
吾川郡いの町の廃農家
高知県吾川郡いの町は、四国山地の山深い谷あいから仁淀川中流域に至る細長い町で、清流仁淀川と土佐和紙の生産地として全国に知られる土地である。山間部には離村や高齢化により無人化した農家が点在し、和紙の原料となる楮や三椏を育てた畑跡、漉き場の小屋などが朽ちかけたまま残る場所もある。仁淀ブルーと称される川の水音と、千年以上続く和紙文化の記憶が重なる場所として、廃農家にまつわる静かな怪異が古くから語られてきた。 寄せられる体験談で繰り返し語られるのは、夜更けに廃農家の前を通ると、無人のはずの座敷から紙を漉くような微かな水の音や、楮を叩く規則的なリズムが聞こえてくる、というものである。雨が止んだ直後に湿った和紙のような甘い匂いが漂った、座敷の方角から低く話す声が短く届いた、軒先の暗がりで人の気配のような視線を感じた、と語る訪問者がいる。 地元では、和紙づくりに人生を捧げた職人やその家族への敬意が、世代を超えて受け継がれてきた。怪異の話は怖がらせる目的ではなく、土佐和紙という産業文化と山村の暮らしの記憶を語り直す穏やかな語り口として共有されてきた。 廃農家は私有地であり、所有者の許可なき立入は不法侵入にあたる。家屋は老朽化により床抜けや倒壊の危険が高く、夜間の接近は厳に控えたい。訪問は日中、地域の理解を得たうえで道路から見学する程度に留め、住民の生活と職人文化への敬意を保ち続けること。