神奈川県路上・交差点系 心霊スポット

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神奈川県の心霊文化

幕末の開港地・横浜と鎌倉武士の古戦場を併せ持つ神奈川県は、海と山と異国の記憶が混じり合う土地である。三浦一族の壮絶な集団自害を伝える油壺、ダム湖底に集落と工事犠牲者を沈めた相模湖、夭折した青年の名を刻む旧善波トンネル、外国人墓地の眠る山手——戦国の海戦から近代の悲劇まで、多層の死者の声が湿った潮風に紛れて聞こえてくる。

路上・交差点という場所

事故多発地点や行き止まりの路地は、近代以降の急死が集積する新しい怪異の温床である。古くは首塚・処刑場・辻斬りの場として血を吸った土地が、舗装の下で記憶を失わぬまま残り、車のライトが横切る一瞬に、見えぬ何かを照らし出す。

油壺
路上・交差点·神奈川県 三浦市

油壺

神奈川県三浦市三崎町小網代、三浦半島南端の入江は、油壺と呼ばれている。隣接する小網代湾と共に天然の良港を形作り、ヨットハーバーや東京大学三崎臨海実験所が周囲に整備されている。 地名「油壺」の由来は、永正13年(1516年)に滅亡した三浦氏の故事に基づく。鎌倉幕府草創以来400年続いた相模の名族・三浦氏は、新井城(現在の油壺・諸磯一帯)に本拠を置き、関東への進出を目論む小田原・伊勢宗瑞(北条早雲)と対峙していた。3年に及ぶ籠城戦の末、援軍は到着せず、最後の当主・三浦道寸義同とその子荒次郎義意以下諸将が討死または自刃して落城した。 この落城の様子を伝える江戸期の地誌『新編相模国風土記稿』『新編武蔵風土記稿』『三浦三崎志』などには、城兵が崖から入江に身を投じたため海面に流れた血が油のように凪いだことから「油壺」と呼ばれるようになった、という記述がある。新井城の遺構は東京大学三崎臨海実験所と京急油壺マリンパーク跡地の周辺に散在し、土塁や堀の一部が現在も確認できる。 京急油壺マリンパークは2021年に閉園した。跡地は現在再開発計画が進行している。油壺湾沿いには遊歩道と観光案内板が整備され、油壺の入江と新井城跡をめぐる散策コースを歩くことができる。

三角埋立地
路上・交差点·神奈川県 横浜市

三角埋立地

神奈川県横浜市の三角埋立地は、1960~1970年代の高度経済成長期における大規模港湾開発プロジェクトの一部として造成された。当期、横浜港は昭和38年(1963)の山下ふ頭完成、昭和45年(1970)の本牧ふ頭完成、昭和46年以降の大黒ふ頭・金沢地先埋立など、段階的な拡張工事を実施した。これらの埋立地は京浜工業地帯の重化学工業発展を支える物流・工業用地として機能し、日本の経済高成長を支える基盤となった。海上と陸上工事が交錯する複雑な環境下での施工であり、同期の港湾工事全般は多くの建設労働者を動員した大事業である。現在も当地は管理区域内の倉庫群と区画が静かに配置され、当時の港湾インフラ整備の跡を留めている。

路上・交差点·神奈川県 鎌倉市

鎌倉霊園正門前(太刀洗)の電話ボックス

鎌倉市営墓地・鎌倉霊園の正門である太刀洗門の前には、以前バス停脇に電話ボックスが設置されていた。この電話ボックスに白い服を着た長い髪の女性が立っているという噂が数十年前から伝わり、テレビの心霊番組で紹介されたことをきっかけに広く知られるようになったとされる。目撃談としては、通行人が通り過ぎて振り返ると女性の姿が消えていた、電話ボックスの周囲に黒い影のようなものが漂う、撮影した写真に白い顔が写り込む、といった内容が繰り返し報告されている。目撃例は白い服の女性が最も多いものの、黒い服の女性を見たという声や、昼間でも人影を確認したという投稿もあり、時間帯を問わず語られる点が特徴とされる。地名の「太刀洗」は、鎌倉時代に有力な御家人が主命により誅殺された際、その血で汚れた太刀を付近の湧水で洗ったという逸話に由来し、討たれたのは双六に興じている最中だったとも伝えられる。この水は鎌倉五名水の一つとして数えられる。霊園に隣接する立地から、亡くなった人々にまつわる話と結び付けて語られてきた経緯があり、近年ではこの電話ボックス自体が撤去、あるいは小型のものへ置き換えられたとの投稿が見られ、現地の様子は以前と変わっている可能性がある。

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