
旧長野廃養蚕農家集落
江戸時代後期の1859年横浜港開港により生糸輸出が開始されると、上田市の養蚕業は急速に拡大した。明治初期には長野県全体の生糸生産量の約半分を上田が占めるまでになり、製糸業と養蚕業の二重構造で地域経済を支えた。農家の建屋は二階部分が蚕室に改造され、蚕の飼育と糸取りが行われた。明治から昭和初期にかけて、この山間部の集落は急速に現金化される産業に依存するようになった。 一次産業から機械化された製糸工場への転換は、特に昭和初期に加速した。1935年前後が生産のピークであったが、その後の世界恐慌、化学繊維の出現、太平洋戦争、そして1973年のオイルショックによる繭相場の暴落により、農家経営は立て直せない打撃を受けた。1960年代から1970年代にかけて、多くの集落の機能は次々と失われ、かつての産業支援施設は無人化していった。現在、こうした廃屋群は、かつての繁栄と衰退の歴史を物理的に留める存在となっている。