
七輿山古墳
群馬県藤岡市にある、6世紀前半に築かれた東日本最大級の前方後円墳。墳丘の長さは約145mに及び、古代この地を治めた豪族の墓と考えられている。一帯には、朝廷に滅ぼされたと伝わる豪族・羊太夫の物語が残り、追い詰められた一族の七人の妻(更衣)が、七つの輿に乗って逃れた末に次々と命を絶ったという悲話が「七輿(ななこし)」の名の由来とされる。墳丘に並ぶ石仏の多くが顔を削られた「首なし地蔵」であることも相まっ
鎮守の杜や霊場は、千年の祈りが土地に染み込んだ磁場であり、神仏と死者が共に在る空間である。御霊信仰、無縁仏の供養、修験の行場としての記憶が幾重にも層をなし、結界の内側でうごめく気配は信仰の篤さに比例して濃く立ちのぼる。
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群馬県藤岡市にある、6世紀前半に築かれた東日本最大級の前方後円墳。墳丘の長さは約145mに及び、古代この地を治めた豪族の墓と考えられている。一帯には、朝廷に滅ぼされたと伝わる豪族・羊太夫の物語が残り、追い詰められた一族の七人の妻(更衣)が、七つの輿に乗って逃れた末に次々と命を絶ったという悲話が「七輿(ななこし)」の名の由来とされる。墳丘に並ぶ石仏の多くが顔を削られた「首なし地蔵」であることも相まっ

山形県鶴岡市羽黒町手向(とうげ)にある羽黒山五重塔は、出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)信仰の中心地、出羽神社の境内に立つ国宝建造物である。羽黒山の標高414メートルの山頂と、麓を結ぶ長い石段参道の途中、杉並木のなかに静かに立つ姿で広く知られる。 塔の建立年代は明確には記録に残らないものの、室町前期の応安5年(1372年)に、出羽国守護で武家の藤原宗忠の発願により再建されたとする寺伝が中世以来伝わ

鳥取県東伯郡三朝町三徳に位置する三徳山三佛寺(みとくさん さんぶつじ)は、慶雲3年(706年)に役行者によって開かれたと伝わる天台宗の山岳寺院である。同寺の奥院・蔵王堂は三徳山の中腹、標高約470メートルの断崖の窪みに張り出すように建てられた懸造(かけづくり)建築で、通称「投入堂(なげいれどう)」と呼ばれる国宝建造物である。 投入堂の名は、役行者が法力で堂をそのまま岩窟に投げ入れたという伝承に由

東京都港区赤坂の乃木神社は、1912年9月13日に明治天皇の大葬儀当日に自刃した陸軍大将・乃木希典と妻・静子を祀る神社である。乃木希典は日清・日露戦争の指揮官として知られ、旅順攻囲戦や学習院での教育職を通じて明治期の国家に貢献した。その死は国民に大きな感銘を与え、1913年に崇敬者により中央乃木会が組織され、翌1923年11月1日に正式な神社として鎮座した。 隣接する旧乃木邸は明治35年築の和洋

新宿区四谷に鎮座する於岩稲荷田宮神社は、江戸歌舞伎の傑作『東海道四谷怪談』の登場人物「お岩」にゆかりの社である。だが、その実像は劇作品とは大きく異なる。祀られているのは田宮岩という御家人の妻で、1636年に没した人物だ。彼女は禄高わずか30俵の困窮する家計を支えるため、みずから大名家への奉公に出て働き、夫・伊右衛門とともに家業の再興に尽力したという。田宮家の屋敷に祀られていた伏見稲荷への信仰が篤く

千代田区大手町に鎮座する神田明神は、東京の歴史のなかで「普通の神社」の枠を超えた特異な位置を占めている。祀られているのは大己貴命と少彦名命という福徳の神に加えて、平将門という10世紀の反乱武士である。この配置自体が、この神社を他の社とは異なる性質をもつ存在へと変えた。 平将門は935年に関東を舞台に反乱を起こし、鎮圧されて首を失った。その首は当社の近くに埋葬され、14世紀初頭には周辺で天変地異が

寛永寺は天台宗関東総本山として1625年に徳川家光により創建された。開山は天海。東叡山の山号を冠し、徳川幕府の祈祷寺・菩提寺の役割を果たしてきた。現在、境内にはこの寺に眠られた6人の将軍(四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定)の霊廟が祀られている。 寛永寺の歴史転換点は1868年の上野戦争である。慶応4年5月15日、戊辰戦争の過程で彰義隊が寛永寺に籠城し、新政府軍と交戦

青山霊園は1874年に東京都港区南青山に開設された公営墓地。明治以来の政治家・学者・文化人が眠る場所として知られ、大久保利通、後藤新平、志賀直哉、忠犬ハチ公の飼い主である上野英三郎博士らが埋葬されている。広大な敷地には桜並木が広がり、春季は都内の名所となる。昼間は都市公園として散策地に機能している。 夜間についての言及は散発的に報告されており、着物姿の人影の目撃や、墓石の間の小さな影、深夜の参道

大圓寺は寛永年間に創建された天台宗の古刹で、目黒の行人坂に位置する。1772年(明和9年)2月、武州熊谷の無宿坊主・真秀による放火で、寺から大火が発生した。この火災は江戸城周辺、日本橋、上野、浅草など広範な地域に延焼し、934の町区を焼き、14,700人以上の死亡者を出した江戸三大大火の一つとなった。火元とされた寺は幕府の命により70年以上再建が禁止され、1848年に薩摩藩主の帰依によってようやく

東京都江東区深川に建つ法乗院は、寛永6年(1629年)に開山・覚誉僧正によって創建された真言宗豊山派の寺院である。江戸時代から「深川の閻魔」として知られ、現在、江戸三大閻魔の一つとして民間信仰の中心地となっている。 本堂に祀られる閻魔大王座像は平成元年に建立されたもので、全高3.5メートル、全幅4.5メートル、重量1.5トンという日本最大級の木造彫像である。堂内の壁面には天明4年(1784年)に

増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、1393年に開山された。江戸時代に入ると、2代将軍秀忠をはじめ計6名の徳川将軍とその親族38人が埋葬される菩提寺として大きな勢力を持つようになった。当時の霊廟群は杉の古木に囲まれた壮麗な建造物として、日光東照宮に匹敵する規模を誇り、戦前は国宝指定を受けていた。1945年の戦災により、3月と5月の空襲で北廟68棟、南廟28棟のほぼすべてが焼失した。戦後の1958年に

泰叡山護國院瀧泉寺は、慈覚大師・円仁が大同3年(808年)に創建したと伝わる。15歳の円仁が比叡山へ向かう途中、不動明王の夢告を受けてその像を彫刻し安置したことが寺の濫觴とされ、天安2年に堂宇が造営され「瀧泉寺」の寺号を得た。貞観2年(860年)には清和天皇から「泰叡」の勅額を賜り、江戸期には五色不動の一として五方位の不動尊の中央に置かれ、徳川家の祈祷寺として厚く庇護された。 本堂裏に流れる独鈷