年、この地区は「門司港レトロ」として観光地化され、保存・整備された歴史建造物の一方で、依然として改修されない老朽施設も林立する状況が続いている。関門海峡に面した港町としての地形的特性と、近代日本の海運経済の栄枯盛衰の記憶が、現在も風景に刻まれている。
旧三井三池炭鉱跡
福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる三池炭鉱は、1469年(文明元年)に農民が発見したと伝わる石炭の露頭に始まる、日本でも最古級の歴史を持つ炭鉱である。江戸期は柳川藩・三池藩の支配下にあり、明治6年(1873年)に官営化、明治22年(1889年)に三井組(後の三井財閥)に払い下げられた。以降1997年(平成9年)の閉山まで、約108年にわたり三井系企業の経営下で日本最大級の炭鉱として国内のエネルギー需要を支え続けた。 三池炭鉱の特徴は、海底にまで採炭区域が広がる海底炭鉱だった点である。有明海の海底深部に走る石炭層を採掘するため、宮原坑、万田坑、三川坑、四山坑など複数の坑口が海岸沿いに整備された。明治期から大正期にかけての近代化過程で、ドイツ製の最先端機械、英国の鉱山技術、米国の経営手法が次々と導入された日本の鉱業近代化を主導する位置にあった。 2015年(平成27年)、宮原坑、万田坑、専用鉄道敷跡、三池港の4資産が「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界文化遺産に登録された。明治期日本の重工業化の象徴的施設として国際的に評価された結果である。 一方、三池炭鉱は労働災害史の上でも重要な現場として記憶されている。1963年(昭和38年)11月9日午後3時12分、三川坑で発生した炭塵爆発事故は、日本国内の労働災害として戦後最大規模の犠牲を出した。労働省の災害報告書によれば、死者458名、一酸化炭素中毒の重症患者839名。一酸化炭素による中毒患者の多くが脳に重い後遺症を残し、戦後の労働災害史と公害史の研究において継続的に取り上げられてきた。 この事故とその後の長い後遺症問題は、労働運動と労働基準法、労災補償制度の発展に大きな影響を与えた。三池争議(1960年)と並んで、戦後労働史の重要な事例として教科書や労働運動史の研究文献にも繰り返し言及されている。 大牟田市と荒尾市は2005年から共同で三池炭鉱跡の文化財整備を進め、宮原坑、万田坑、三池港、専用鉄道敷跡の見学コースを整備した。万田坑には資料展示館が併設され、三池炭鉱の歴史と労働災害の記録が公開されている。歴史ガイドツアーは予約制で、世界遺産案内員による解説付きで巡れる。
旧筑豊炭鉱廃墟群
福岡県嘉麻市を含む筑豊地域には、明治期から昭和30年代まで採掘されていた炭鉱の遺構が今も散在する。坑口跡、ボタ山、選炭場、ホッパーといった施設は、かつて日本全体の産炭量の約半分を占めた筑豊炭田の規模を物語っている。 この地域では、ガス爆発や落盤といった鉱山事故が繰り返された。1914年の方城炭鉱爆発事故では687人が、1907年の豊国炭鉱爆発では365人が亡くなっており、筑豊は日本の近代化を支える一方で、多くの人命が失われた現場でもあった。坑内での高温多湿と粉塵環境での労働は、当時の記録に見る通り、極めて過酷な条件であった。 昭和51年までの約100年間で約8億トンの石炭を産出した後、エネルギー革命に伴う閉山を経て、これらの施設は産業遺産として残された。2018年、筑豊炭田遺跡群は国指定史跡に指定され、後世への教育的価値が公式に認識されている。各地の慰霊碑や寺院では、坑夫の追悼が今も続けられている。