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臼杵市の心霊スポット

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臼杵市の人気スポット TOP2

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六ヶ迫トンネル(六ヶ迫隧道)

大分県臼杵市の山中にある六ヶ迫トンネル(六ヶ迫隧道)は、1963年(昭和38年)に竣工した全長169メートル、幅6.5メートルの素掘りのトンネルで、旧大分県道205号の一部として整備された。かつては峠を越える唯一の道として利用されたが、臼杵坂ノ市有料道路の開通とその後の無料化に伴い通行量は大きく減少し、現在は市道として残っている。照明設備がなく内壁は素掘りのままで水滴が絶えず落ち、日中でも薄暗く夜間は完全な暗闇になる。 このトンネルにまつわる噂として知られるのは、深夜2時頃に全身白い服を着た女性とすれ違うというもので、通り過ぎた後にバックミラーで確認すると姿が消えているという内容である。ほかにも、トンネル内で子どもの声のようなものを聞いた、通過後の車の窓やボディに小さな手形が付いていた、後日金縛りに遭い耳元で子どもの声を聞いたといった体験が複数の記事で紹介されている。 背景として一部の記事で語られているのが、1938年(昭和13年)10月16日にこの地で推定55歳の男性の白骨遺体が発見され官報に記録されたという説である。ただしこの記録の存在を裏付ける一次資料は確認できておらず、紹介記事の中にも信頼できる出典が見当たらないと指摘するものがある。また、トンネル自体の竣工は1963年であり、仮にこの逸話が事実であっても遺体発見時にはこの構造物はまだ存在しなかったことになる。

隧道・トンネル
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大分臼杵磨崖仏

大分県臼杵市の深田地区に残る臼杵磨崖仏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、阿蘇火砕流由来の凝灰岩の崖面に彫り出された磨崖仏群である。古園石仏、山王山石仏、ホキ石仏第一・第二群の4つの石仏群からなり、全61躯が今日まで伝わっている。彫刻はいずれも高肉彫の手法で施され、当時の藍染めなどの彩色が一部に認められる。 造営の経緯を記す同時代史料は残されていないが、地元伝承として真名野長者が亡き娘の菩提を弔うため石工に彫らせたという伝説が古くから語り継がれてきた。豊後地方に数多く所在する磨崖仏の中でも最大規模にして最高の芸術的完成度を示すもので、1962年に重要文化財、1995年に磨崖仏としては日本初、彫刻としては九州初の国宝に指定された。平安時代の浄土信仰が地方領主や有力豪族によって篤く信奉されていた時代背景が、こうした大規模な造営を可能にしたと考えられている。

神域・霊場

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六ヶ迫トンネル(六ヶ迫隧道)

大分県臼杵市の山中にある六ヶ迫トンネル(六ヶ迫隧道)は、1963年(昭和38年)に竣工した全長169メートル、幅6.5メートルの素掘りのトンネルで、旧大分県道205号の一部として整備された。かつては峠を越える唯一の道として利用されたが、臼杵坂ノ市有料道路の開通とその後の無料化に伴い通行量は大きく減少し、現在は市道として残っている。照明設備がなく内壁は素掘りのままで水滴が絶えず落ち、日中でも薄暗く夜間は完全な暗闇になる。 このトンネルにまつわる噂として知られるのは、深夜2時頃に全身白い服を着た女性とすれ違うというもので、通り過ぎた後にバックミラーで確認すると姿が消えているという内容である。ほかにも、トンネル内で子どもの声のようなものを聞いた、通過後の車の窓やボディに小さな手形が付いていた、後日金縛りに遭い耳元で子どもの声を聞いたといった体験が複数の記事で紹介されている。 背景として一部の記事で語られているのが、1938年(昭和13年)10月16日にこの地で推定55歳の男性の白骨遺体が発見され官報に記録されたという説である。ただしこの記録の存在を裏付ける一次資料は確認できておらず、紹介記事の中にも信頼できる出典が見当たらないと指摘するものがある。また、トンネル自体の竣工は1963年であり、仮にこの逸話が事実であっても遺体発見時にはこの構造物はまだ存在しなかったことになる。

大分臼杵磨崖仏
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大分臼杵磨崖仏

大分県臼杵市の深田地区に残る臼杵磨崖仏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、阿蘇火砕流由来の凝灰岩の崖面に彫り出された磨崖仏群である。古園石仏、山王山石仏、ホキ石仏第一・第二群の4つの石仏群からなり、全61躯が今日まで伝わっている。彫刻はいずれも高肉彫の手法で施され、当時の藍染めなどの彩色が一部に認められる。 造営の経緯を記す同時代史料は残されていないが、地元伝承として真名野長者が亡き娘の菩提を弔うため石工に彫らせたという伝説が古くから語り継がれてきた。豊後地方に数多く所在する磨崖仏の中でも最大規模にして最高の芸術的完成度を示すもので、1962年に重要文化財、1995年に磨崖仏としては日本初、彫刻としては九州初の国宝に指定された。平安時代の浄土信仰が地方領主や有力豪族によって篤く信奉されていた時代背景が、こうした大規模な造営を可能にしたと考えられている。