境界の民俗学8分・2026-07-04 公開

トンネルと峠が怖いと言われる理由を歴史と民俗学から探る

トンネルと峠は、日本各地で心霊スポットとして語られることが多い場所である。なぜこの二つが恐れられてきたのか。その背景には、近代の鉄道・道路トンネル開削における難工事の歴史と、峠を古くから異界との境と見なしてきた民俗学的な世界観とが、それぞれ異なる時代から重なり合い、今の語りに伝わってきた事情があると考えられている。

峠という文字が語るもの

「峠」という漢字は、日本で作られた国字であり、山と上と下を組み合わせた形をしている。その語源は「手向け(たむけ)」にあるとする説が古くから知られており、旅人が道の途中で道端の神に手向けの品を供え、これから先の道中の安全を祈った場所という意味合いが込められているとされる。

民俗学者の柳田國男は『山島民譚集』などの中で峠や坂の呼び名について考察し、地域によって「たわ」「乗越」など様々な呼称があることを指摘している。峠は単なる地形上の頂点ではなく、ある土地からある土地へ移る際の節目として、古くから特別な意味を与えられてきた場所だったと考えられている。

旅人にとって峠は、それまで歩いてきた道の疲れが一気に押し寄せる場所であり、同時に見知らぬ土地への入り口でもあった。山道を上りきったところで初めて向こう側の景色が視界に入るという地形的な特徴も、峠を「これから先は別の世界」と感じさせる一因になったと考えられている。

峠は「二つの世界」がせめぎ合う場所

峠が特別視されてきた理由の一つに、そこが行政区分や生活圏の境目にあたることが多い、という地理的な事情がある。柳田國男は峠の茶屋を「二つの平地の文化が半ば争い半ば融け合う場所」と表現したと伝えられており、峠は異なる共同体の文化が接触する結節点として捉えられてきた。国と国、郡と郡、村と村の境界がしばしば峠の頂に置かれてきたのも、そこが自然の地形として両側を最も明確に区切る場所だったためだと考えられる。

こうした「境」としての性格は、単に地図上の境界線という以上の意味を持っていたとされる。民俗学の分野では、山の奥や深い森、水辺、洞穴などとともに、峠のような見通しの悪い場所は、日常の生活圏(此方)と、それとは異質な領域(彼方)とが接する場所と捉えられてきたと指摘されている。霧が立ちやすく視界が閉ざされる峠道は、そうした「境」の感覚を強める条件の一つだったのだろう。

道祖神・塞の神という境界の守り神

峠や村境、三叉路などに石碑や石像の形で祀られてきた道祖神は、疫病や災いをもたらす存在が村の内側に入り込むのを防ぐ、境界の守護神として信仰されてきたと伝わる。地域によっては「塞の神(さえのかみ)」と呼ばれ、名前の通り「塞ぐ」ことに由来するとする説がある。道祖神は縁結びや夫婦円満の神としても親しまれてきた一方で、旅の安全を祈願する対象でもあり、峠を越える者は道祖神に手を合わせてから山道に踏み入ったと伝えられている。

柳田國男は明治43年の著作『石神問答』で、道祖神や塞の神をめぐる多様な呼称や信仰の分布を、書簡形式の考察としてまとめている。長野・山梨・新潟など中部地方を中心に濃密に分布し、関西以西では希薄になるという地域差も指摘されており、峠道に神を祀るという行為そのものが、そこを「気を付けて越えるべき場所」とみなす感覚と結びついていたと考えられる。峠に神を祀ったのは、そこが平穏な道ではなく、注意を払うべき難所だったからだと言えるだろう。

近代化がもたらした「もう一つの峠」・隧道

峠道の危険や不便を解消する手段として、明治以降に本格化したのが山を貫くトンネル(隧道)の開削である。日本人の技術者だけによる最初の山岳鉄道トンネルとされる逢坂山トンネル(京都・大津間、明治13年完成)は、鉱山の坑夫たちの技術を応用して掘られたと伝わっており、江戸時代以前から発達していた鉱山掘削の技術が、鉄道トンネル建設の初期段階を支えたと考えられている。

道路トンネルの分野では、伊豆の旧天城トンネル(天城山隧道)が代表例として知られる。明治33年に着工し、明治38年(1905年)に完成したこのトンネルは、アーチや側面まですべて切石で組んだ、日本初期の石造道路トンネルとして知られ、平成13年には道路トンネルとして初めて国の重要文化財に指定されている。完成までの5年間に工事関係者に犠牲が出たことも伝えられており、当時の掘削工事がいかに命がけの作業であったかを物語っている。

鉄道トンネルの分野で難工事として名高いのが、群馬と新潟の県境、上越線の清水トンネルである。大正11年に着工し、昭和6年に完成するまで9年を要し、その間に大量の出水や「岩ハネ」と呼ばれる岩盤の剥離現象に苦しめられ、殉職者と伝えられる犠牲者数十名を出したとされる。開通時には日本最長の鉄道トンネルとなり、県境という地理的な峠の代わりを果たす存在になった。峠を越える代わりにトンネルを通ることが当たり前になった背景には、こうした多くの犠牲を伴う難工事の歴史が積み重なっている。

境界としてのトンネル、難工事の記憶

峠が「境」として特別視されてきた土地の記憶は、その峠の下や近くに掘られたトンネルにも、ある意味で引き継がれたと見ることができる。もともと峠自体が異界との境とされていた場所に穴を開けて通り抜けるという行為は、人が手を加えて「境」を貫通させる行為でもあった。

加えて、清水トンネルや旧天城トンネルの例のように、実際に多くの労働者が事故や事故に近い状況で命を落としたという歴史的事実が、その土地に伝わる語りに重なっていったとも考えられる。難工事で亡くなった人々を悼む慰霊碑や供養塔が建てられているトンネルは少なくなく、そうした場所の存在が、後世の人々にとってその隧道を「何かが伝わる場所」として意識させる一因になったとされる。

もっとも、こうした慰霊碑の存在は、過去の犠牲を偲び安全を祈るという、峠に道祖神を祀ってきた営みと本質的には地続きのものだとも言える。境を越える場所に祈りの対象を置くという行為そのものが、峠の時代からトンネルの時代へと形を変えながら続いてきたと見ることもできるだろう。

科学・合理の視点から見るトンネルと峠の怖さ

トンネルや峠で語られる不思議な体験には、環境や人間の知覚特性から説明できる要素も少なくないとされる。トンネル内部は暗く閉ざされた空間であり、視界の制限された環境で人が警戒心を強めやすいことは、心理学的にもよく知られた反応である。また、トンネル内は硬い壁面に囲まれているため音が複雑に反射しやすく、風の音や水滴の音、自分自身の足音までも本来とは違って聞こえることがあり、これが「誰かの足音」や「声」のように感じられる一因になり得ると考えられている。閉ざされた通路の先が見通せないことで方向感覚が乱れやすくなる点も、不安を増幅させる要素として挙げられる。

峠道については、山間部特有の気象条件が関係しているとされる。谷間や山肌では日中と夜間の気温差が大きくなりやすく、これによって霧が発生しやすい環境が生まれる。視界が急に悪くなる峠道の運転は、平坦な直線道路での長時間運転と同様に、単調な景色の連続によって「ハイウェイヒプノーシス(高速道路催眠現象)」と呼ばれる意識の低下状態を招きやすいことも指摘されている。この状態では、注意力の低下とともに実際には存在しないものが見えたように感じられることがあるとされ、峠道での目撃談の一部は、こうした運転時の生理的な状態と関連している可能性がある。