
宝幢寺の河童伝説
新河岸川は江戸時代以前、荒川(外川)に対して「内川」と呼ばれていたが、川越藩主松平信綱の改修により「九十九曲り」と呼ばれる屈曲の多い水路として整備され、「新河岸川」と名付けられた。沿岸には対岸の宗岡河岸と引又河岸(志木河岸)が設けられ、江戸と川越を結ぶ舟運の拠点として明治期にかけて栄えたが、昭和に入り鉄道の普及や上流部の河川改修が進み、1931年に埼玉県が通船停止を決めたことで舟運の役目は終わったと伝わる。 この引又河岸に近い宝幢寺には、河童にまつわる古い伝承も残る。1809年(文化6年)刊の『寓意草』に記録され、後に民俗学者柳田国男が『山島民譚集』で「和尚の慈悲」として紹介した話によれば、柳瀬川のほとりで河童が馬を川に引き込もうとしたところ、宝幢寺の地蔵に見つかって厳しく諌められたという。河童は改心を誓って水に帰り、後日その礼として鮒や鯉を寺の流し台に朝方置いていったとされる。志木市はこの伝承を「志木のカッパ伝説」として紹介し、宝幢寺には河童をかたどった石像が複数据えられている。 かつて舟運で栄えた水辺という土地の記憶と、河童が馬を水に引き込むという古い伝承とが重なり、この一帯は川にまつわる不思議な話が語られる場所として知られている。