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三浦市の心霊スポット

3 スポット3 カテゴリ

三浦市の人気スポット TOP3

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城ヶ島公園

三浦半島南端に位置する城ヶ島公園は、江戸時代後期の1808年に浦賀奉行が外国船を監視するために築いた砲台を起源とし、関東大震災後の1923年以降は東京湾要塞の一部として本格的な砲台が整備された。1926年には廃艦となった戦艦「安芸」の砲塔が転用され、地下には火薬庫や通路が構築された。1945年の終戦まで軍事施設として使われ、1958年に神奈川県立公園として開園した現在も、園内には砲台跡や地下壕の入口が残されている。この歴史を持つ公園では、着物姿の女性が並木道や展望台付近から海を見つめている姿が目撃されるという噂がある。声をかけずに後を追うと崖の方向へ導かれるという話や、軍人らしき人影が敷地内を歩く姿を見たとする報告も伝わる。夜間には周囲に人の姿がないにもかかわらず口笛や歌声のような音、足音が聞こえたとする体験も複数のサイトで紹介されている。

公園・城址
2

油壺

神奈川県三浦市三崎町小網代、三浦半島南端の入江は、油壺と呼ばれている。隣接する小網代湾と共に天然の良港を形作り、ヨットハーバーや東京大学三崎臨海実験所が周囲に整備されている。 地名「油壺」の由来は、永正13年(1516年)に滅亡した三浦氏の故事に基づく。鎌倉幕府草創以来400年続いた相模の名族・三浦氏は、新井城(現在の油壺・諸磯一帯)に本拠を置き、関東への進出を目論む小田原・伊勢宗瑞(北条早雲)と対峙していた。3年に及ぶ籠城戦の末、援軍は到着せず、最後の当主・三浦道寸義同とその子荒次郎義意以下諸将が討死または自刃して落城した。 この落城の様子を伝える江戸期の地誌『新編相模国風土記稿』『新編武蔵風土記稿』『三浦三崎志』などには、城兵が崖から入江に身を投じたため海面に流れた血が油のように凪いだことから「油壺」と呼ばれるようになった、という記述がある。新井城の遺構は東京大学三崎臨海実験所と京急油壺マリンパーク跡地の周辺に散在し、土塁や堀の一部が現在も確認できる。 京急油壺マリンパークは2021年に閉園した。跡地は現在再開発計画が進行している。油壺湾沿いには遊歩道と観光案内板が整備され、油壺の入江と新井城跡をめぐる散策コースを歩くことができる。

路上・交差点
3

城ヶ島灯台

三浦市三崎町の城ヶ島西端に立つ城ヶ島灯台は、江戸時代の慶安元年頃に三崎奉行安部次郎兵衛が設けたのろし台の跡地に、1870年、日本で五番目の洋式灯台として初点灯した。設計はフランス人技師レオンス・ヴェルニーによるもので、1923年の関東大震災で倒壊した後、1926年に現在の白いコンクリート造として再建されている。周辺の城ヶ島公園は太平洋の荒波が削った海蝕崖や洞穴が連なる地形で、戦前は旧日本軍の砲台が置かれていた場所でもある。この一帯では、灯台近くの遊歩道や木立の中で和装姿の女性の姿が目撃され、海を見つめて立っていたかと思うと消えるといった話が伝わる。口笛や歌声、足音のような音が聞こえたという報告もあり、撮影した写真に何か写り込むとの噂も見られる。こうした目撃談の多くは夜間の出来事として語られている。

その他

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城ヶ島公園
公園・城址·神奈川県 三浦市

城ヶ島公園

三浦半島南端に位置する城ヶ島公園は、江戸時代後期の1808年に浦賀奉行が外国船を監視するために築いた砲台を起源とし、関東大震災後の1923年以降は東京湾要塞の一部として本格的な砲台が整備された。1926年には廃艦となった戦艦「安芸」の砲塔が転用され、地下には火薬庫や通路が構築された。1945年の終戦まで軍事施設として使われ、1958年に神奈川県立公園として開園した現在も、園内には砲台跡や地下壕の入口が残されている。この歴史を持つ公園では、着物姿の女性が並木道や展望台付近から海を見つめている姿が目撃されるという噂がある。声をかけずに後を追うと崖の方向へ導かれるという話や、軍人らしき人影が敷地内を歩く姿を見たとする報告も伝わる。夜間には周囲に人の姿がないにもかかわらず口笛や歌声のような音、足音が聞こえたとする体験も複数のサイトで紹介されている。

油壺
路上・交差点·神奈川県 三浦市

油壺

神奈川県三浦市三崎町小網代、三浦半島南端の入江は、油壺と呼ばれている。隣接する小網代湾と共に天然の良港を形作り、ヨットハーバーや東京大学三崎臨海実験所が周囲に整備されている。 地名「油壺」の由来は、永正13年(1516年)に滅亡した三浦氏の故事に基づく。鎌倉幕府草創以来400年続いた相模の名族・三浦氏は、新井城(現在の油壺・諸磯一帯)に本拠を置き、関東への進出を目論む小田原・伊勢宗瑞(北条早雲)と対峙していた。3年に及ぶ籠城戦の末、援軍は到着せず、最後の当主・三浦道寸義同とその子荒次郎義意以下諸将が討死または自刃して落城した。 この落城の様子を伝える江戸期の地誌『新編相模国風土記稿』『新編武蔵風土記稿』『三浦三崎志』などには、城兵が崖から入江に身を投じたため海面に流れた血が油のように凪いだことから「油壺」と呼ばれるようになった、という記述がある。新井城の遺構は東京大学三崎臨海実験所と京急油壺マリンパーク跡地の周辺に散在し、土塁や堀の一部が現在も確認できる。 京急油壺マリンパークは2021年に閉園した。跡地は現在再開発計画が進行している。油壺湾沿いには遊歩道と観光案内板が整備され、油壺の入江と新井城跡をめぐる散策コースを歩くことができる。

城ヶ島灯台
その他·神奈川県 三浦市

城ヶ島灯台

三浦市三崎町の城ヶ島西端に立つ城ヶ島灯台は、江戸時代の慶安元年頃に三崎奉行安部次郎兵衛が設けたのろし台の跡地に、1870年、日本で五番目の洋式灯台として初点灯した。設計はフランス人技師レオンス・ヴェルニーによるもので、1923年の関東大震災で倒壊した後、1926年に現在の白いコンクリート造として再建されている。周辺の城ヶ島公園は太平洋の荒波が削った海蝕崖や洞穴が連なる地形で、戦前は旧日本軍の砲台が置かれていた場所でもある。この一帯では、灯台近くの遊歩道や木立の中で和装姿の女性の姿が目撃され、海を見つめて立っていたかと思うと消えるといった話が伝わる。口笛や歌声、足音のような音が聞こえたという報告もあり、撮影した写真に何か写り込むとの噂も見られる。こうした目撃談の多くは夜間の出来事として語られている。