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港区の心霊スポット

6 スポット3 カテゴリ

港区の人気スポット TOP6

1

東京タワー

東京タワーは1958年、東京都港区芝公園に完成した高さ333メートルの総合電波塔である。敷地は江戸時代に徳川将軍家の菩提寺・増上寺が有した広大な境内の一部で、周辺には寺院の墓地も存在していたとされる。この経緯から、四本の主柱のうち一本が旧墓地の跡地にかかっているという噂が古くから流布している。また、建設に使われた鋼材の一部には朝鮮戦争で使用された戦車の装甲がリサイクルされたという逸話が伝わっており、鋼材自体の出自は当時の資料や報道でも言及される歴史的経緯だが、これが心霊現象と結び付けられている点は都市伝説の域を出ない。心霊現象としては、タワー内部の非常階段を駆け下りる女性の霊や、白装束をまとった少女の霊が目撃されたという噂が複数の心霊系サイトで紹介されている。展望台やタワーを背景に撮影した写真に人影のようなものが写り込むという話も広く知られており、東京を象徴する観光名所でありながら、こうした怪異譚が絶えず語られる場所として知られている。

その他
2

青山霊園

青山霊園は1874年に東京都港区南青山に開設された公営墓地。明治以来の政治家・学者・文化人が眠る場所として知られ、大久保利通、後藤新平、志賀直哉、忠犬ハチ公の飼い主である上野英三郎博士らが埋葬されている。広大な敷地には桜並木が広がり、春季は都内の名所となる。昼間は都市公園として散策地に機能している。 夜間についての言及は散発的に報告されており、着物姿の人影の目撃や、墓石の間の小さな影、深夜の参道での足音といった体験談がネット上に存在する。ただし、これら現象の実在性を確認する公的な記録は存在しない。墓地は夜間の訪問が管理上・礼儀上制限されている。

神域・霊場
3

乃木神社・旧乃木邸

東京都港区赤坂の乃木神社は、1912年9月13日に明治天皇の大葬儀当日に自刃した陸軍大将・乃木希典と妻・静子を祀る神社である。乃木希典は日清・日露戦争の指揮官として知られ、旅順攻囲戦や学習院での教育職を通じて明治期の国家に貢献した。その死は国民に大きな感銘を与え、1913年に崇敬者により中央乃木会が組織され、翌1923年11月1日に正式な神社として鎮座した。 隣接する旧乃木邸は明治35年築の和洋折衷建築で、乃木夫妻の遺言により東京市に寄贈され、現在は乃木公園として整備されている。建築家・大江新太郎の設計による当該建築は、明治期の住宅様式を伝える貴重な遺構として、有形文化財に指定されている。邸内は通常非公開だが、9月中旬(命日前後)や特定の期間に限定公開される。戦中の空襲で本殿が焼失した後も、1962年に全国の支持者の寄付により社殿が復興された。

神域・霊場
4

増上寺・徳川家霊廟

増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、1393年に開山された。江戸時代に入ると、2代将軍秀忠をはじめ計6名の徳川将軍とその親族38人が埋葬される菩提寺として大きな勢力を持つようになった。当時の霊廟群は杉の古木に囲まれた壮麗な建造物として、日光東照宮に匹敵する規模を誇り、戦前は国宝指定を受けていた。1945年の戦災により、3月と5月の空襲で北廟68棟、南廟28棟のほぼすべてが焼失した。戦後の1958年には発掘調査が行われ、遺骨は桐ヶ谷斎場で改葬された。現在の墓所は安国殿の裏手に再構成されており、焼け残った宝塔8基と合祀塔で現在38人が祀られている。一部の霊廟の門は重要文化財として保存され、周辺ホテルに移築されたものもある。戦前後の空間的・建築的な落差と、江戸から現代へ続く弔いの継続が、この場所の感覚的特質をなしている。

神域・霊場
5

泉岳寺

東京都港区高輪の泉岳寺は、1612年に徳川家康が創建した曹洞宗の古刹であり、江戸三大寺の一つとして知られている。1701年、赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介に刃傷事件を起こし即日切腹を命じられ、藩が取り潰しとなった。これに対し翌1702年12月、大石内蔵助を中心とする赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入り、仇敵を討った。その後、彼らは吉良の首を泉岳寺の前に供えて浅野内匠頭の墓前で主君への報告を行い、自らも切腹に処された。寺には赤穂浪士と浅野内匠頭のほか、討ち入り前に自害した萱野重実の供養塔を含む計48基の墓が現存する。この事件は江戸社会に深い精神的影響を与え、後に歌舞伎や人形浄瑠璃の題材として多く取り上げられ、忠義と武家倫理の象徴として長く伝承されてきた。現在も命日の近い季節に多くの参拝者が赤穂義士への弔意を示すため訪れる。

神域・霊場
6

幽霊坂(三田の幽霊坂)

東京都港区三田四丁目、聖坂と交差する坂道が「幽霊坂」と呼ばれている。寛永十二年(一六三五年)の江戸城拡張に伴い八丁堀から移された寺院群が坂の両側に並び、玉鳳寺や仙翁寺、随応寺、忍願寺などが今も沿道に残る、通称「三田寺町」の一角である。坂名は、昼間でも幽霊が出そうなほど暗く寂しい場所だったことに由来するとされ、字面を避けて「有礼坂」と表記された記録もある。関東大震災や東京大空襲の被害を免れたため、寺と墓地が連なる江戸期以来の景観が今日まで保たれている。 坂にまつわる記録として知られるのが、一九二一年(大正十年)七月二十六日付の読売新聞朝刊が報じた「幽霊坂の三本足お化け」である。坂に三本足の化け物が出るという噂が広まり、連日見物人が押しかける騒ぎとなり警察が出動、正体を調べたところ、十九歳の少年が白い浴衣姿で寺の山門の上に上り、通行人を脅かしていたことが判明し補導された。この一件以降も、白い着物姿の人影が坂を歩いていたという話や、坂を通ると冷気や耳鳴りを覚えるという声が伝えられている。

路上・交差点

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東京タワー
その他·東京都 港区

東京タワー

東京タワーは1958年、東京都港区芝公園に完成した高さ333メートルの総合電波塔である。敷地は江戸時代に徳川将軍家の菩提寺・増上寺が有した広大な境内の一部で、周辺には寺院の墓地も存在していたとされる。この経緯から、四本の主柱のうち一本が旧墓地の跡地にかかっているという噂が古くから流布している。また、建設に使われた鋼材の一部には朝鮮戦争で使用された戦車の装甲がリサイクルされたという逸話が伝わっており、鋼材自体の出自は当時の資料や報道でも言及される歴史的経緯だが、これが心霊現象と結び付けられている点は都市伝説の域を出ない。心霊現象としては、タワー内部の非常階段を駆け下りる女性の霊や、白装束をまとった少女の霊が目撃されたという噂が複数の心霊系サイトで紹介されている。展望台やタワーを背景に撮影した写真に人影のようなものが写り込むという話も広く知られており、東京を象徴する観光名所でありながら、こうした怪異譚が絶えず語られる場所として知られている。

青山霊園
神域・霊場·東京都 港区

青山霊園

青山霊園は1874年に東京都港区南青山に開設された公営墓地。明治以来の政治家・学者・文化人が眠る場所として知られ、大久保利通、後藤新平、志賀直哉、忠犬ハチ公の飼い主である上野英三郎博士らが埋葬されている。広大な敷地には桜並木が広がり、春季は都内の名所となる。昼間は都市公園として散策地に機能している。 夜間についての言及は散発的に報告されており、着物姿の人影の目撃や、墓石の間の小さな影、深夜の参道での足音といった体験談がネット上に存在する。ただし、これら現象の実在性を確認する公的な記録は存在しない。墓地は夜間の訪問が管理上・礼儀上制限されている。

乃木神社・旧乃木邸
神域・霊場·東京都 港区

乃木神社・旧乃木邸

東京都港区赤坂の乃木神社は、1912年9月13日に明治天皇の大葬儀当日に自刃した陸軍大将・乃木希典と妻・静子を祀る神社である。乃木希典は日清・日露戦争の指揮官として知られ、旅順攻囲戦や学習院での教育職を通じて明治期の国家に貢献した。その死は国民に大きな感銘を与え、1913年に崇敬者により中央乃木会が組織され、翌1923年11月1日に正式な神社として鎮座した。 隣接する旧乃木邸は明治35年築の和洋折衷建築で、乃木夫妻の遺言により東京市に寄贈され、現在は乃木公園として整備されている。建築家・大江新太郎の設計による当該建築は、明治期の住宅様式を伝える貴重な遺構として、有形文化財に指定されている。邸内は通常非公開だが、9月中旬(命日前後)や特定の期間に限定公開される。戦中の空襲で本殿が焼失した後も、1962年に全国の支持者の寄付により社殿が復興された。

増上寺・徳川家霊廟
神域・霊場·東京都 港区

増上寺・徳川家霊廟

増上寺は浄土宗の七大本山の一つで、1393年に開山された。江戸時代に入ると、2代将軍秀忠をはじめ計6名の徳川将軍とその親族38人が埋葬される菩提寺として大きな勢力を持つようになった。当時の霊廟群は杉の古木に囲まれた壮麗な建造物として、日光東照宮に匹敵する規模を誇り、戦前は国宝指定を受けていた。1945年の戦災により、3月と5月の空襲で北廟68棟、南廟28棟のほぼすべてが焼失した。戦後の1958年には発掘調査が行われ、遺骨は桐ヶ谷斎場で改葬された。現在の墓所は安国殿の裏手に再構成されており、焼け残った宝塔8基と合祀塔で現在38人が祀られている。一部の霊廟の門は重要文化財として保存され、周辺ホテルに移築されたものもある。戦前後の空間的・建築的な落差と、江戸から現代へ続く弔いの継続が、この場所の感覚的特質をなしている。

泉岳寺
神域・霊場·東京都 港区

泉岳寺

東京都港区高輪の泉岳寺は、1612年に徳川家康が創建した曹洞宗の古刹であり、江戸三大寺の一つとして知られている。1701年、赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城内で吉良上野介に刃傷事件を起こし即日切腹を命じられ、藩が取り潰しとなった。これに対し翌1702年12月、大石内蔵助を中心とする赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入り、仇敵を討った。その後、彼らは吉良の首を泉岳寺の前に供えて浅野内匠頭の墓前で主君への報告を行い、自らも切腹に処された。寺には赤穂浪士と浅野内匠頭のほか、討ち入り前に自害した萱野重実の供養塔を含む計48基の墓が現存する。この事件は江戸社会に深い精神的影響を与え、後に歌舞伎や人形浄瑠璃の題材として多く取り上げられ、忠義と武家倫理の象徴として長く伝承されてきた。現在も命日の近い季節に多くの参拝者が赤穂義士への弔意を示すため訪れる。

幽霊坂(三田の幽霊坂)
路上・交差点·東京都 港区

幽霊坂(三田の幽霊坂)

東京都港区三田四丁目、聖坂と交差する坂道が「幽霊坂」と呼ばれている。寛永十二年(一六三五年)の江戸城拡張に伴い八丁堀から移された寺院群が坂の両側に並び、玉鳳寺や仙翁寺、随応寺、忍願寺などが今も沿道に残る、通称「三田寺町」の一角である。坂名は、昼間でも幽霊が出そうなほど暗く寂しい場所だったことに由来するとされ、字面を避けて「有礼坂」と表記された記録もある。関東大震災や東京大空襲の被害を免れたため、寺と墓地が連なる江戸期以来の景観が今日まで保たれている。 坂にまつわる記録として知られるのが、一九二一年(大正十年)七月二十六日付の読売新聞朝刊が報じた「幽霊坂の三本足お化け」である。坂に三本足の化け物が出るという噂が広まり、連日見物人が押しかける騒ぎとなり警察が出動、正体を調べたところ、十九歳の少年が白い浴衣姿で寺の山門の上に上り、通行人を脅かしていたことが判明し補導された。この一件以降も、白い着物姿の人影が坂を歩いていたという話や、坂を通ると冷気や耳鳴りを覚えるという声が伝えられている。