
耶馬渓・青の洞門
大分県中津市の耶馬渓は、山国川の刻んだ奇岩と渓谷が織りなす九州屈指の景勝地として知られ、競秀峰の絶壁直下を抜ける青の洞門は、江戸期に禅海和尚が約三十年を費やして槌と鑿で岩を穿ったと伝わる、日本でも稀有な手彫りの隧道である。難所での転落事故が絶えなかった往時、一人の僧の悲願が多くの旅人の命を救った地として、近代以降は文学や紀行、教科書のなかでも繰り返し名が挙がってきた土地でもある。 寄せられる体験談で繰り返し語られるのは、現存する手彫り区間を一人で歩いていると、岩肌の奥のほうから槌で岩を打つ短いかすかな音が、断続的に届いてくる、というものである。隧道内で背後から下駄や草鞋のような足音が次第に近づいてきたものの振り向くと消えていた、湿った石壁の表面に一瞬だけ袈裟をまとった人影の輪郭が薄く映ったように見えた、と語る訪問者もいる。 地元では、難所で命を落とされた多くの旅人と、生涯を槌に捧げた僧の祈りを共に受け継ぐ場所として、洞門は寺社や地区住民の手で静かに大切に守られてきた。怪異の語りも、信仰と労苦への深い敬意のなかで、煽情を抑えて穏やかに伝えられている土地である。 洞門内は照明が限られ、川岸の遊歩道は雨後に滑りやすく、転倒や落石、増水時の冠水の危険があるほか、観光車両の通行も多い。心霊目的の深夜立ち入りや車両の停滞は厳に控え、訪れる際は日中に安全な歩道から景観を味わい、岩を穿ち続けた人々の祈りに静かに手を合わせること。

