鳥取県

鳥取市の心霊スポット

4 スポット3 カテゴリ

鳥取市の人気スポット TOP4

1

鳥取砂丘 砂丘会館廃墟

鳥取砂丘の西側に立つ円形ドライブイン「砂丘パレス」は、地元企業と阪神電鉄の出資により昭和40年3月に開館し、円形の回転式展望台を備えた観光施設として砂丘全景を眺める絶景ポイントであった。昭和51年に砂丘会館に経営移譲されたのちも、砂丘センターとの立地競争に敗れ、昭和57年から58年にかけて営業を終了した。以来、月明かりに照らされた夜間の廃墟周辺では、砂上に現れて途中で消える足跡や、建物の窓に一瞬立つ人影のような輪郭が目撃されるという報告が続く。砂丘自体は江戸末期から明治初期の埋葬遺骨を含む地層を持ち、2011年には成人男女4体の人骨が発見された。事件性はないとされる一方、この発見以降、夜間に砂中から腕のようなものが現れる、あるいは海辺で足を引かれる感覚があるといった話が付近一帯でささやかれるようになり、廃墟の存在と結び付けられることで観光ブーム期の終焉を象徴する場所として心霊スポット愛好者の関心を集めてきた。もっとも、廃墟をまとめたサイトの中には、こうした心霊の噂を「事実無根」と明確に否定する見解も存在し、噂の真偽については評価が分かれている。現在、建物は資材置き場として管理され、鉄条網で囲われて厳重に立ち入りが制限されているが、外壁と展望台のガラスはおおむね良好な状態を保ったまま、砂に埋もれるように時間の経過を刻み続けている。

廃墟・残骸
2

旧青の洞窟

鳥取砂丘の海岸線に形成された小さな海蝕洞穴は、岩盤が波浪に侵食されて生じた自然の空洞で、洞内に差し込む光の屈折が青く見える現象から「青の洞窟」と呼ばれるようになった場所である。砂丘と海の交界に位置するこの地形は、浸食の進行に伴って構造が不安定化し、訪問者の立ち入りによる崩落の危険が高まったことから、安全対策として立入禁止措置が取られた経緯を持つ。現在は柵越しの遠望のみが可能となり、海岸線の動的な変化と自然の力を学ぶ教材的な場所として、鳥取砂丘の一部として認識されている。

廃墟・残骸
3

多鯰ヶ池

多鯰ヶ池は鳥取砂丘の南に隣接し、周囲約3.4キロ、最深部15メートルを超える中国地方屈指の深さを持つ池である。池の北岸には弁天宮が祀られ、白蛇に姿を変えた娘「お種」の伝説が伝わる。長者に雇われたお種という娘が、ある時から使用人にどこからか手に入れた甘い柿を振る舞うようになったが、不思議に思った使用人が後をつけたところ、池の畔で着物を脱いで白蛇に変身する姿を目撃されてしまい、それ以降屋敷に姿を見せなくなったという物語である。一方で、明治後期にこの地に置かれた歩兵第四十連隊が池周辺で軍事訓練を行っていたとされ、訓練中に複数の兵士が溺死する事故が起きたという噂も広まっている。この事故譚と結びつく形で、一人で池を訪れると水中から手を引かれるように感じる、耳元で複数の声が聞こえる、大きな白蛇の抜け殻が見つかったなど、さまざまな体験が伝えられている。ただし軍事訓練中の集団溺死事故を裏付ける記録は確認されておらず、真偽は不明とされる。

水辺
4

鳥取城跡

鳥取市の中心部、久松山にそびえる戦国の城跡。1581年(天正9年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉がこの城を兵糧攻めにした「鳥取の渇え殺し(かつえごろし)」は、日本の戦史でも屈指の凄惨な籠城戦として知られる。秀吉は周辺の米をあらかじめ高値で買い占めたうえで城を包囲し、四か月近くにわたって食料を断った。城内では草木や牛馬を食い尽くして餓死者が続出し、ついには人の肉さえ口にしたと伝えられ、城主・吉川経家は将兵の助命と引き換えに自刃した。この壮絶な籠城戦はのちに講談や小説でも語り継がれ、「日本三大山城」のひとつに数えられる名城でありながら、飢餓の記憶がつきまとう場所として畏れを集めてきた。 本丸跡や二ノ丸の石垣をめぐる山道では、夕暮れ以降に苦しげなうめき声が聞こえた、誰もいないのに袖を引かれた、石垣の陰に痩せ衰えた人影を見た、といった体験談が語り継がれてきた。あまりに多くの人が飢えと絶望のなかで命を落とした地ゆえに、いまも独特の重い空気が漂うと言われる。とりわけ城が落ちた頃にあたる季節には、参拝者が言葉を失うほどの静けさに包まれるという。 城跡は国の史跡として整備され、地元では籠城戦で亡くなった人々への鎮魂が長く受け継がれてきた。 久松山は山城跡のため山道が険しく、石垣や崖が多い。日没後は足元が見えず滑落の危険が高い。見学は必ず日中に行い、石垣や遺構を傷つけず、飢えのなかで亡くなった人々への敬意をもって静かに歩くこと。

公園・城址

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鳥取市のすべてのスポット

鳥取砂丘 砂丘会館廃墟
廃墟・残骸·鳥取県 鳥取市

鳥取砂丘 砂丘会館廃墟

鳥取砂丘の西側に立つ円形ドライブイン「砂丘パレス」は、地元企業と阪神電鉄の出資により昭和40年3月に開館し、円形の回転式展望台を備えた観光施設として砂丘全景を眺める絶景ポイントであった。昭和51年に砂丘会館に経営移譲されたのちも、砂丘センターとの立地競争に敗れ、昭和57年から58年にかけて営業を終了した。以来、月明かりに照らされた夜間の廃墟周辺では、砂上に現れて途中で消える足跡や、建物の窓に一瞬立つ人影のような輪郭が目撃されるという報告が続く。砂丘自体は江戸末期から明治初期の埋葬遺骨を含む地層を持ち、2011年には成人男女4体の人骨が発見された。事件性はないとされる一方、この発見以降、夜間に砂中から腕のようなものが現れる、あるいは海辺で足を引かれる感覚があるといった話が付近一帯でささやかれるようになり、廃墟の存在と結び付けられることで観光ブーム期の終焉を象徴する場所として心霊スポット愛好者の関心を集めてきた。もっとも、廃墟をまとめたサイトの中には、こうした心霊の噂を「事実無根」と明確に否定する見解も存在し、噂の真偽については評価が分かれている。現在、建物は資材置き場として管理され、鉄条網で囲われて厳重に立ち入りが制限されているが、外壁と展望台のガラスはおおむね良好な状態を保ったまま、砂に埋もれるように時間の経過を刻み続けている。

旧青の洞窟
廃墟・残骸·鳥取県 鳥取市

旧青の洞窟

鳥取砂丘の海岸線に形成された小さな海蝕洞穴は、岩盤が波浪に侵食されて生じた自然の空洞で、洞内に差し込む光の屈折が青く見える現象から「青の洞窟」と呼ばれるようになった場所である。砂丘と海の交界に位置するこの地形は、浸食の進行に伴って構造が不安定化し、訪問者の立ち入りによる崩落の危険が高まったことから、安全対策として立入禁止措置が取られた経緯を持つ。現在は柵越しの遠望のみが可能となり、海岸線の動的な変化と自然の力を学ぶ教材的な場所として、鳥取砂丘の一部として認識されている。

多鯰ヶ池
水辺·鳥取県 鳥取市

多鯰ヶ池

多鯰ヶ池は鳥取砂丘の南に隣接し、周囲約3.4キロ、最深部15メートルを超える中国地方屈指の深さを持つ池である。池の北岸には弁天宮が祀られ、白蛇に姿を変えた娘「お種」の伝説が伝わる。長者に雇われたお種という娘が、ある時から使用人にどこからか手に入れた甘い柿を振る舞うようになったが、不思議に思った使用人が後をつけたところ、池の畔で着物を脱いで白蛇に変身する姿を目撃されてしまい、それ以降屋敷に姿を見せなくなったという物語である。一方で、明治後期にこの地に置かれた歩兵第四十連隊が池周辺で軍事訓練を行っていたとされ、訓練中に複数の兵士が溺死する事故が起きたという噂も広まっている。この事故譚と結びつく形で、一人で池を訪れると水中から手を引かれるように感じる、耳元で複数の声が聞こえる、大きな白蛇の抜け殻が見つかったなど、さまざまな体験が伝えられている。ただし軍事訓練中の集団溺死事故を裏付ける記録は確認されておらず、真偽は不明とされる。

鳥取城跡
公園・城址·鳥取県 鳥取市

鳥取城跡

鳥取市の中心部、久松山にそびえる戦国の城跡。1581年(天正9年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉がこの城を兵糧攻めにした「鳥取の渇え殺し(かつえごろし)」は、日本の戦史でも屈指の凄惨な籠城戦として知られる。秀吉は周辺の米をあらかじめ高値で買い占めたうえで城を包囲し、四か月近くにわたって食料を断った。城内では草木や牛馬を食い尽くして餓死者が続出し、ついには人の肉さえ口にしたと伝えられ、城主・吉川経家は将兵の助命と引き換えに自刃した。この壮絶な籠城戦はのちに講談や小説でも語り継がれ、「日本三大山城」のひとつに数えられる名城でありながら、飢餓の記憶がつきまとう場所として畏れを集めてきた。 本丸跡や二ノ丸の石垣をめぐる山道では、夕暮れ以降に苦しげなうめき声が聞こえた、誰もいないのに袖を引かれた、石垣の陰に痩せ衰えた人影を見た、といった体験談が語り継がれてきた。あまりに多くの人が飢えと絶望のなかで命を落とした地ゆえに、いまも独特の重い空気が漂うと言われる。とりわけ城が落ちた頃にあたる季節には、参拝者が言葉を失うほどの静けさに包まれるという。 城跡は国の史跡として整備され、地元では籠城戦で亡くなった人々への鎮魂が長く受け継がれてきた。 久松山は山城跡のため山道が険しく、石垣や崖が多い。日没後は足元が見えず滑落の危険が高い。見学は必ず日中に行い、石垣や遺構を傷つけず、飢えのなかで亡くなった人々への敬意をもって静かに歩くこと。