沖縄県

那覇市の心霊スポット

4 スポット3 カテゴリ

那覇市の人気スポット TOP4

1

首里城地下壕

沖縄県那覇市首里。世界遺産・首里城の地下30メートル前後、石灰岩の岩盤を貫通して、長さおよそ1,000メートルの地下坑道が網目状に走っている。第32軍司令部壕と呼ばれるこの遺構は、太平洋戦争末期の沖縄戦で、日本陸軍第32軍が司令部として使用した戦時施設である。 第32軍は1944年3月に沖縄諸島の防衛を任務として編成された。司令官は牛島満中将、参謀長は長勇中将。陸軍司令部用の地下壕は、首里城の地下に1944年12月から1945年3月にかけて構築された。掘削には軍の工兵だけでなく、住民、学徒、朝鮮人軍夫など、多様な人々が動員されたことが戦後の調査で確認されている。本壕、第一坑、第二坑、第三坑、第四坑、第五坑の五坑が中央通路から放射状に伸び、内部には司令官室、参謀部、通信室、暗号班、参謀長室、各幕僚部屋、医務室、貯水槽、便所などが配置された。 沖縄戦が始まったのは1945年4月1日。米軍は読谷海岸に上陸し、本島中部を分断して南進した。第32軍は首里防衛戦を約2か月戦った後、5月22日に首里放棄と摩文仁への南部撤退を決定。司令部壕は5月27日の撤退と同時に内部の機密書類が焼却され、出入口の一部が爆破された。撤退後の南部戦線で日米双方に膨大な犠牲が出ることになる。 戦後、壕は閉鎖されたまま放置された。1990年代から沖縄県平和祈念資料館等が継続調査を進め、現在は内部の崩落が進んでいるため一般公開はされていない。沖縄県は「第32軍司令部壕保存・公開検討委員会」を2021年に設置し、安全な公開方法の検討を続けている。一部の坑口は首里城公園内から外観のみ確認できる。 首里城そのものは1945年5月の地上戦で完全に焼失したが、1992年から再建が進められた。2019年10月31日に正殿などが再び焼失する火災があり、再建工事が継続中。首里城公園の公式サイトに修復工事の現況と参観可能エリアの情報が随時掲載されている。

路上・交差点
2

幽霊の消防署

那覇市街地に残る旧消防施設の建物。戦後の沖縄では、1954年に消防組織が本格化し、1959年の桜坂火災(14棟24軒焼失)などを経験する中で、消防能力の強化が急務となった。この火災では、道路の狭さと高台への送水能力の不足が消火活動を大きく制約した。1962年12月15日に那覇市消防局が正式に設立され、その後1972年の本土復帰に伴う行政体制の変更の中で、消防施設の統合・移転・改編が進められた。この建物は、そうした施設の新築や機能移転に伴って役目を終えたものと考えられる。戦後の那覇市において、火災対応と消防組織の発展は市民生活の安全確保と直結した重要な事柄であり、この建物の存在は、沖縄が経験した急速な都市化と社会基盤整備の過程を物質的に示している。 敷地内への無断立入は固く禁じられています。建物は民間または行政の所有であり、訪れる場合は日中に公道から外観を眺める範囲にとどめてください。

路上・交差点
3

首里城公園(地下壕跡)

首里城公園の地下に広がる第32軍司令部壕は、太平洋戦争末期に沖縄戦の指揮中枢として機能した地下空間です。1944年12月、十・十空襲で消失した司令部の機能を移すため、首里城地下を東西に貫く形で急ピッチで掘削されました。総延長1,000メートルと推定される壕には、複数の坑口と各室が設けられ、1945年3月から約2ヶ月間、1,000人超の将兵が収容されました。沖縄戦の激化に伴い、1945年5月25日から米軍艦による砲撃を受け、27日の首里防衛線崩壊とともに司令部は南部への撤退を決定します。撤退時に壕内の各所が爆破されたことで、現在5つあったとされる坑口のうち確実に位置が確認できるのは数か所のみです。壕内は土質の脆弱性により陥没の危険を伴うため、現在も一般公開されていません。沖縄県は保存と公開の検討を進める一方で、安全管理の課題から慎重な対応が続いており、戦後長く立ち入りが制限されてきた場所です。

公園・城址
4

旧沖縄海軍壕

沖縄県那覇市の小禄飛行場(現在の那覇空港)周辺の丘陵地に残る旧海軍司令部壕は、1944年8月より日本海軍設営隊によって人力で掘削された地下要塞である。10月10日の那覇空襲後に急ピッチで工事が進められ、同年12月までに総延長約450メートルの坑道と司令官室、作戦室、暗号室など数十の機能室が完成した。沖縄戦が本格化した1945年4月以降、約4,000名の兵員が壕内に集中し、激戦の中で多くが命を落とした。6月13日、海軍沖縄方面根拠地隊司令官・大田實中将が壕内で自決し、組織的な海軍の戦闘は終焉を迎えた。壕内の壁面には砲撃痕が生々しく残り、1970年の復元工事を経て、現在は平和学習と鎮魂の施設として一般公開されている。年間を通じて修学旅行客や遺族、平和学習者が訪れ、戦争の過酷さと平和の大切さを学ぶ場となっている。

水辺

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首里城地下壕
路上・交差点·沖縄県 那覇市

首里城地下壕

沖縄県那覇市首里。世界遺産・首里城の地下30メートル前後、石灰岩の岩盤を貫通して、長さおよそ1,000メートルの地下坑道が網目状に走っている。第32軍司令部壕と呼ばれるこの遺構は、太平洋戦争末期の沖縄戦で、日本陸軍第32軍が司令部として使用した戦時施設である。 第32軍は1944年3月に沖縄諸島の防衛を任務として編成された。司令官は牛島満中将、参謀長は長勇中将。陸軍司令部用の地下壕は、首里城の地下に1944年12月から1945年3月にかけて構築された。掘削には軍の工兵だけでなく、住民、学徒、朝鮮人軍夫など、多様な人々が動員されたことが戦後の調査で確認されている。本壕、第一坑、第二坑、第三坑、第四坑、第五坑の五坑が中央通路から放射状に伸び、内部には司令官室、参謀部、通信室、暗号班、参謀長室、各幕僚部屋、医務室、貯水槽、便所などが配置された。 沖縄戦が始まったのは1945年4月1日。米軍は読谷海岸に上陸し、本島中部を分断して南進した。第32軍は首里防衛戦を約2か月戦った後、5月22日に首里放棄と摩文仁への南部撤退を決定。司令部壕は5月27日の撤退と同時に内部の機密書類が焼却され、出入口の一部が爆破された。撤退後の南部戦線で日米双方に膨大な犠牲が出ることになる。 戦後、壕は閉鎖されたまま放置された。1990年代から沖縄県平和祈念資料館等が継続調査を進め、現在は内部の崩落が進んでいるため一般公開はされていない。沖縄県は「第32軍司令部壕保存・公開検討委員会」を2021年に設置し、安全な公開方法の検討を続けている。一部の坑口は首里城公園内から外観のみ確認できる。 首里城そのものは1945年5月の地上戦で完全に焼失したが、1992年から再建が進められた。2019年10月31日に正殿などが再び焼失する火災があり、再建工事が継続中。首里城公園の公式サイトに修復工事の現況と参観可能エリアの情報が随時掲載されている。

幽霊の消防署
路上・交差点·沖縄県 那覇市

幽霊の消防署

那覇市街地に残る旧消防施設の建物。戦後の沖縄では、1954年に消防組織が本格化し、1959年の桜坂火災(14棟24軒焼失)などを経験する中で、消防能力の強化が急務となった。この火災では、道路の狭さと高台への送水能力の不足が消火活動を大きく制約した。1962年12月15日に那覇市消防局が正式に設立され、その後1972年の本土復帰に伴う行政体制の変更の中で、消防施設の統合・移転・改編が進められた。この建物は、そうした施設の新築や機能移転に伴って役目を終えたものと考えられる。戦後の那覇市において、火災対応と消防組織の発展は市民生活の安全確保と直結した重要な事柄であり、この建物の存在は、沖縄が経験した急速な都市化と社会基盤整備の過程を物質的に示している。 敷地内への無断立入は固く禁じられています。建物は民間または行政の所有であり、訪れる場合は日中に公道から外観を眺める範囲にとどめてください。

首里城公園(地下壕跡)
公園・城址·沖縄県 那覇市

首里城公園(地下壕跡)

首里城公園の地下に広がる第32軍司令部壕は、太平洋戦争末期に沖縄戦の指揮中枢として機能した地下空間です。1944年12月、十・十空襲で消失した司令部の機能を移すため、首里城地下を東西に貫く形で急ピッチで掘削されました。総延長1,000メートルと推定される壕には、複数の坑口と各室が設けられ、1945年3月から約2ヶ月間、1,000人超の将兵が収容されました。沖縄戦の激化に伴い、1945年5月25日から米軍艦による砲撃を受け、27日の首里防衛線崩壊とともに司令部は南部への撤退を決定します。撤退時に壕内の各所が爆破されたことで、現在5つあったとされる坑口のうち確実に位置が確認できるのは数か所のみです。壕内は土質の脆弱性により陥没の危険を伴うため、現在も一般公開されていません。沖縄県は保存と公開の検討を進める一方で、安全管理の課題から慎重な対応が続いており、戦後長く立ち入りが制限されてきた場所です。

旧沖縄海軍壕
水辺·沖縄県 那覇市

旧沖縄海軍壕

沖縄県那覇市の小禄飛行場(現在の那覇空港)周辺の丘陵地に残る旧海軍司令部壕は、1944年8月より日本海軍設営隊によって人力で掘削された地下要塞である。10月10日の那覇空襲後に急ピッチで工事が進められ、同年12月までに総延長約450メートルの坑道と司令官室、作戦室、暗号室など数十の機能室が完成した。沖縄戦が本格化した1945年4月以降、約4,000名の兵員が壕内に集中し、激戦の中で多くが命を落とした。6月13日、海軍沖縄方面根拠地隊司令官・大田實中将が壕内で自決し、組織的な海軍の戦闘は終焉を迎えた。壕内の壁面には砲撃痕が生々しく残り、1970年の復元工事を経て、現在は平和学習と鎮魂の施設として一般公開されている。年間を通じて修学旅行客や遺族、平和学習者が訪れ、戦争の過酷さと平和の大切さを学ぶ場となっている。