埼玉県宿泊・居住跡系 心霊スポット

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埼玉県の心霊文化

武蔵国の中核を成した埼玉県は、鎌倉街道の要衝として中世の戦乱を幾度も刻んだ地である。一三五二年の南北朝合戦で新田軍の武士が散り、後年大量の人骨が出土した笛吹峠、奥秩父の闇に佇む旧正丸峠トンネル、無数の達磨像が境内を埋め尽くす飯能の達磨神社——鎌倉武士の血と山深い秩父の信仰が交わるこの地で、土地の記憶は今も静かに息づいている。

宿泊・居住跡という場所

廃旅館や廃ホテルは、無数の他人が一夜の眠りと欲望を残していった「念の貯蔵庫」である。家主の急死、廃業、長期滞在者の執着が、色褪せた壁紙や朽ちた寝具に沈殿する。誰のものでもない部屋ほど、誰かの気配で満たされている。

埼玉県さいたま市大宮区大門公園
宿泊・居住跡·埼玉県 さいたま市大宮区

埼玉県さいたま市大宮区大門公園

大宮駅東口を控える大門町は、江戸期から中山道の要衝として栄えた大宮宿の中核を成す地である。寛永元年(1624年)、北沢甚之丞直元が42軒の村民とともに移住し大門町を開拓。その後、この地は商業地として発展し、現在は複合商業ビルや銀行支店が立ち並ぶ都市空間となっている。 しかし、この繁栄の地盤の直下には、江戸の暗い歴史が眠っている。現在のさいたま新都心駅東側一帯にあたる場所に「下原刑場」が存在していたのだ。武蔵国の罪人が処刑された此の地は、特に寛政元年(1789年)4月、長谷川宣以に捕縛された盗賊団頭目・真刀徳次郎とその一族の処刑の舞台として歴史に記録されている。高沼用水の河原で実行された処刑の光景は、往来する宿場人に深刻な印象を与えたであろう。 刑場周辺では、罪人が送られる際に親族との最後の別れが許された橋が存在し、やがて「涙橋」と呼ばれるようになった。この橋付近で特に伝えられるのが、大宮宿の旅籠「柳屋」で働いていた千鳥という女性の悲劇である。彼女は材木屋の若旦那と婚約していたが、盗賊・真刀徳次郎に執拗に脅迫されたすえ、絶望から高台橋に身を投じたという。町の人々は彼女の死を哀れみ、「お女郎地蔵」を建立して供養した。 その後、高台橋周辺で夜間に火の玉が目撃されるようになったとされ、これが千鳥の怨念あるいは人魂と解釈される余地を生んだ。この火の玉は後に「火の玉不動」と呼ばれ、供養塔として現在も現地に残存している。明治元年の明治天皇の氷川神社行幸に際し、地元の嘆願により刑場は廃止されたが、その歴史と伝承は現在に至るまで記憶される。 現在、大門町は駅前の商業中心地として日中の人通りは絶えず、大門3丁目公園などの小規模な緑地も整備されている。だが高度経済成長期の再開発が進む以前の、江戸から明治にかけてのこの地の歴史層は、都市景観の下に積み重なったままである。

白旗塚古墳
宿泊・居住跡·埼玉県 所沢市

白旗塚古墳

埼玉県所沢市北野にある白旗塚は、前方後円墳型の土塚で、古代の古墳である可能性が指摘されながらも、その由来は中世にさかのぼる。1333年5月11日、南北朝の転換点となった小手指原の戦いで、新田義貞が鎌倉幕府軍と激戦を交えた際、この塚の上に源氏の白旗を掲げたとの伝承がある。戦いは30余回の打ち合いを繰り返し、両軍あわせて800人余の犠牲者を出す激闘となったが、決定的な勝敗は決せず、翌日の久米川の戦いで形勢が逆転した。江戸時代には富士講の信仰対象として機能し、富士塚として人工的に造成された可能性も指摘されている。現在、塚の頂上には「白旗塚」の石碑と浅間神社の石祠が並んで置かれており、小手指原古戦場碑も建立されている。古墳としての学術的な性質については確定しておらず、中世の軍事遺跡および信仰の場としての歴史が多層的に重なる遺構である。

朝霞市旧米軍キャンプ大泉跡
宿泊・居住跡·埼玉県 朝霞市

朝霞市旧米軍キャンプ大泉跡

埼玉県朝霞市を中心とした地域には、1941年に設置された旧日本陸軍被服本廠の跡地がある。1945年9月、米軍が進駐し、米陸軍第8軍団隷下の第一騎兵師団が駐屯するキャンプ・ドレイク(基地名はマニラ戦で戦死したロイス・A・ドレイク大佐に由来)として機能した。基地は朝霞、和光、新座の3市とそれぞれの地域にまたがり、総面積は約4.5平方キロメートルに及んだ。 朝鮮戦争期には1万5,000人の兵士が前線へ送られ、基地周辺では治安悪化を招いた。返還要求運動を経て、1973年6月に南側の一部が返還され、1976年11月、1986年2月14日と段階的に返還が進んだ。1986年のノース・キャンプ返還により、朝霞市からの米軍基地はすべて撤退した。 現在、跡地は公園、学校、住宅地、公共施設、自衛隊駐屯地として活用されている。2012年には「朝霞の森」が開園し、住民の交流拠点となっている。都市計画の対象として土壌汚染とアスベスト除去が進められた。

本庄市旧中山道宿場の旅人霊
宿泊・居住跡·埼玉県 本庄市

本庄市旧中山道宿場の旅人霊

本庄市は江戸期の中山道において最大規模の宿場町であった。本庄宿は中山道六十九次の10番目にあたり、武蔵国最後の宿場として位置づけられた。1843年には4,554人の住民と1,212棟の建物を有し、その繁栄は利根川の水運を背景とした商業中心地の発展による。本陣2棟、脇本陣2棟のほか、旅籠は1804年の調査で約77軒が確認されている。街道沿いには商家や蔵造りの町家が立ち並び、現在も常夜灯や道標、問屋場の跡などが旧街道に点在する。近代以降の産業化に伴い宿場としての機能は消失したが、市内では街並み保存と郷土史の継承が続けられており、旧街道沿いの散策ルートが設定されている。

草加市旧奥州街道の旅人霊
宿泊・居住跡·埼玉県 草加市

草加市旧奥州街道の旅人霊

埼玉県草加市は江戸時代、日光街道と奥州街道の分岐点に位置する宿場町として栄えた。1630年に沼地の埋め立てにより新道が開かれ、「草」が多く用いられたことから「草加」と呼ばれるようになった。1689年3月、松尾芭蕉は「奥の細道」の旅で草加宿に到達した。当時の街道沿いは、参勤交代の大名行列、伊勢参詣の巡礼、商人など日々多くの旅人が往来し、長旅の疲労や病で草加で命を落とした人も少なくなかった。 現在の草加松原は、綾瀬川沿いに南北約1.5キロメートルに渡るクロマツの並木で、最古の記録は1792年に地域住民によって1,230本の苗木が植樹されたというものである。1987年に「日本の道百選」に、2014年に「おくのほそ道の風景地 草加松原」として国指定名勝に指定された。松並木の背景には、街道文化の厚みと、旅路の途上で人生を断たれた無名者たちへの鎮魂の念が静かに重ねられている。地元では旅人の供養や参詣者の安全を願う慣習が今も続けられ、街道沿いに散在する地蔵や祠が、旅に倒れた人々への長年の哀悼を物語っている。

旧吹上ホテル廃墟
宿泊・居住跡·埼玉県 鴻巣市

旧吹上ホテル廃墟

埼玉県鴻巣市の吹上地域は、江戸期に中山道沿いの間の宿として発展した土地である。1885年の高崎線開設に伴い吹上駅が開業し、以後、北埼玉地域の交通拠点としての性格を帯びた。戦後から高度経済成長期にかけ、周辺の市街化に伴い、結婚式場・宴会場・宿泊施設といった婚礼・冠婚葬祭関連の施設が集積した。旧吹上ホテルはそうした施設の一つとして、地元住民の人生の節目を迎える場として長く利用されてきた。施設の廃業後、建物は外観を保ったまま放置されることになり、かつての賑わいと現在の寂然とした状況の落差が、来訪者に記憶と時間経過を意識させる存在となっている。

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