
於岩稲荷田宮神社
新宿区四谷に鎮座する於岩稲荷田宮神社は、江戸歌舞伎の傑作『東海道四谷怪談』の登場人物「お岩」にゆかりの社である。だが、その実像は劇作品とは大きく異なる。祀られているのは田宮岩という御家人の妻で、1636年に没した人物だ。彼女は禄高わずか30俵の困窮する家計を支えるため、みずから大名家への奉公に出て働き、夫・伊右衛門とともに家業の再興に尽力したという。田宮家の屋敷に祀られていた伏見稲荷への信仰が篤く、その後1717年に「於岩稲荷社」として正式に祀られるに至った。 劇作家・四世鶴屋南北が『四谷怪談』を発表したのは1825年、つまりお岩の没後から実に189年も経過していた。南北は当時の江戸で起きた複数の情痴事件を集約し、実在した女性の名前と功績に虚構を重ね合わせることで、戯曲の信ぴょう性を演出したとされている。戯曲では彼女は毒を盛られて殺された怨霊に設定されたが、田宮家は江戸時代から現在まで存続しており、その子孫が代々宮司を務めている。この事実こそが、劇中の悲劇的な死が創作であることの何よりの証だ。 1879年(明治12年)、四谷の社は火災により焼失し、その後中央区新川へと遷座した。元の鎮座地には小祠が残されていたが、昭和初期には陽運寺が創建され、お岩信仰の拠点として機能するようになった。戦後の1952年に再建された現在の社は、夫婦円満と家運隆昌のご利益で知られている。今日、弱い立場に置かれた女性たちがこの社を訪れるのは、虚実の境を超えて、困苦のなかで家族を守った一人の妻の想いに共鳴するからなのだろう。
