四谷怪談とお岩さん――実録と歌舞伎創作のあいだにある距離
東京・四谷にある於岩稲荷田宮神社は、歌舞伎『東海道四谷怪談』のヒロイン・お岩の名を今に伝える社だ。だが伝承をたどると、そこに祀られていたのは夫婦仲の良い、家を再興した女性だったとも言われる。実録・邸内社の伝承・鶴屋南北の創作が重なり合って生まれた「お岩」という像と、今も歌舞伎界に残る参拝の慣習を追う。
忠臣蔵の陰で生まれた芝居
『東海道四谷怪談』は文政8年(1825年)7月、江戸・中村座で初演されたと伝わる。作者は四世鶴屋南北、当時71歳。この芝居は単独の新作としてではなく、当代随一の人気狂言『仮名手本忠臣蔵』の二番目、いわば添え物の世話物として構想されたと言われている。初日には忠臣蔵の大序から六段目までを演じ、続けて四谷怪談の序幕から三幕目「隠亡堀」までを上演するという、二つの物語を交互に見せる興行形式が取られたとされる。
南北は忠臣蔵の外側にいる人物――浪人となった民谷伊右衛門やその周辺の武家――を借り、まったく別の世話物の世界をそこに接ぎ木したと語られる。舞台には「戸板返し」と呼ばれる早替りの仕掛けや、燃える提灯からお岩の亡霊が現れる「提灯抜け」、仏壇に人を引き込む「仏壇返し」などのケレン味豊かな仕掛けが用いられ、単なる怪談としてではなく、庶民の生活感覚を色濃く映した「生世話」の代表作として歌舞伎史に位置づけられていると言われる。以後幾度も改訂・再演を重ね、今日まで怪談歌舞伎の代表作として上演が続いている。
「お岩稲荷」という場所
現在の新宿区左門町一帯は、江戸時代に幕府御先手組の組頭・諏訪左門が組屋敷を構えたことから「左門殿町」と呼ばれていたという。この地に屋敷を持っていたのが、御先手組の同心を務めた田宮家で、於岩稲荷田宮神社はもともとこの田宮家の邸内社として祀られていたと伝わる。田宮家の娘であるお岩がこの社をことに篤く信仰していたという言い伝えが、後の「お岩稲荷」という呼び名の由来になったとされる。
興味深いのは、この神社が現在二か所に存在するという事実だ。明治期に火災で社殿を失った後、芝居関係者が参拝に通いやすいようにという要望を受けて、初代市川左團次の働きかけで日本橋方面(現在の中央区新川)にも同名の社が設けられたと言われている。元の左門町の社も戦後に再建され、結果として新宿区左門町と中央区新川の双方に於岩稲荷田宮神社が並び立つことになった。これ自体、歌舞伎という芝居とお岩信仰がいかに深く結びついてきたかを物語る逸話と言えるだろう。
実録が伝える「もう一つのお岩」
『東海道四谷怪談』には、南北の創作以前から伝わっていた種本があったとされる。享保12年(1727年)の奥書を持つ写本が残る『四谷雑談集』という実録怪談集がそれで、現存する四谷怪談系の文献としては最古とされている。そこで語られるお岩は、若い頃に疱瘡を患い婿を取るのに苦労した女性として描かれ、大工の子で武士を志した浪人・伊右衛門が仲介人を通じて田宮家に婿入りする。伊右衛門は上司筋の女性に心を移し、共謀してお岩を家から追い出す。お岩は怒りのあまり行方をくらまし、その後田宮家には不幸が続いて家が絶えた、という筋立てだったと言われている。
一方、於岩稲荷田宮神社に伝わる話はまったく異なる印象を残す。ここでのお岩は、婿養子の伊右衛門と仲睦まじい夫婦であり、家計の苦しさを助けるために自ら商家へ奉公に出て田宮家の再興に努めた、いわば貞淑な女性だったとされる。寛永13年(1636年)に没した後、近隣の人々はその霊験のおかげで家が再興したのだと考え、篤く信仰するようになったという。つまり「お岩」という一つの名の下に、実録怪談が伝える悲劇の女、邸内社の伝承が伝える貞淑な女性、そして後年南北が舞台に仕立てた復讐の亡霊という、少なくとも三つの異なる語りが並存してきたことになる。
南北が舞台に加えた距離
南北の脚色は、単に怖くするための誇張ではなく、いくつもの狂言や技法を接ぎ木する構成上の工夫だったとも言われる。『四谷雑談集』のお岩がもともと疱瘡で容貌に難があった設定なのに対し、南北版では毒によって顔が変わっていく過程そのものをドラマの中心に据え、髪をとかせば毛が抜け落ちるという視覚的な仕掛けを組み込んだ。伊右衛門についても、単純な悪人ではなく、貧しさと出世欲に追われて堕落していく人間味のある「色悪」として描き直したとされる。
こうした改変の背後には、忠臣蔵という当代最大の人気狂言に組み込むための興行上の計算があったと考えられている。忠実蔵の世界観を借りつつ、そこに全く異質な世話物の恐怖と仕掛けを持ち込むことで、観客にとって親しみやすい題材でありながら新奇な刺激を提供できたわけだ。実録が伝える「家の再興に尽くした女性」という筋を、南北はほぼ手つかずのまま裏側に置き、代わりに因果と祟りという江戸の観客が好む物語構造をその上に重ねた、と見ることもできるだろう。
科学の視点から見る「顔が変わる」場面
近年、お岩の容貌が変化する場面を医学的に読み解こうとする試みも紹介されている。まぶたや額は帯状疱疹が出やすい部位とされ、三叉神経第一枝の領域に発症した場合、目の周囲が腫れ上がる症状が起こり得るという指摘がある。産後の体調不良などで免疫が低下した際に、潜んでいたウイルスが再活性化して症状が悪化する、という筋道で説明されることもあるようだ。
ただし、劇中でお岩に盛られたとされる毒(トリカブト)そのものには、顔面を腫れさせる作用は確認されていないとも言われる。含まれるアルカロイドは知覚異常や表情筋の運動障害を引き起こす可能性はあるが、腫れそのものを説明するものではないという。あくまで舞台上の設定を後世の視点で「翻訳」してみせる試みであり、実在のお岩の逸話とは別の話だが、当時の観客が抱いていた皮膚病や疫病への実感の強さを想像するうえでは手がかりになる。目に見える身体の変容を怖れる感覚は、時代を越えて共有されるものだったのかもしれない。
祟りを恐れる興行の習わし
『四谷怪談』を上演する際、出演する役者や関係者が事前にお岩ゆかりの神社や寺に参拝するという習わしは、今も歌舞伎界に残っていると言われる。2021年9月の歌舞伎座公演でお岩を演じた坂東玉三郎が、上演前に妙行寺・於岩稲荷田宮神社・陽運寺を参拝したと語ったことも報じられている。
この習わしが広く知られるようになった経緯としては、参拝を怠ったとされる講談師が急死した話や、ある劇場公演でスタッフの怪我が相次いだり白い着物姿の女性が目撃されたりしたという体験談が、戦後に語り継がれてきたことが大きいとされる。もっとも、四谷怪談の舞台では照明を落とした暗い演出が多用されるため、単純に物理的な事故が起きやすいという合理的な見方も示されている。真偽のほどはともかく、危険な仕掛けを扱う現場が参拝という儀礼を通じて緊張感と注意を保ってきた、という側面もあるのではないだろうか。
なぜこの怪談は生き残ったか
江戸時代は長く続いた太平の世であったからこそ、人々は余暇に刺激を求めるようになり、百物語のような怪談会が庶民の娯楽として広く流行したと言われる。恨みを抱いたまま現世に留まる死者という発想は、無秩序に積み重なる人々の不満や不安を物語という形式に収め、共有可能なものへと変換する役割を担っていたとも考えられている。
『四谷怪談』が二百年を経てなお参拝の列を集め続けているのは、実録・邸内社の伝承・南北の創作という三層が積み重なり、一つの「お岩」という像を絶えず更新し続けてきたからだろう。忠臣蔵という当時の大ヒット狂言に組み込まれた興行上の工夫が作品を軌道に乗せ、その後の再演のたびに新しい逸話や体験談が付け加えられ、物語自体が生きているかのように成長してきた。実在した女性の面影と、舞台の上で作り上げられた亡霊とが、於岩稲荷という一つの場所に重なり続けていること自体が、この怪談が今なお語り継がれる最大の理由なのかもしれない。