
山北町丹沢湖の水没集落
神奈川県山北町の丹沢湖は、酒匂川水系の治水と利水を目的に建設された三保ダムによって生まれた人造湖で、昭和五十年代に湛水が開始されたことに伴い、湖底にはかつての山あいの集落跡が眠っている。ダム建設のために故郷を離れざるを得なかった人々の暮らしの記憶が、静かな水面の下に沈み続けている土地であり、湖畔の道路や橋からはダム建設前の地形をしのばせる地名表示が今も随所に残されている。 寄せられる体験談で繰り返し語られるのは、渇水期に水位が大きく下がると、水没した家屋の基礎や石垣、田畑の畦と思しき線が湖底から姿を現し、その光景に強く胸を打たれる、というものである。夜間の湖面に水中から淡い光が漏れて、かつての集落の灯のように見えた、湖岸の道路を走行中にヘッドライトが一瞬翳ったように感じた、水際の方角から低く名を呼ぶような声が風に乗って届いた、と語る訪問者がいる。 地元では、移転を余儀なくされた住民の暮らしと、ダムが地域の治水と水道に果たしてきた役割の双方を尊重する姿勢が受け継がれている。湖の現象譚は怪異というよりも、失われた集落への鎮魂と、水の下の記憶を語り継ぐ寓話としての性格を強く帯びている。 丹沢湖の湖岸道路は夜間照明が少なく、転落事故や接触事故の危険が高い。心霊目的の深夜訪問や湖面・湖岸への無理な立ち入りは控え、訪れる場合は日中に展望所や周辺の遊歩道から景観を楽しみ、湖底に眠る暮らしの記憶への敬意を欠かさないこと。