神奈川県

鎌倉市の心霊スポット

8 スポット6 カテゴリ

鎌倉幕府の終焉にまつわる史跡が、鎌倉市の心霊スポットの骨格を作っている。東勝寺跡の「腹切りやぐら」は1333年の北条高時ら一門の最期の地とされ、由比ガ浜では発掘調査で約4000体の人骨が確認された処刑場・埋葬地の記録がある。736年創建の長谷寺には海に流されて15年後に相模国沿岸へ現れたという十一面観音像が伝わり、源氏山公園の葛原岡は1332年の鎌倉幕府打倒計画が絡む古くからの刑場とされる。鎌倉霊園正門前の電話ボックスには白い服の女性の噂が数十年前から伝わり、稲村ヶ崎には新田義貞の太刀の逸話が残る。

鎌倉市の人気スポット TOP8

1

源氏山公園

源氏山公園は鎌倉市扇ガ谷に広がる都市公園で、1956年に都市計画決定され1966年に開園した。後三年の役の際、源義家(八幡太郎義家)がこの山に源氏の白旗を掲げて戦勝を祈願したという伝承にちなみ「旗立山」の別名でも呼ばれる。公園の北西に位置する葛原岡は古くからの刑場であったとされ、元弘2年(1332)、鎌倉幕府打倒の計画に加わった後醍醐天皇の側近・日野俊基がこの地で処刑されたと伝わる。俊基を祭神とする葛原岡神社と、国指定史跡となっている墓所(供養塔)が今も園内に残されている。こうした処刑場としての歴史を背景に、この一帯では落武者や処刑された者の霊が出没するという噂がインターネットの心霊スポット紹介サイトや動画配信を中心に語られており、夜間に供養塔付近で足音を聞いたという話や、撮影した写真に不可解な写り込みがあったとする報告も見られる。近年は自殺者の霊にまつわる話も加わっているとされ、複数の心霊系サイトや配信コンテンツで取り上げられる対象となっている。

公園・城址
2

腹切りやぐら東勝寺跡

神奈川県鎌倉市小町にある東勝寺跡と、その背後の山腹に穿たれた「腹切りやぐら」は、14世紀初頭の鎌倉幕府滅亡を象徴する国指定史跡である。東勝寺は13世紀中頃に鎌倉幕府第3代執権北条泰時の命により創建された、北条氏の菩提寺だった。 1333年5月、新田義貞ら討幕勢に包囲された第14代執権北条高時は、東勝寺に籠った。激戦の末、高時以下、一族と家臣ら多数がこの寺で命を絶ったとされる。その後、寺域は失われたが、山腹に穿たれたやぐらは鎌倉の山地に見られる中世上流階級の横穴式納骨窟の形態を今に留める。発掘調査により、北条氏の家紋である三鱗文のついた瓦や中国製陶磁器が出土し、当時の繁栄を物語っている。 現在、やぐらの入口は立ち入り禁止とされており、周辺に慰霊碑が立つ。命日には参拝者が花や線香を手向け、武家の終焉を悼む史跡として静かに守られている。

神域・霊場
3

鎌倉由比ガ浜(処刑場跡)

鎌倉時代の由比ガ浜は、御成町の問注所で下された死刑判決の執行地として機能していた。中世を通じて処刑地であると同時に、火葬地および合戦の戦没者埋葬地として利用され、浜辺の砂丘は集団墓地となっていた。1995年から1997年にかけて鎌倉海浜公園の地下駐車場建設時に発掘調査が行われ、約4000体の人骨が確認されたほか、複数の遺跡からは合計数千体の遺骨が出土している。出土した遺骨の時期は13世紀から16世紀にわたり、多くは平均寿命が24歳程度で、病気や飢饉などで亡くなった人々と考えられている。一方、北側の中世集団墓地遺跡からは刀傷を持つ遺骨が報告されており、新田義貞による鎌倉攻撃の時期に該当するとみられている。鎌倉全体では200前後の集積埋葬遺構が確認されており、由比ガ浜はそのなかで最大規模の埋葬地の一つである。江戸時代まで埋葬が続いたと考えられ、現在も工事に伴う発掘で人骨が出土することがある。

廃墟・残骸
4

鎌倉霊園正門前(太刀洗)の電話ボックス

鎌倉市営墓地・鎌倉霊園の正門である太刀洗門の前には、以前バス停脇に電話ボックスが設置されていた。この電話ボックスに白い服を着た長い髪の女性が立っているという噂が数十年前から伝わり、テレビの心霊番組で紹介されたことをきっかけに広く知られるようになったとされる。目撃談としては、通行人が通り過ぎて振り返ると女性の姿が消えていた、電話ボックスの周囲に黒い影のようなものが漂う、撮影した写真に白い顔が写り込む、といった内容が繰り返し報告されている。目撃例は白い服の女性が最も多いものの、黒い服の女性を見たという声や、昼間でも人影を確認したという投稿もあり、時間帯を問わず語られる点が特徴とされる。地名の「太刀洗」は、鎌倉時代に有力な御家人が主命により誅殺された際、その血で汚れた太刀を付近の湧水で洗ったという逸話に由来し、討たれたのは双六に興じている最中だったとも伝えられる。この水は鎌倉五名水の一つとして数えられる。霊園に隣接する立地から、亡くなった人々にまつわる話と結び付けて語られてきた経緯があり、近年ではこの電話ボックス自体が撤去、あるいは小型のものへ置き換えられたとの投稿が見られ、現地の様子は以前と変わっている可能性がある。

路上・交差点
5

神奈川県鎌倉市長谷寺

長谷寺は奈良時代の天平8年(736年)に創建された古刹で、本尊は木造十一面観音菩薩立像(像高9.18メートル)です。伝承によれば、この観音像は大和長谷寺の開基・徳道が養老5年(721年)に楠の大木から二体彫刻し、衆生救済を願い海に流したもので、15年後に相模国の沿岸に出現したと伝わります。その後、藤原房前により現在地に遷座され、長谷寺の本尊として安置されました。本像は「長谷寺式十一面観音菩薩」と呼ばれ、日本最大級の木造仏として知られています。 鎌倉幕府成立より数百年前に開創された同寺は、坂東三十三ヶ所観音霊場の第四番札所として信仰を集めてきました。室町時代には足利尊氏、足利義満ら有力大名による修復が記録されており、関東大震災後に諸堂が再建されています。海を望む高台に位置し、四季折々の花が咲く境内は「西方極楽浄土」と称され、参拝者を引き寄せてきました。

神域・霊場
6

釈迦堂切通し

釈迦堂切通しは鎌倉市の東部と大町を結ぶ岩壁のトンネル。名称は、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が父・北条義時の菩提を弔うため1224年に「釈迦堂」を建立したことに由来するが、その具体的な場所は特定されておらず「幻の寺」とも呼ばれている。切通し自体の開削は江戸時代の地誌に記載がなく、明治時代以降と考えられている。トンネル上方の丘陵には中世に造られたやぐら(横穴式の埋葬・貯蔵施設)が64基確認されており、この一帯は13世紀から15世紀にかけて繰り返し利用された谷戸の平場と一体を成す。岩を削り貫いた空間特性と、中世の埋葬文化の痕跡が、訪れる者に独特の歴史的層厚さを印象付ける。現在は落石危険のため通行止め。

その他
7

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎は由比ガ浜と七里ガ浜の間に突き出た岬で、鎌倉時代には新田義貞が鎌倉幕府を攻めた際、黄金の太刀を海に投じて潮の引くのを祈ったとする『太平記』の逸話が残る古戦場である。太平洋戦争末期には、この岬の崖に人間機雷「伏龍」の待機陣地となる洞窟が掘られた。伏龍は水中に潜んで竹竿状の爆薬を敵の上陸用舟艇に突き上げて爆破する特攻兵器で、呼吸装置の欠陥から訓練中に炭酸ガス中毒で命を落とす兵士が相次いだことが記録に残る。終戦により稲村ヶ崎からの出撃自体は行われなかったが、この地で若者たちが死と隣り合わせの訓練を重ねた事実は複数の資料で確認できる。こうした歴史を背景に、崖の上に緑の服を着た女性の姿が現れるという噂や、洞窟内で白い人影を見たという報告、海で足や体を引かれる感覚を覚えたという話が伝えられている。洞窟の待機陣地は現在も海岸に残るが、落石の危険があるため立ち入りが規制されており、無断での進入は禁じられている。

水辺
8

源頼朝の墓(法華堂跡)

鎌倉市西御門の高台にある国指定史跡「法華堂跡」は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の墓所として知られる。建久九年(一一九九年)に頼朝が没した後、居館の北側にあった持仏堂は法華堂と呼ばれ、歴代将軍が命日に参詣する場となったと伝えられる。明治初年の廃仏毀釈で堂は取り壊され、明治五年(一八七二年)には頼朝を祭神とする白旗神社が麓に建てられている。現在の石造五層塔は江戸中期の安永八年(一七七九年)、薩摩藩主島津重豪の寄進によって整えられたもので、平成十七年(二〇〇五年)には隣接地で北条義時の法華堂跡とみられる十三世紀初頭の建物遺構も確認された。 江戸期の軍記物『北条九代記』には、晩年の頼朝が自らの命で滅ぼした源義経や源行家、壇ノ浦で没した安徳天皇の亡霊に稲村ヶ崎付近で遭遇し、恐怖のあまり落馬したという逸話が記されている。この故事めいた怪異譚とあわせて、参道の石段を上っている最中に足元が急に重くなり歩けなくなる、生暖かい風とともに声のようなものが聞こえる、撮影した写真に見知らぬ顔が写り込む、カメラやスマートフォンが誤作動を起こすといった体験が複数の心霊系サイトで報告されている。

神域・霊場

カテゴリ

鎌倉市のすべてのスポット

源氏山公園
神奈川県 鎌倉市·公園・城址

源氏山公園

源氏山公園は鎌倉市扇ガ谷に広がる都市公園で、1956年に都市計画決定され1966年に開園した。後三年の役の際、源義家(八幡太郎義家)がこの山に源氏の白旗を掲げて戦勝を祈願したという伝承にちなみ「旗立山」の別名でも呼ばれる。公園の北西に位置する葛原岡は古くからの刑場であったとされ、元弘2年(1332)、鎌倉幕府打倒の計画に加わった後醍醐天皇の側近・日野俊基がこの地で処刑されたと伝わる。俊基を祭神とする葛原岡神社と、国指定史跡となっている墓所(供養塔)が今も園内に残されている。こうした処刑場としての歴史を背景に、この一帯では落武者や処刑された者の霊が出没するという噂がインターネットの心霊スポット紹介サイトや動画配信を中心に語られており、夜間に供養塔付近で足音を聞いたという話や、撮影した写真に不可解な写り込みがあったとする報告も見られる。近年は自殺者の霊にまつわる話も加わっているとされ、複数の心霊系サイトや配信コンテンツで取り上げられる対象となっている。

腹切りやぐら東勝寺跡
神奈川県 鎌倉市·神域・霊場

腹切りやぐら東勝寺跡

神奈川県鎌倉市小町にある東勝寺跡と、その背後の山腹に穿たれた「腹切りやぐら」は、14世紀初頭の鎌倉幕府滅亡を象徴する国指定史跡である。東勝寺は13世紀中頃に鎌倉幕府第3代執権北条泰時の命により創建された、北条氏の菩提寺だった。 1333年5月、新田義貞ら討幕勢に包囲された第14代執権北条高時は、東勝寺に籠った。激戦の末、高時以下、一族と家臣ら多数がこの寺で命を絶ったとされる。その後、寺域は失われたが、山腹に穿たれたやぐらは鎌倉の山地に見られる中世上流階級の横穴式納骨窟の形態を今に留める。発掘調査により、北条氏の家紋である三鱗文のついた瓦や中国製陶磁器が出土し、当時の繁栄を物語っている。 現在、やぐらの入口は立ち入り禁止とされており、周辺に慰霊碑が立つ。命日には参拝者が花や線香を手向け、武家の終焉を悼む史跡として静かに守られている。

鎌倉由比ガ浜(処刑場跡)
神奈川県 鎌倉市·廃墟・残骸

鎌倉由比ガ浜(処刑場跡)

鎌倉時代の由比ガ浜は、御成町の問注所で下された死刑判決の執行地として機能していた。中世を通じて処刑地であると同時に、火葬地および合戦の戦没者埋葬地として利用され、浜辺の砂丘は集団墓地となっていた。1995年から1997年にかけて鎌倉海浜公園の地下駐車場建設時に発掘調査が行われ、約4000体の人骨が確認されたほか、複数の遺跡からは合計数千体の遺骨が出土している。出土した遺骨の時期は13世紀から16世紀にわたり、多くは平均寿命が24歳程度で、病気や飢饉などで亡くなった人々と考えられている。一方、北側の中世集団墓地遺跡からは刀傷を持つ遺骨が報告されており、新田義貞による鎌倉攻撃の時期に該当するとみられている。鎌倉全体では200前後の集積埋葬遺構が確認されており、由比ガ浜はそのなかで最大規模の埋葬地の一つである。江戸時代まで埋葬が続いたと考えられ、現在も工事に伴う発掘で人骨が出土することがある。

神奈川県 鎌倉市·路上・交差点

鎌倉霊園正門前(太刀洗)の電話ボックス

鎌倉市営墓地・鎌倉霊園の正門である太刀洗門の前には、以前バス停脇に電話ボックスが設置されていた。この電話ボックスに白い服を着た長い髪の女性が立っているという噂が数十年前から伝わり、テレビの心霊番組で紹介されたことをきっかけに広く知られるようになったとされる。目撃談としては、通行人が通り過ぎて振り返ると女性の姿が消えていた、電話ボックスの周囲に黒い影のようなものが漂う、撮影した写真に白い顔が写り込む、といった内容が繰り返し報告されている。目撃例は白い服の女性が最も多いものの、黒い服の女性を見たという声や、昼間でも人影を確認したという投稿もあり、時間帯を問わず語られる点が特徴とされる。地名の「太刀洗」は、鎌倉時代に有力な御家人が主命により誅殺された際、その血で汚れた太刀を付近の湧水で洗ったという逸話に由来し、討たれたのは双六に興じている最中だったとも伝えられる。この水は鎌倉五名水の一つとして数えられる。霊園に隣接する立地から、亡くなった人々にまつわる話と結び付けて語られてきた経緯があり、近年ではこの電話ボックス自体が撤去、あるいは小型のものへ置き換えられたとの投稿が見られ、現地の様子は以前と変わっている可能性がある。

神奈川県鎌倉市長谷寺
神奈川県 鎌倉市·神域・霊場

神奈川県鎌倉市長谷寺

長谷寺は奈良時代の天平8年(736年)に創建された古刹で、本尊は木造十一面観音菩薩立像(像高9.18メートル)です。伝承によれば、この観音像は大和長谷寺の開基・徳道が養老5年(721年)に楠の大木から二体彫刻し、衆生救済を願い海に流したもので、15年後に相模国の沿岸に出現したと伝わります。その後、藤原房前により現在地に遷座され、長谷寺の本尊として安置されました。本像は「長谷寺式十一面観音菩薩」と呼ばれ、日本最大級の木造仏として知られています。 鎌倉幕府成立より数百年前に開創された同寺は、坂東三十三ヶ所観音霊場の第四番札所として信仰を集めてきました。室町時代には足利尊氏、足利義満ら有力大名による修復が記録されており、関東大震災後に諸堂が再建されています。海を望む高台に位置し、四季折々の花が咲く境内は「西方極楽浄土」と称され、参拝者を引き寄せてきました。

釈迦堂切通し
神奈川県 鎌倉市·その他

釈迦堂切通し

釈迦堂切通しは鎌倉市の東部と大町を結ぶ岩壁のトンネル。名称は、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が父・北条義時の菩提を弔うため1224年に「釈迦堂」を建立したことに由来するが、その具体的な場所は特定されておらず「幻の寺」とも呼ばれている。切通し自体の開削は江戸時代の地誌に記載がなく、明治時代以降と考えられている。トンネル上方の丘陵には中世に造られたやぐら(横穴式の埋葬・貯蔵施設)が64基確認されており、この一帯は13世紀から15世紀にかけて繰り返し利用された谷戸の平場と一体を成す。岩を削り貫いた空間特性と、中世の埋葬文化の痕跡が、訪れる者に独特の歴史的層厚さを印象付ける。現在は落石危険のため通行止め。

稲村ヶ崎
神奈川県 鎌倉市·水辺

稲村ヶ崎

稲村ヶ崎は由比ガ浜と七里ガ浜の間に突き出た岬で、鎌倉時代には新田義貞が鎌倉幕府を攻めた際、黄金の太刀を海に投じて潮の引くのを祈ったとする『太平記』の逸話が残る古戦場である。太平洋戦争末期には、この岬の崖に人間機雷「伏龍」の待機陣地となる洞窟が掘られた。伏龍は水中に潜んで竹竿状の爆薬を敵の上陸用舟艇に突き上げて爆破する特攻兵器で、呼吸装置の欠陥から訓練中に炭酸ガス中毒で命を落とす兵士が相次いだことが記録に残る。終戦により稲村ヶ崎からの出撃自体は行われなかったが、この地で若者たちが死と隣り合わせの訓練を重ねた事実は複数の資料で確認できる。こうした歴史を背景に、崖の上に緑の服を着た女性の姿が現れるという噂や、洞窟内で白い人影を見たという報告、海で足や体を引かれる感覚を覚えたという話が伝えられている。洞窟の待機陣地は現在も海岸に残るが、落石の危険があるため立ち入りが規制されており、無断での進入は禁じられている。

源頼朝の墓(法華堂跡)
神奈川県 鎌倉市·神域・霊場

源頼朝の墓(法華堂跡)

鎌倉市西御門の高台にある国指定史跡「法華堂跡」は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の墓所として知られる。建久九年(一一九九年)に頼朝が没した後、居館の北側にあった持仏堂は法華堂と呼ばれ、歴代将軍が命日に参詣する場となったと伝えられる。明治初年の廃仏毀釈で堂は取り壊され、明治五年(一八七二年)には頼朝を祭神とする白旗神社が麓に建てられている。現在の石造五層塔は江戸中期の安永八年(一七七九年)、薩摩藩主島津重豪の寄進によって整えられたもので、平成十七年(二〇〇五年)には隣接地で北条義時の法華堂跡とみられる十三世紀初頭の建物遺構も確認された。 江戸期の軍記物『北条九代記』には、晩年の頼朝が自らの命で滅ぼした源義経や源行家、壇ノ浦で没した安徳天皇の亡霊に稲村ヶ崎付近で遭遇し、恐怖のあまり落馬したという逸話が記されている。この故事めいた怪異譚とあわせて、参道の石段を上っている最中に足元が急に重くなり歩けなくなる、生暖かい風とともに声のようなものが聞こえる、撮影した写真に見知らぬ顔が写り込む、カメラやスマートフォンが誤作動を起こすといった体験が複数の心霊系サイトで報告されている。