
埼玉県さいたま市大宮区大門公園
大宮駅東口を控える大門町は、江戸期から中山道の要衝として栄えた大宮宿の中核を成す地である。寛永元年(1624年)、北沢甚之丞直元が42軒の村民とともに移住し大門町を開拓。その後、この地は商業地として発展し、現在は複合商業ビルや銀行支店が立ち並ぶ都市空間となっている。 しかし、この繁栄の地盤の直下には、江戸の暗い歴史が眠っている。現在のさいたま新都心駅東側一帯にあたる場所に「下原刑場」が存在していたのだ。武蔵国の罪人が処刑された此の地は、特に寛政元年(1789年)4月、長谷川宣以に捕縛された盗賊団頭目・真刀徳次郎とその一族の処刑の舞台として歴史に記録されている。高沼用水の河原で実行された処刑の光景は、往来する宿場人に深刻な印象を与えたであろう。 刑場周辺では、罪人が送られる際に親族との最後の別れが許された橋が存在し、やがて「涙橋」と呼ばれるようになった。この橋付近で特に伝えられるのが、大宮宿の旅籠「柳屋」で働いていた千鳥という女性の悲劇である。彼女は材木屋の若旦那と婚約していたが、盗賊・真刀徳次郎に執拗に脅迫されたすえ、絶望から高台橋に身を投じたという。町の人々は彼女の死を哀れみ、「お女郎地蔵」を建立して供養した。 その後、高台橋周辺で夜間に火の玉が目撃されるようになったとされ、これが千鳥の怨念あるいは人魂と解釈される余地を生んだ。この火の玉は後に「火の玉不動」と呼ばれ、供養塔として現在も現地に残存している。明治元年の明治天皇の氷川神社行幸に際し、地元の嘆願により刑場は廃止されたが、その歴史と伝承は現在に至るまで記憶される。 現在、大門町は駅前の商業中心地として日中の人通りは絶えず、大門3丁目公園などの小規模な緑地も整備されている。だが高度経済成長期の再開発が進む以前の、江戸から明治にかけてのこの地の歴史層は、都市景観の下に積み重なったままである。

