
千歳楼廃墟
愛知県春日井市玉野町の定光寺渓谷沿いに佇む大規模な旅館建築の廃墟である。庄内川支流が刻んだ深い谷の景観を活かし、明治期以来の行楽地として長く親しまれてきた建物は、二〇〇〇年代初頭の経営破綻により営業を停止し、以後は手入れの絶えた状態のまま長く放置されてきた。一時期に館内で痛ましい発見があったとも伝えられ、地域では建物の取り扱いと故人への敬意のあり方が、住民同士の間で静かに語られてきた経緯を持つ場所である。 寄せられる体験談で繰り返し語られるのは、谷から冷気が立ち上る夕刻、廃館の窓辺に薄い人影が一瞬だけ立っているのを遠目に目撃する、というものである。崩れた廊下の奥から何かを擦るような微かな足音が断続的に届いた、誰もいないはずの階上で押し殺した呻きに似た響きが短く流れた、撮影した写真にだけ淡い人の輪郭が滲んで写り込んでいた、と語る訪問者もいる。 地元では、建物にまつわる出来事を興味本位で語ることを慎み、亡くなられた方々への弔いの気持ちを大切にする姿勢が共有されてきた。渓谷の景観と旅館文化の記憶を、観光の喧噪ではなく静かな追悼の感情とともに受け継ごうとする声が、今も住民や寺社の関係者の間に根強く残っている。 敷地は私有地であり立ち入りは厳禁、建物は老朽化が著しく床抜けや崩落の危険が極めて高い。心霊目的の侵入は不法侵入罪に問われ、故人への侮辱にもあたる。訪れる場合は定光寺周辺の遊歩道から渓谷の景観を遠く眺めるにとどめ、廃墟そのものには決して近づかぬよう願いたい。