
高森町の廃農村
高森町は阿蘇カルデラ南郷谷の東端に位置し、雄大な根子岳と高千穂方面へ続く峠道を望む山あいの町である。古くから牛馬の放牧と棚田を組み合わせた山地農業が営まれ、山腹には小さな集落が点在してきた。戦後の過疎化と農業構造の変化のなかで、いくつかの内陸集落が静かに役目を終え、石垣や屋敷林、棚田の畦だけが斜面に残る土地が「廃農村」として語り継がれてきた。阿蘇の自然信仰が今も深く根付く土地でもある。 寄せられる体験談で繰り返し語られるのは、農繁期に重なる夜更けに山道を進むと、棚田のあたりから鍬を打つような規則的な音と、ゆったりとした田植え歌の節回しが届く、というものである。風のない夜に屋敷跡の方角から人の話し声に似た囁きを聞いた、根子岳の稜線を背に淡い火影が一つだけ灯っていた、と語る訪問者もいる。いずれも特定の事件に結びつく伝承ではなく、根子岳の麓で営まれた暮らしの記憶として受け止められてきた。 地元では、離村した家々の祖霊と山の神への祈りが、現在も折々の祭礼や墓参のなかで穏やかに守られている。怪異の話は揶揄ではなく、阿蘇の山に抱かれて生きてきた人々の暮らしを伝える情感ある語りとして大切にされている。 山道の集落跡は急斜面と崩落地が多く、夜間は方向感覚を失いやすい危険地帯である。深夜の単独行動や私有地への立ち入りは厳に控え、訪れる場合は日中に公道沿いから景観を眺める程度に留め、土地の歴史と祖霊への敬意を欠かさないこと。