
旧二岐温泉廃旅館
福島県岩瀬郡天栄村の山間、二岐山の山麓に湧く二岐温泉は、平安期に発見されたと伝わる古湯で、ブナ林に囲まれた静かな湯治場として、長く東北の人々に親しまれてきた温泉地である。高度成長期には湯治客や登山客で賑わいを見せたが、道路事情の変化と経営難、後継者不足が重なり、谷あいの宿のいくつかが廃業を余儀なくされ、木造の建物だけが森に抱かれて残された場所が点在するようになった。残された旧旅館群は、湯けむりと深い山霧のなかに沈み、福島県内でも特異な雰囲気を持つ廃墟景観として静かに知られている。 寄せられる体験談で繰り返し語られるのは、雨上がりの宵に廃旅館の前を通ると、二階の障子窓に湯上がりの浴衣姿を思わせる淡い影が立っているのを目撃する、というものである。閉ざされた浴場の方角から木桶を置くような乾いた音が漏れた、長い廊下の奥で下駄の足音が一度だけ近づいて止まったように感じた、夜の沢音に紛れて誰かの低い唄声に似た響きがよぎった、と語る訪問者がいる。 地元では、長年湯治場を支え続けた宿主と、傷を癒やすため通い続けた湯治客の記憶が建物に重ねられており、廃業した宿への思いは静かな哀惜の念とともに語られてきた。怪異の話は揶揄ではなく、山あいの温泉文化が辿ってきた時代の変化を伝える物語として受け止められている。 廃旅館は私有地であり、老朽化による床抜けや天井崩落の危険が極めて大きい。無断立入は厳に控え、訪れる際は現役の二岐温泉旅館に宿泊しつつ、谷の景観と湯の歴史、湯守の人々への敬意を欠かさないでほしい。