東京都路上・交差点系 心霊スポット

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東京都の心霊文化

千年の都を抱える東京都は、徳川幕府の城下町として栄え、その地層に膨大な怨念を堆積させてきた。大手町に祀られる平将門の首塚、新宿の四谷怪談お岩稲荷、北条氏照の悲劇を伝える八王子城跡、戦中戦後の闇を吸い込んだ千駄ヶ谷トンネル、薬王院旧参道——平安の怨霊から空襲の犠牲者までが、煌々と輝く高層ビル群の足元で今も静かに息をしている。

路上・交差点という場所

事故多発地点や行き止まりの路地は、近代以降の急死が集積する新しい怪異の温床である。古くは首塚・処刑場・辻斬りの場として血を吸った土地が、舗装の下で記憶を失わぬまま残り、車のライトが横切る一瞬に、見えぬ何かを照らし出す。

路上・交差点·東京都 中野区

野方第3号踏切

野方第3号踏切は、東京都中野区の西武新宿線野方駅近くに位置する踏切である。この踏切を含む野方駅と都立家政駅の間の区間は、開かずの踏切として知られる一方、人身事故が繰り返し発生する区間としても知られ、実際に列車と人が衝突する事故が複数回報道されている。西武新宿線ではこの区間を含む野方駅~井荻駅間について、踏切を解消するための連続立体交差事業の実施が計画されており、事業化に向けた準備が進められている。 心霊スポットとしては、この踏切で命を絶った人の霊が現れるという話が広く伝わっている。噂によれば、これまでに複数人がこの踏切で自ら命を絶っており、なかには誤って踏切内に入り列車に接触した高齢女性の遺体の一部がしばらく見つからず、後日近隣で発見されたという話も伝わっている。踏切に立つと突然身体が動かなくなる、線路の方を向いて立つ人影を見た数日後に事故が起きたなど、複数の噂が語られている。踏切を渡る際に、理由もなく線路に引き込まれるような感覚を覚えたという声もあり、亡くなった人の霊が関係しているのではないかとも噂される。

絹の道(八王子・鑓水/道了堂跡)
路上・交差点·東京都 八王子市

絹の道(八王子・鑓水/道了堂跡)

東京都八王子市南部の多摩丘陵に残る古道は、幕末から明治にかけて八王子と横浜港を結び、輸出用の生糸を運んだ街道「絹の道」の一部である。養蚕と生糸取引で栄えた鑓水の商人たちが資金を出し合い、明治期にはこの道沿いの大塚山に道了堂が建てられ、周囲に土産物屋が並んで賑わったとされる。だが鉄道網と近代道路の整備によって街道は流通路としての役目を失い、堂も次第にさびれていった。 この道が心霊スポットとして名を知られるようになった背景には、道了堂跡で起きた複数の事件がある。1963年には堂を長く守っていた高齢の堂守が強盗に襲われて命を落とし、1973年には大学教授が教え子の女子学生を殺害し、この一帯に遺体を遺棄する事件が起きた。無人化した堂は1983年の不審火で焼失し、跡地はのちに大塚山公園として整備され、いまは礎石や奉献燈、延命地蔵尊などが残る。 怪異の面では、境内に残る地蔵が「首なし地蔵」と呼ばれ、怪談師の紹介を通じて広く知られるようになった。生糸の街道を行き交った人々の歴史と、跡地に重なった現実の事件の記憶とが結びつく場所として語られることがある。

平将門首塚
路上・交差点·東京都 千代田区

平将門首塚

東京都千代田区大手町1丁目、三井物産本社ビルの北東に約20平方メートルの空地がある。中央に石碑と祠が置かれたこの一画が、平将門の首塚と呼ばれる場所である。日本一の地価を誇るオフィス街の中で、ここだけが千年を超えて開発から取り残されてきた。 将門は10世紀前半に関東で勢力を伸ばし、新皇を称して京の朝廷に反旗をひるがえした武将である。940年(天慶3年)、藤原秀郷と平貞盛の連合軍に討たれ、首は京都に運ばれて晒された。その首が三日後に東国へ向けて飛び去ったという伝承が、各地の将門伝説の起点となっている。神田明神(千代田区外神田)に祀られたほか、武蔵国豊島郡芝崎村と呼ばれていた現在の大手町の地が、首の落ちた場所として伝承された。 1923年の関東大震災で大蔵省仮庁舎が建てられることになり、塚の取り壊しが計画された。工事関係者の事故死や急病が続発したため計画は中止され、塚は保存された。戦後の1940年代後半、進駐軍が同地に駐車場を整備しようとブルドーザーを入れた際にも事故が起きたと伝えられる。これらの逸話は当時の新聞や、戦後に出版された大手町・神田一帯の郷土史の中でも複数の文献に断片的に記録されている。 戦後、塚の管理は地元の保存会と周辺企業によって続けられた。2021年から2年にわたって行われた整備工事の前後にも、関係者が儀礼として神田明神の神職を招き、塚の前で祭儀を行っている。「首塚に背を向けてデスクを置かない」というオフィス街の慣習についてはしばしば紹介されるが、これも厳密に守られているわけではない、と関係者の証言は分かれる。 将門は神田明神の祭神として現在も信仰の対象であり、年に一度の神田祭は東京三大祭のひとつに数えられる。大手町の首塚も観光地として知られ、外国人観光客の姿も多い。怨霊か、地域の英雄か。受け取り方は人によって異なるが、千年を超えて開発から守られてきたこの土地そのものが、日本の都市と歴史の関係を考えるうえで稀有な事例であることは間違いない。

路上・交差点·東京都 品川区

ゆうれい坂(南品川)

品川区南品川五丁目、大井町駅の近くにある坂道。ゼームス坂と仙台坂に挟まれた狭い道で、途中でクランク状に折れ曲がっており見通しが悪い。品川区の公式資料によれば、かつて坂の両側に大きな木々が生い茂り、昼間でも薄暗く、夜間は人通りが絶えて寂しい場所だったことから「ゆうれい坂」の名がついたとされる。負の響きを避けるためか、近年は地元で「ニコニコ坂」という別称で呼ばれることもある。一方、インターネット上の一部の心霊スポット紹介記事では、この名称の由来をかつて起きたとされる連続殺人事件に結びつける説が取り上げられており、霊感が強い人には何かが見えるという噂も伝えられている。坂をモチーフにしたホラー小説「ゼームス坂から幽霊坂」(吉村達也著)も出版されており、地名の持つ不気味な響きが創作の題材にもなっている。

旧陸軍被服廠跡横網町公園
路上・交差点·東京都 墨田区

旧陸軍被服廠跡横網町公園

横網町公園の前身は、1919年に赤羽へ移転した旧陸軍被服廠の跡地です。1923年9月1日の関東大震災で周辺住民が家財を持ち出し、この空き地に避難してきましたが、南から西へと風向きを変えた火災が巨大な炎の竜巻を形成し、この場所だけで約3万8千人が一度に命を失いました。1930年、その地に「震災記念堂」が完成。太平洋戦争後、東京大空襲の犠牲者の遺骨もここに納められ、1951年に「東京都慰霊堂」と改称されました。現在は関東大震災と東京大空襲の犠牲者計約16万3千柱を祀る追悼施設として、毎年9月1日と3月10日に法要が営まれています。園内には復興記念館があり、災害の歴史を伝える資料が展示されています。

幽霊坂(三田の幽霊坂)
路上・交差点·東京都 港区

幽霊坂(三田の幽霊坂)

東京都港区三田四丁目、聖坂と交差する坂道が「幽霊坂」と呼ばれている。寛永十二年(一六三五年)の江戸城拡張に伴い八丁堀から移された寺院群が坂の両側に並び、玉鳳寺や仙翁寺、随応寺、忍願寺などが今も沿道に残る、通称「三田寺町」の一角である。坂名は、昼間でも幽霊が出そうなほど暗く寂しい場所だったことに由来するとされ、字面を避けて「有礼坂」と表記された記録もある。関東大震災や東京大空襲の被害を免れたため、寺と墓地が連なる江戸期以来の景観が今日まで保たれている。 坂にまつわる記録として知られるのが、一九二一年(大正十年)七月二十六日付の読売新聞朝刊が報じた「幽霊坂の三本足お化け」である。坂に三本足の化け物が出るという噂が広まり、連日見物人が押しかける騒ぎとなり警察が出動、正体を調べたところ、十九歳の少年が白い浴衣姿で寺の山門の上に上り、通行人を脅かしていたことが判明し補導された。この一件以降も、白い着物姿の人影が坂を歩いていたという話や、坂を通ると冷気や耳鳴りを覚えるという声が伝えられている。

福生市旧米軍横田基地フェンス沿いの幽霊
路上・交差点·東京都 福生市

福生市旧米軍横田基地フェンス沿いの幽霊

横田基地は1940年に旧日本陸軍によって多摩飛行場として開設され、1945年9月に米軍に接収されました。戦後の復興期、特に朝鮮戦争を経た1950年代から1960年代には、米軍の司令部機能が集約され、基地周辺の国道16号沿いには多くのアメリカンハウスが建設されました。1974年には在日米軍司令部と第5空軍司令部がここに移転し、極東における米空軍の中心施設へと成長しました。 基地とその周辺道路は、戦後を通じて日米の共同運用施設として発展してきた一方で、年間約2万回の離着陸による騒音問題や、1976年以降の航空差し止め訴訟など、地域生活との継続的な緊張関係にあります。フェンス沿いの道路は、基地人事の出入りや物流ルートとして日中は多くの利用がある生活幹線である一方、街灯の乏しい区間では夜間に街路が人気のない状態となります。こうした物理的環境と、基地という特殊な存在がもたらす心理的隔絶感が、当地が心霊スポットとして語られる背景にあると考えられます。

巣鴨プリズン跡地(東池袋中央公園・サンシャインシティ)
路上・交差点·東京都 豊島区

巣鴨プリズン跡地(東池袋中央公園・サンシャインシティ)

東京都豊島区東池袋の一帯には、第二次世界大戦後に連合国軍が戦争犯罪人を収容した巣鴨拘置所、いわゆる巣鴨プリズンが置かれていた。極東国際軍事裁判などの判決を受けた者の刑がこの地で執行され、一九四八年十二月にA級戦犯七名の死刑が、その前後にBC級戦犯五十名あまりの刑が行われたと記録されている。施設は一九七一年に解体され、一九七八年には跡地に超高層のサンシャイン60を核とする複合施設サンシャインシティが開業した。処刑場のあった一角は豊島区立東池袋中央公園として整備され、一九八〇年には園内に「永久平和を願って」と刻まれた碑が建てられて、戦争の犠牲となった人々への慰霊が続けられている。 繁華な商業地の足下に処刑の歴史が重なるこの立地から、当地はしばしば心霊の話題と結びつけて紹介されてきた。公園やその周辺の施設で軍服を思わせる人影を見た、人魂のような光や原因の分からない物音に気づいた、といった話が来訪者から伝えられることがある。戦争と裁きの記憶が色濃く残る土地として、追悼の対象であると同時に、怪異が取り沙汰される場としても語られることがある場所である。

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