
円形校舎
北海道美唄市の山中に、戦後北海道の炭鉱小学校の遺構として知られる円形校舎跡がある。三菱美唄鉄道沿線にあった三菱美唄炭鉱の児童たちが通った沼東(しょうとう)小学校の旧校舎で、1959年(昭和34年)に建設された独特の円形プランの学校建築である。 美唄炭鉱は三菱鉱業(後の三菱マテリアル)が経営した北海道有数の炭鉱で、明治末から1972年(昭和47年)の閉山まで操業した。最盛期の1960年前後、炭鉱労働者とその家族を中心に約15,000人の住民が炭鉱地区に居住し、学校・病院・購買所・娯楽施設などのインフラが整備されていた。 沼東小学校はこの炭鉱地区の児童たちが通う小学校で、最盛期には児童数1,570名というマンモス校に成長した。膨らみ続ける児童数に対応するため、限られた敷地で多数の教室を確保できる構造として、当時流行していた「円形校舎」の設計が採用された。 円形校舎は、中央に螺旋階段を置き、その周囲を扇形の教室が放射状に取り囲む構造を持つ。各教室は中央から外周に向かって扇形に広がり、外周窓から豊かな採光を確保できる。中央の螺旋階段が縦動線をコンパクトにまとめるため、敷地面積を最小限に抑えて多数の教室を配置できる利点があった。1950年代から1960年代にかけて、全国で60〜70棟程度が建設されたとされる。 沼東小学校の特徴的な点は、東西2棟の円形校舎が湾曲した渡り廊下で結ばれていることで、上空から見ると眼鏡のような形状になる「メガネ校舎」として地域で親しまれた。設計と施工は1958〜1959年の短期間で行われ、児童数の急増に対応する迅速な建築事例として教育施設史の研究対象になっている。 美唄炭鉱の経営悪化に伴って児童数は急減した。1970年代に入ると、炭鉱閉山が現実化し、沼東小学校の児童も大幅に減少した。1972年(昭和47年)の三菱美唄炭鉱閉山と1973年(昭和48年)の三菱美唄鉄道廃止により、地区の人口流出が加速。1974年(昭和49年)3月、沼東小学校は閉校した。 閉校後、校舎は解体されないまま山中に取り残された。湿地的な地形にあるため建物の一部が湧水で水没する状態となっている。コンクリート構造体としての強度は保たれているが、内部の木造部分や設備は劣化が進んでいる。 建物が建つ敷地は私有地と森林の混在地で、立入制限の対象である。安全のため一般の見学は推奨されない。美唄市の郷土史資料館に当時の学校生活、炭鉱の暮らし、円形校舎建築の経緯を伝える資料が収蔵されており、近代日本の炭鉱集落の歴史を学ぶことができる。 戦後日本の炭鉱興亡史と、教育施設建築の流行、地域社会の急速な消長を象徴する建物として、土木史と建築史の双方から記録保存の取り組みが進められている。
