怪談の系譜8分・2026-07-04 公開

皿屋敷の系譜―番町と播州、お菊はなぜ皿を数えるのか

井戸の底から「いちまい、にまい」と皿を数える女の声が聞こえる――この怪談は、江戸の番町と播磨の姫路、遠く離れた二つの土地に伝わっているとされる。番町皿屋敷と播州皿屋敷は、舞台も登場人物の名も異なりながら、家宝の皿・恨みを抱いて死んだ女性・井戸という共通の骨格を持つと言われる。どちらが先に生まれ、どのように混ざり合って今日の「お菊」像がつくられたのか、その系譜を辿ってみたい。

井戸から聞こえる声――二つの「お菊」

江戸時代の江戸を舞台にした番町皿屋敷では、旗本・青山主膳の屋敷に仕える下女の菊が、家宝である十枚揃いの皿のうち一枚を割ってしまったことから、主膳の折檻を受けて命を落とし、その後、屋敷の井戸から夜ごと皿を数える声が聞こえるようになったと伝わる。菊の死後、青山家の子には指が欠けるなどの怪異が続き、家は取り潰しになったともされている。

一方、播磨・姫路を舞台にした播州皿屋敷では、姫路城の主家を横領しようと企む逆臣・青山鉄山の陰謀を探るため、家臣の妾であったお菊が鉄山のもとに間者として送り込まれたと伝わる。お菊は鉄山の家臣に疑われて家宝の皿を隠され、その罪を着せられたうえで拷問を受け、最後は城内の井戸に投げ込まれたとされる。舞台も筋立ても異なりながら、どちらの話にも「青山」という姓の人物が登場する点は、後世の研究でもしばしば指摘される奇妙な一致である。

播州皿屋敷――姫路城に眠る最古の型

皿屋敷伝説の記録として現在知られているもののうち最古とされるのは『竹叟夜話』で、天正五年(一五七七年)に永良竹叟という人物が著したという奥書を持つと伝わる。この書では、時代設定は姫路城が今の姿になるよりずっと前の室町時代後半、山名氏が播磨の守護であった頃に置かれ、ヒロインの名は花野、割られる皿は五枚、悪役は小田垣主馬助という武将として描かれているという。つまり播州側の物語は、はじめから「お菊」でも「十枚の皿」でもなかったことになる。

江戸時代後期に成立したとされる『播州皿屋敷実録』になると、話は大きく複雑化する。お菊は家臣・衣笠元信と恋仲でありながら、主家への忠義のために元信の指示で青山鉄山のもとへ働きに出ているという設定が加わり、鉄山の子・小五郎と、主家の姫である白妙姫との恋愛も絡む筋立てになっているとされる。姫路城天守の下、上山里曲輪にある古井戸は現在「お菊井戸」として案内されているが、江戸時代の文献ではこの井戸は「釣瓶取井戸」と呼ばれており、「お菊井戸」の名は大正時代に姫路城が一般公開されるようになった頃から使われ始めたのではないかと考えられている。物語に登場する「車門」や「桐の馬場」といった地名も、実際には江戸初期に池田輝政が城下町を整備した際につけられたもので、室町時代を舞台にした話としては年代が矛盾しており、史実の記録というより後世に練り上げられた戯作的な物語だとする見方が示されている。

番町皿屋敷――江戸に移された怪談

皿と井戸にまつわる怨み話は、十八世紀初頭の江戸・牛込御門界隈を舞台にしたものとして文献に散見されるようになるという。一七二〇年頃には大坂で歌舞伎の一演目として取り上げられ、一七四一年には浄瑠璃『播州皿屋敷』が上演され、この頃に「お菊」という名前、皿を割った罰、井戸(井筒)という、現在よく知られる皿屋敷の要素がひとまず一つの形にまとまったとされる。その後一七五八年、講釈師の馬場文耕が『弁疑録』において舞台を江戸の牛込御門内・番町に書き換えたことが、講談「番町皿屋敷」の直接の土台になったと伝わる。

番町版で語られる事件は承応二年(一六五三年)の正月に起きたとされ、火付盗賊改役という役職にあった青山主膳が、盗賊の娘であった菊を下女として召し使っていたという背景が付されている。菊の墓とされるものは、麹町から大正時代に移った永福の栖岸院にあると伝わるが、丁重に扱われている一方で特別な案内表示はないという。年代設定の矛盾も指摘され、史実そのものというより、講談や芝居のなかで肉付けされていった物語だと考えられている。大正五年(一九一六年)には岡本綺堂が新歌舞伎『番町皿屋敷』を発表し、お菊の亡霊を登場させず、皿を割る行為を「愛情を試すため」という近代的な動機に置き換えて、悲恋物語として再構成した。この綺堂版が、今日多くの人が思い浮かべる「お菊」像の輪郭に大きな影響を与えたとされている。

なぜ井戸なのか――境界としての水

皿屋敷において犠牲者が投げ込まれる場所が、山中でも路上でもなく「井戸」であることには、民俗学的な理由があると考えられている。井戸は日常の生活空間と、地の底に広がる見えない世界とをつなぐ通路のようなものとみなされてきたとされ、桶で水を汲み上げるという毎日の行為そのものが、暗い井戸の底からこの世へ何かを運び出す、境界的な所作として意識されていたという。汲んだ水を井戸に戻すことや、空の桶をそのまま引き上げることを忌む習俗が各地にあったとされるのも、井戸を秩序と無秩序の境目として扱っていたことの表れだと言われる。

死にゆく人の名を井戸に向かって呼びかける魂呼びという習俗があったことも伝えられており、井戸が生と死をつなぐ場として意識されていたことをうかがわせる。水辺は人の命を支える一方で、時に命を奪う場所でもあるという二面性を持つがゆえに、異界のイメージを強く投影されやすいのだとされる。皿屋敷の結末で女性が井戸に投げ込まれるという筋立ては、単に遺体を隠す手段としてだけでなく、この世とあの世のあいだにその存在を封じ込めるという、もう一つの意味を帯びていたのではないかと解釈できる。

数え終わらない罪――未完の行為という呪い

皿屋敷という怪談の核心は、「いちまい、にまい」と数えながら、最後の一枚に届かずに一巡目を終え、また一から数え直すという、決して完結しない行為の反復にあるとされる。この「終わらない数え」こそが、聞く者に底知れぬ不気味さを与える仕掛けだと考えられている。滑稽噺として演じられる落語版では、この構造を逆手に取り、お菊が皿を数え切ってしまうと聞いた者が祟られるという評判が立ち、見物人は数え終わる前に逃げ出さねばならないという評判自体が話題を呼んだと伝えられており、怖い話が笑い話へと転じていく過程そのものも興味深い。

同じように何かを数え続ける怨霊の話は日本各地に類話があるという。皿ではなく、たとえば宮城県には嫁の亡霊が筵を九枚まで数え、十枚目に至ると泣くと伝わる話が残るとされ、尼崎には皿ではなく針にまつわる異聞が江戸時代の記録に見えるという。数える対象も土地ごとに異なるが、いずれも「本来完結すべき行為が永遠に完結しない」という構造を共有している。理不尽に断ち切られた命が、達成されなかった行為を無限に繰り返すことで自らの不在を訴え続けるという筋立てが、皿屋敷を含む「数える怪談」という一群の類型を形づくっているのだと考えられる。

科学の目で見る皿屋敷――お菊虫という自然現象

皿屋敷伝説と実際の自然現象が結びついた例として知られているのが「お菊虫」である。寛政七年(一七九五年)、播磨・姫路城下でジャコウアゲハという蝶の蛹が大量に発生し、当時の人々の間で話題になったと伝わる。この蛹は、後ろ手に縛られたような姿勢と、腹部に見える突起がまるで人の乳房のように見えることから、責め殺されたお菊の怨みが虫となって現れたのだという見方が広まり、「お菊虫」と呼ばれるようになったとされる。

江戸時代の記録にも、この虫について「後手にくくりつけられたる形態なり」といった記述が残るとされ、当時から正体が蝶の蛹であることは把握されていたという指摘もある。つまり、怪異として語られた事象の実体が、当時の観察者にもある程度は合理的に理解されていたことがうかがえる。姫路市が平成元年(一九八九年)にジャコウアゲハを市の蝶に選んだのも、この逸話が今も土地の記憶として息づいていることの表れだといえる。お菊井戸という呼び名自体が近代の観光整備のなかで定着したとされる点も含めて考えると、怪談の「物証」とされてきたものの多くは、自然現象の見立てや、後年の名づけによって形づくられてきた可能性が高いといえるだろう。

怪談はなぜ生き残るのか――系譜が語る社会的機能

こうして辿ってみると、皿屋敷伝説には重層的な系譜があることが見えてくる。播州の物語がまず室町期を舞台にした形で語られ、それが江戸に移されて番町の物語として練り直され、さらに近代に入って岡本綺堂の手で恋愛悲劇として再創造されたという、長い時間をかけた変形の連続がそこにはある。各時代の語り手が、その時々の社会が抱える緊張――理不尽な主従関係、身分制度のもとで声を持ちにくかった女性の立場、あるいは近代的な恋愛観――を映し出す型として、この物語を選び直し、語り継いできたと考えられる。

些細な過失、あるいは仕組まれた濡れ衣が、理不尽な暴力によって命を奪われるまでに一気に拡大していく筋立ては、権力を持つ者の恣意的な振る舞いに対する警鐘として機能してきたのではないかとする見方もある。現在、姫路の十二所神社の境内には、播州皿屋敷のお菊を祀るとされるお菊神社が置かれており、皿に願いごとを書いて祈願する風習も伝わっている。恐怖の対象として語られてきた物語が、時を経て土地の記憶や祈りの対象として受け継がれているのは興味深い転換である。番町と播州、二つの系譜が混ざり合いながら一人の「お菊」という名前に集約されていった過程そのものが、一つの怪談が時代や土地を越えて生き延びていく仕組みを、今もなお静かに物語っているのだろう。