
江北町の廃農村
佐賀県杵島郡江北町は、有明海に注ぐ六角川流域に広がる平野部の町で、干拓と新田開発によって育まれてきた稲作と海苔養殖の土地である。潮汐の大きい有明海沿岸では、干潟と水路が複雑に組み合わさり、人の手で田を作り守ってきた長い時間が地形に刻まれている。集落の高齢化と離農の進行により、海沿いの一部の小集落では家屋が傷み、石垣や水門の跡だけが残された土地もあり、潮と農の記憶が静かに重なってきた。 寄せられる体験談で繰り返し語られるのは、夜更けに潮の香りに混じって、誰もいないはずの田の畔から鍬や苗運びの規則的な音が断続的に聞こえてくる、というものである。低く伸びる労作唄のような旋律が水路を伝って届いた、廃屋の戸口に淡い灯が一瞬だけ点ったように見えたと記す訪問者もいる。土地で具体の事件と結びつく語りではなく、干拓と海苔養殖を支えてきた農の記憶が、潮の景観のなかで物語的に立ち現れている。 地元では、海と田を守ってきた先祖と、離農していった家々への哀悼が穏やかに受け継がれてきた。怪異の話は煽る題材ではなく、有明海とともに生きた人々の生業と苦労を、潮の匂いとともに思い出すための共同体の語りとして共有されてきた側面を持つ。 有明海沿岸は満潮時の急な水位上昇と泥地への沈み込みが危険で、夜間の堤防・干潟への単独立ち入りは厳に避けるべきである。私有の田や廃屋への侵入も慎み、訪れる場合は日中に堤防道路から景観を眺め、海と田に生きた人々への敬意を欠かさないこと。