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熊本市の心霊スポット

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熊本市の人気スポット TOP3

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熊本市民病院跡地

熊本市民病院は1946年2月に開設され、戦後から熊本の周産期・小児医療を支えた市立病院である。2016年熊本地震で建物が倒壊の危険を呈したため、全患者が転院、2019年10月に東区東町の新病院に移転した。旧施設は跡地として2020年から解体が進められたが、周辺住民の振動苦情により約1年半中断を経て、2022年に工事が再開され2023年内に完了した。跡地は2024年12月に同仁グループが落札し、生鮮食品スーパーを含む商業施設への転用が計画されている。医療機関の長期利用と急激な廃止、その後の空白期間を経て商業施設化へと至る空間の履歴が、跡地に対する地形的・心理的な注目をもたらしている。

廃墟・残骸
2

田原坂

熊本県熊本市北区植木町豊岡にある田原坂は、薩摩街道の難所として知られた台地の坂道である。標高80メートルから120メートルへと約1.5キロメートルにわたって緩やかに登る地形で、現在は熊本市の田原坂西南戦争資料館を中心に田原坂公園として整備されている。 田原坂の名が日本史に刻まれたのは、1877年(明治10年)の西南戦争においてである。西郷隆盛率いる薩摩軍が熊本城を包囲した戦況のなか、政府軍は熊本城救援のため南下を試みた。これを迎え撃つ薩摩軍が、台地北面の唯一大砲を引き上げられるルートだった田原坂周辺に陣を構え、3月4日から20日までの17日間、坂上と坂下で激しい砲撃戦と銃撃戦を繰り広げた。 熊本県と熊本市が編纂した『熊本県史』および『田原坂西南戦争資料館』の解説資料によれば、この17日間で両軍合わせて4千名以上が戦死もしくは負傷したとされる。一日に消費された弾薬量は最盛期で32万発に達したという記録も残っている。日本史上、近代的な火器を用いた本格的な内戦の戦闘としては最大級のものであった。 戦闘は政府軍の勝利で終わり、戦況は薩摩軍にとって決定的に不利になった。9月の城山の戦いで西郷が自刃し、日本最後の内戦は幕を閉じた。 田原坂西南戦争資料館は2015年にリニューアルし、当時の弾痕が残る民家の柱、両軍の武器、遺品などを展示している。公園内には4千を超える両軍戦没者を慰霊するため、政府軍・薩摩軍双方の名を刻んだ慰霊碑が建てられている。桜の名所としても知られ、毎春多くの花見客が訪れる。

路上・交差点
3

熊本城二の丸広場(天守台)

熊本城は慶長12年(1607年)に加藤清正により完成した九州の主要な城塞である。本丸西側に位置する二の丸広場は、江戸時代には上級家臣の屋敷が立ち並ぶ重要な区域であった。天守台を中心とした一帯は、明治10年(1877年)の西南戦争で薩軍13000余りの包囲攻撃を50日以上にわたって耐え、堅牢さで知られている。2016年4月の熊本地震では甚大な損傷を受けた。大天守は屋根瓦の崩落と装飾の落下、石垣の複数箇所崩落が発生し、国の重要文化財に指定されている東十八間櫓・北十八間櫓が倒壊・崩落した。石垣全体では約973面のうち229面が崩落し、さらに517面が積み直しを要する状態となった。天守台を含む城全体の復旧は2020年の天守閣完了から現在も継続中で、全体完了は2052年まで延伸されている。二の丸広場は現在も復旧工事が行われており、立入制限区域が存在する。

公園・城址

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熊本市民病院跡地
廃墟・残骸·熊本県 熊本市

熊本市民病院跡地

熊本市民病院は1946年2月に開設され、戦後から熊本の周産期・小児医療を支えた市立病院である。2016年熊本地震で建物が倒壊の危険を呈したため、全患者が転院、2019年10月に東区東町の新病院に移転した。旧施設は跡地として2020年から解体が進められたが、周辺住民の振動苦情により約1年半中断を経て、2022年に工事が再開され2023年内に完了した。跡地は2024年12月に同仁グループが落札し、生鮮食品スーパーを含む商業施設への転用が計画されている。医療機関の長期利用と急激な廃止、その後の空白期間を経て商業施設化へと至る空間の履歴が、跡地に対する地形的・心理的な注目をもたらしている。

田原坂
路上・交差点·熊本県 熊本市

田原坂

熊本県熊本市北区植木町豊岡にある田原坂は、薩摩街道の難所として知られた台地の坂道である。標高80メートルから120メートルへと約1.5キロメートルにわたって緩やかに登る地形で、現在は熊本市の田原坂西南戦争資料館を中心に田原坂公園として整備されている。 田原坂の名が日本史に刻まれたのは、1877年(明治10年)の西南戦争においてである。西郷隆盛率いる薩摩軍が熊本城を包囲した戦況のなか、政府軍は熊本城救援のため南下を試みた。これを迎え撃つ薩摩軍が、台地北面の唯一大砲を引き上げられるルートだった田原坂周辺に陣を構え、3月4日から20日までの17日間、坂上と坂下で激しい砲撃戦と銃撃戦を繰り広げた。 熊本県と熊本市が編纂した『熊本県史』および『田原坂西南戦争資料館』の解説資料によれば、この17日間で両軍合わせて4千名以上が戦死もしくは負傷したとされる。一日に消費された弾薬量は最盛期で32万発に達したという記録も残っている。日本史上、近代的な火器を用いた本格的な内戦の戦闘としては最大級のものであった。 戦闘は政府軍の勝利で終わり、戦況は薩摩軍にとって決定的に不利になった。9月の城山の戦いで西郷が自刃し、日本最後の内戦は幕を閉じた。 田原坂西南戦争資料館は2015年にリニューアルし、当時の弾痕が残る民家の柱、両軍の武器、遺品などを展示している。公園内には4千を超える両軍戦没者を慰霊するため、政府軍・薩摩軍双方の名を刻んだ慰霊碑が建てられている。桜の名所としても知られ、毎春多くの花見客が訪れる。

熊本城二の丸広場(天守台)
公園・城址·熊本県 熊本市

熊本城二の丸広場(天守台)

熊本城は慶長12年(1607年)に加藤清正により完成した九州の主要な城塞である。本丸西側に位置する二の丸広場は、江戸時代には上級家臣の屋敷が立ち並ぶ重要な区域であった。天守台を中心とした一帯は、明治10年(1877年)の西南戦争で薩軍13000余りの包囲攻撃を50日以上にわたって耐え、堅牢さで知られている。2016年4月の熊本地震では甚大な損傷を受けた。大天守は屋根瓦の崩落と装飾の落下、石垣の複数箇所崩落が発生し、国の重要文化財に指定されている東十八間櫓・北十八間櫓が倒壊・崩落した。石垣全体では約973面のうち229面が崩落し、さらに517面が積み直しを要する状態となった。天守台を含む城全体の復旧は2020年の天守閣完了から現在も継続中で、全体完了は2052年まで延伸されている。二の丸広場は現在も復旧工事が行われており、立入制限区域が存在する。