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雄別炭鉱病院跡

北海道釧路市阿寒町、釧路湿原から内陸に分け入った山中に、雄別炭鉱(ゆうべつたんこう)跡が広がっている。1923年(大正12年)の鉱区設定に始まり、戦前から戦後にかけて北海道有数の炭鉱として栄えた。最盛期の1960年代前半には鉱山労働者とその家族を中心に、雄別三鉱と総称される三つの鉱区を合わせて約15,000人の人口を抱えた。 雄別炭鉱の代表的な施設のひとつが、1958年(昭和33年)に完成した雄別炭鉱病院である。北海道大学医学部や東京の医療研究機関との連携のもと、当時の日本国内でも先進的な総合病院として整備された。地上3階、地下1階、馬蹄形(U字型)の平面プランを採用し、各病棟と診療科を効率的に配置する設計が特徴だった。建築設計は山田守の流れを汲む建築家グループが担当したとされ、戦後の医療施設建築の好例として建築界でも注目された。 馬蹄形の廊下プランは、入院患者の往来動線、医療スタッフの作業効率、自然採光、緊急時の避難動線を総合的に考慮した設計思想に基づく。バリアフリーや感染症対策の発想は今日的水準で見ても先進的で、北海道の山中という辺境に、なぜこれほどの先進病院があったのかという問いが、地域史と建築史の研究対象となってきた。 背景には炭鉱経営者の福利厚生方針があった。雄別炭鉱を経営する雄別炭鉱株式会社は、鉱山労働者の労働環境改善と長期勤続奨励のため、住居・医療・教育・娯楽の各分野で積極投資を続けていた。病院の他にも、鉄筋コンクリート造の集合住宅、小中学校、購買所、映画館などが山中の鉱業所周辺に整備されていた。 1960年代後半、石炭から石油へのエネルギー転換、坑内事故、労働組合との対立、競合炭鉱の閉山などの要因が重なって、雄別炭鉱の経営は急速に悪化した。1969年8月に隣接する茂尻鉱業所でガス爆発事故(茂尻炭鉱ガス爆発事故、19名死亡)が発生し、安全コストの増加にも直面した。雄別炭鉱株式会社は1970年(昭和45年)2月、三鉱を一斉閉山して経営を撤退した。 閉山後の人口流出は急激だった。約15,000人いた住民は1年でほぼ全員が地区を去り、雄別の町はゴーストタウン化した。病院も含む主要施設の多くは解体されたが、雄別炭鉱病院だけは費用と立地の問題から解体されず、半世紀以上にわたり原野の中に放置されている。 建物は釧路市の山中、私有地および国有林の混在する地域にある。雪と風雨による窓ガラスの破損、内部の劣化が進んでいるが、馬蹄形の構造体は今もはっきりと確認できる。北海道の近代化遺産として一部の研究者と建築史家が記録保存を提唱しているが、文化財指定の動きには至っていない。立入禁止区域で、安全上の理由から訪問は推奨されない。釧路市立博物館に雄別炭鉱関係の資料が収蔵されている。

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雄別炭鉱病院跡
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雄別炭鉱病院跡

北海道釧路市阿寒町、釧路湿原から内陸に分け入った山中に、雄別炭鉱(ゆうべつたんこう)跡が広がっている。1923年(大正12年)の鉱区設定に始まり、戦前から戦後にかけて北海道有数の炭鉱として栄えた。最盛期の1960年代前半には鉱山労働者とその家族を中心に、雄別三鉱と総称される三つの鉱区を合わせて約15,000人の人口を抱えた。 雄別炭鉱の代表的な施設のひとつが、1958年(昭和33年)に完成した雄別炭鉱病院である。北海道大学医学部や東京の医療研究機関との連携のもと、当時の日本国内でも先進的な総合病院として整備された。地上3階、地下1階、馬蹄形(U字型)の平面プランを採用し、各病棟と診療科を効率的に配置する設計が特徴だった。建築設計は山田守の流れを汲む建築家グループが担当したとされ、戦後の医療施設建築の好例として建築界でも注目された。 馬蹄形の廊下プランは、入院患者の往来動線、医療スタッフの作業効率、自然採光、緊急時の避難動線を総合的に考慮した設計思想に基づく。バリアフリーや感染症対策の発想は今日的水準で見ても先進的で、北海道の山中という辺境に、なぜこれほどの先進病院があったのかという問いが、地域史と建築史の研究対象となってきた。 背景には炭鉱経営者の福利厚生方針があった。雄別炭鉱を経営する雄別炭鉱株式会社は、鉱山労働者の労働環境改善と長期勤続奨励のため、住居・医療・教育・娯楽の各分野で積極投資を続けていた。病院の他にも、鉄筋コンクリート造の集合住宅、小中学校、購買所、映画館などが山中の鉱業所周辺に整備されていた。 1960年代後半、石炭から石油へのエネルギー転換、坑内事故、労働組合との対立、競合炭鉱の閉山などの要因が重なって、雄別炭鉱の経営は急速に悪化した。1969年8月に隣接する茂尻鉱業所でガス爆発事故(茂尻炭鉱ガス爆発事故、19名死亡)が発生し、安全コストの増加にも直面した。雄別炭鉱株式会社は1970年(昭和45年)2月、三鉱を一斉閉山して経営を撤退した。 閉山後の人口流出は急激だった。約15,000人いた住民は1年でほぼ全員が地区を去り、雄別の町はゴーストタウン化した。病院も含む主要施設の多くは解体されたが、雄別炭鉱病院だけは費用と立地の問題から解体されず、半世紀以上にわたり原野の中に放置されている。 建物は釧路市の山中、私有地および国有林の混在する地域にある。雪と風雨による窓ガラスの破損、内部の劣化が進んでいるが、馬蹄形の構造体は今もはっきりと確認できる。北海道の近代化遺産として一部の研究者と建築史家が記録保存を提唱しているが、文化財指定の動きには至っていない。立入禁止区域で、安全上の理由から訪問は推奨されない。釧路市立博物館に雄別炭鉱関係の資料が収蔵されている。