京都府

京都市の心霊スポット

7 スポット6 カテゴリ

京都市の人気スポット TOP7

1

京都嵐山の天龍寺跡

天龍寺は1339年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した臨済宗大本山。創建後わずか40年で延文から応安にかけて立て続けに4度の大火に見舞われ、その後も14世紀から19世紀にかけて計8回の火災を記録している。特に1468年の応仁の乱と1447年の火災では伽藍の大部分を失い、豊臣秀吉の援助を受けるまで約140年間、復興が進まなかった。1864年の元治元年には長州軍による兵火で再度焼失。明治期に入り、法堂・大方丈・庫裏が1899年にようやく再建された。現在の建築物は明治から昭和初期の復興による。嵐山の借景を取り入れた曹源池庭園は創建期の原型を一部保持し、1994年に世界遺産登録。

神域・霊場
2

旧料亭「幸楽」廃墟(伏見稲荷周辺)

伏見は江戸時代より港町として栄え、高瀬川の開削に伴い淀川水運の要衝となった。この時期、中書島地域には多くの料亭や遊郭が集中し、三十石船など大小の船が行き交う中での商業繁栄に支えられていた。伏見稲荷大社の参道周辺もこうした経済活動の一部に組み込まれ、参詣客と商人、芸妓らが往来する文化的な交差点となっていた。旧料亭「幸楽」はこうした時代背景を背景に営まれ、稲荷信仰の中心地と歓楽の場が隣り合う独特の空間を体現していたと考えられる。廃業後、木造建築特有の風情を保ったまま、参道のにぎわいから一歩奥に隠れるような立地で時を重ねている。ネット上では、廃屋の前を通りかかった際に三味線のような音や低い人声が聞こえるという報告がある。また、窓越しに和装姿の人影が見えた、建物内から足音が響いたといった目撃も散発的に寄せられている。

宿泊・居住跡
3

旧京都第二陸軍病院

調査の結果、京都市内で確実に存在が確認できる陸軍病院関連施設は京都陸軍病院(現・京都医療センター、伏見区深草所在)です。明治40年(1907年)6月に衛戍病院として開設され、傷病兵の治療と医療従事者の養成を行い、昭和20年(1945年)12月に国立京都病院に継承されました。現敷地内には陸軍病院跡地を示す記念碑や皇后訪問の行啓記念碑(昭和16年5月建立)が残されています。一方、「旧京都第二陸軍病院」という名称の独立した施設については、複数の歴史資料検索において具体的な立地、設立時期、戦時中の運営実績を示す客観的記録が得られませんでした。京都第二赤十字病院は大正15年に開設され現在も稼働中の別施設です。

廃墟・残骸
4

深泥池(みどろがいけ)

京都市北区にある池と湿地で、面積9.2ヘクタール。9世紀に『類聚国史』で初出し、長く京都盆地北端の地形境界として機能してきた。平安期から京都都市部の周縁領域と認識され、妖異や異界の存在に関する信仰の対象となっていた。 氷河期(3万~1万年前)の動植物相が今も生息する国の天然記念物で、1927年に指定、1988年には生物群集全体が保護対象となった。ミツガシワやホロムイソウなど寒冷地植物、170種以上の野鳥が確認されている。池中央の浮島は季節により隆沈し、複雑な生態系を支える。 20世紀後半以降、タクシー運転手が乗客を乗せたまま目的地に到着したが客が消えていたという怪談が、この池を発祥地として全国に広がった。ネット上では同様の話が複数報告されているが、具体的な事件として公式記録に残されたものは知られていない。怪談は池の古い信仰的背景と、夜間の暗い池畔道路という環境が結びついた形で流布している。

水辺
5

源光庵

京都市北区鷹峯北鷹峯町に位置する源光庵(正式名称:鷹峰山宝樹林源光庵)は、曹洞宗の禅寺である。創建は貞和2年(1346年)、当初は臨済宗大徳寺の徹翁国師による開基だったが、元禄7年(1694年)に卍山道白禅師が中興して曹洞宗に改宗した経緯がある。 源光庵の名を全国に知らしめているのは、本堂内の「悟りの窓」と「迷いの窓」、そして本堂天井の「血天井」である。 悟りの窓は丸い窓、迷いの窓は四角い窓で、それぞれが禅の宇宙観と人間の煩悩を象徴する形として参拝者に親しまれている。窓越しに四季折々の境内を眺める眺望が、写真家や絵画愛好者に強く支持されている。 血天井の由来は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦に位置する伏見城攻防戦である。徳川家康は会津征伐に向かう際、家臣の鳥居元忠を伏見城に残した。1,800の手勢で4万の石田三成軍に対峙した元忠は、13日間の籠城戦の末に城内で自刃した。鳥居元忠と380余名の家臣が命を落とした伏見城の床板は、後に元忠の忠義を悼んで複数の京都の寺院に分けて運ばれ、本堂の天井板として転用された。これが「血天井」と呼ばれる供養の伝統である。 源光庵以外にも、宝泉院、養源院、正伝寺、興聖寺など、京都市内の複数の寺院に同じ伏見城由来の血天井が伝わっている。それぞれ床板の状態や面積が異なり、寺によっては手形や足跡と解釈される跡が残っているとされる。 源光庵への参拝は通常一般公開されており、拝観料が必要。秋の紅葉期と春の桜期は特に参拝者が多く、混雑時には入場制限がかかることがある。源光庵の公式情報は紅葉期の特別拝観時間や撮影制限などが京都の観光案内サイトに掲載されている。 上記の血天井伝承の細部については、寺ごとに伝わる内容が一部異なるため、複数の寺を巡って異同を確認する観光客もいる。京都の中世史と禅文化と武家社会の関わりを実感できる、独特の文化的価値を持った場所である。

水辺
6

桂離宮

京都市西京区の桂川西岸に位置する桂離宮は、17世紀初頭に八条宮家初代・智仁親王と二代目・智忠親王によって約50年の歳月をかけて造営された皇族の別邸。豊臣秀吉の養子から後に放免された智仁親王は、不遇の人生を送る中で平安王朝の文化美学を引き継ぐ景勝地の創造に尽力した。 建築は書院造を基調に数寄屋風を採り入れ、古書院・中書院・楽器の間・新御殿の四棟が配置される。庭園は池泉回遊式で、大小5つの島を持つ58,000平方メートルの敷地に、四季に応じた茶室が設えられている。特徴は次々と景観が隠され、歩を進めるたびに新たな風景が突然展開する設計—視界の開閉を計算した構成が訪問者の感動を生み出す仕組みになっている。建築家小堀遠州の携わりの詳細は定かでなく、中沼左京や玉淵坊ら複数の職人による協働の可能性が高い。 国際的には、1933年にドイツの建築家ブルーノ・タウトが高く評価し、日本庭園の傑作としての地位を確立。現在は宮内庁が管理し、参観は事前申込による公開ツアーに限定されている。

路上・交差点
7

旧花脊峠(京都バス廃バス停)

京都市左京区の花脊地域へと至る国道477号は、標高759メートルの花脊峠を経由する山岳路である。現在のルートは明治40年代に開設された相対的に新しい峠道で、元々この地域を結んでいた旧花脊峠は西南西約950メートル離れた鯖街道(広河原ルート)沿いに存在していた。現在の峠道は急峻な勾配と複数のヘアピンカーブを有し、「酷道」として知られる難所である。 京都バスの32号系統が花脊地域への主要な交通手段として機能してきたが、一日二便という限定的な運行である。旧ルートが活発に使用されていた時期、複数のバス停が沿道に設置されていたと考えられるが、道路改変に伴い、これらのバス停の大部分は廃止され、苔むした廃バス停のみが山林に取り残されている。峠周辺には現在、廃止された商業施設の痕跡も見られ、交通量減少と地域経済の縮小を物語っている。

山道・峠

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京都嵐山の天龍寺跡
神域・霊場·京都府 京都市

京都嵐山の天龍寺跡

天龍寺は1339年、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した臨済宗大本山。創建後わずか40年で延文から応安にかけて立て続けに4度の大火に見舞われ、その後も14世紀から19世紀にかけて計8回の火災を記録している。特に1468年の応仁の乱と1447年の火災では伽藍の大部分を失い、豊臣秀吉の援助を受けるまで約140年間、復興が進まなかった。1864年の元治元年には長州軍による兵火で再度焼失。明治期に入り、法堂・大方丈・庫裏が1899年にようやく再建された。現在の建築物は明治から昭和初期の復興による。嵐山の借景を取り入れた曹源池庭園は創建期の原型を一部保持し、1994年に世界遺産登録。

旧料亭「幸楽」廃墟(伏見稲荷周辺)
宿泊・居住跡·京都府 京都市

旧料亭「幸楽」廃墟(伏見稲荷周辺)

伏見は江戸時代より港町として栄え、高瀬川の開削に伴い淀川水運の要衝となった。この時期、中書島地域には多くの料亭や遊郭が集中し、三十石船など大小の船が行き交う中での商業繁栄に支えられていた。伏見稲荷大社の参道周辺もこうした経済活動の一部に組み込まれ、参詣客と商人、芸妓らが往来する文化的な交差点となっていた。旧料亭「幸楽」はこうした時代背景を背景に営まれ、稲荷信仰の中心地と歓楽の場が隣り合う独特の空間を体現していたと考えられる。廃業後、木造建築特有の風情を保ったまま、参道のにぎわいから一歩奥に隠れるような立地で時を重ねている。ネット上では、廃屋の前を通りかかった際に三味線のような音や低い人声が聞こえるという報告がある。また、窓越しに和装姿の人影が見えた、建物内から足音が響いたといった目撃も散発的に寄せられている。

旧京都第二陸軍病院
廃墟・残骸·京都府 京都市

旧京都第二陸軍病院

調査の結果、京都市内で確実に存在が確認できる陸軍病院関連施設は京都陸軍病院(現・京都医療センター、伏見区深草所在)です。明治40年(1907年)6月に衛戍病院として開設され、傷病兵の治療と医療従事者の養成を行い、昭和20年(1945年)12月に国立京都病院に継承されました。現敷地内には陸軍病院跡地を示す記念碑や皇后訪問の行啓記念碑(昭和16年5月建立)が残されています。一方、「旧京都第二陸軍病院」という名称の独立した施設については、複数の歴史資料検索において具体的な立地、設立時期、戦時中の運営実績を示す客観的記録が得られませんでした。京都第二赤十字病院は大正15年に開設され現在も稼働中の別施設です。

深泥池(みどろがいけ)
水辺·京都府 京都市

深泥池(みどろがいけ)

京都市北区にある池と湿地で、面積9.2ヘクタール。9世紀に『類聚国史』で初出し、長く京都盆地北端の地形境界として機能してきた。平安期から京都都市部の周縁領域と認識され、妖異や異界の存在に関する信仰の対象となっていた。 氷河期(3万~1万年前)の動植物相が今も生息する国の天然記念物で、1927年に指定、1988年には生物群集全体が保護対象となった。ミツガシワやホロムイソウなど寒冷地植物、170種以上の野鳥が確認されている。池中央の浮島は季節により隆沈し、複雑な生態系を支える。 20世紀後半以降、タクシー運転手が乗客を乗せたまま目的地に到着したが客が消えていたという怪談が、この池を発祥地として全国に広がった。ネット上では同様の話が複数報告されているが、具体的な事件として公式記録に残されたものは知られていない。怪談は池の古い信仰的背景と、夜間の暗い池畔道路という環境が結びついた形で流布している。

源光庵
水辺·京都府 京都市

源光庵

京都市北区鷹峯北鷹峯町に位置する源光庵(正式名称:鷹峰山宝樹林源光庵)は、曹洞宗の禅寺である。創建は貞和2年(1346年)、当初は臨済宗大徳寺の徹翁国師による開基だったが、元禄7年(1694年)に卍山道白禅師が中興して曹洞宗に改宗した経緯がある。 源光庵の名を全国に知らしめているのは、本堂内の「悟りの窓」と「迷いの窓」、そして本堂天井の「血天井」である。 悟りの窓は丸い窓、迷いの窓は四角い窓で、それぞれが禅の宇宙観と人間の煩悩を象徴する形として参拝者に親しまれている。窓越しに四季折々の境内を眺める眺望が、写真家や絵画愛好者に強く支持されている。 血天井の由来は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦に位置する伏見城攻防戦である。徳川家康は会津征伐に向かう際、家臣の鳥居元忠を伏見城に残した。1,800の手勢で4万の石田三成軍に対峙した元忠は、13日間の籠城戦の末に城内で自刃した。鳥居元忠と380余名の家臣が命を落とした伏見城の床板は、後に元忠の忠義を悼んで複数の京都の寺院に分けて運ばれ、本堂の天井板として転用された。これが「血天井」と呼ばれる供養の伝統である。 源光庵以外にも、宝泉院、養源院、正伝寺、興聖寺など、京都市内の複数の寺院に同じ伏見城由来の血天井が伝わっている。それぞれ床板の状態や面積が異なり、寺によっては手形や足跡と解釈される跡が残っているとされる。 源光庵への参拝は通常一般公開されており、拝観料が必要。秋の紅葉期と春の桜期は特に参拝者が多く、混雑時には入場制限がかかることがある。源光庵の公式情報は紅葉期の特別拝観時間や撮影制限などが京都の観光案内サイトに掲載されている。 上記の血天井伝承の細部については、寺ごとに伝わる内容が一部異なるため、複数の寺を巡って異同を確認する観光客もいる。京都の中世史と禅文化と武家社会の関わりを実感できる、独特の文化的価値を持った場所である。

桂離宮
路上・交差点·京都府 京都市

桂離宮

京都市西京区の桂川西岸に位置する桂離宮は、17世紀初頭に八条宮家初代・智仁親王と二代目・智忠親王によって約50年の歳月をかけて造営された皇族の別邸。豊臣秀吉の養子から後に放免された智仁親王は、不遇の人生を送る中で平安王朝の文化美学を引き継ぐ景勝地の創造に尽力した。 建築は書院造を基調に数寄屋風を採り入れ、古書院・中書院・楽器の間・新御殿の四棟が配置される。庭園は池泉回遊式で、大小5つの島を持つ58,000平方メートルの敷地に、四季に応じた茶室が設えられている。特徴は次々と景観が隠され、歩を進めるたびに新たな風景が突然展開する設計—視界の開閉を計算した構成が訪問者の感動を生み出す仕組みになっている。建築家小堀遠州の携わりの詳細は定かでなく、中沼左京や玉淵坊ら複数の職人による協働の可能性が高い。 国際的には、1933年にドイツの建築家ブルーノ・タウトが高く評価し、日本庭園の傑作としての地位を確立。現在は宮内庁が管理し、参観は事前申込による公開ツアーに限定されている。

旧花脊峠(京都バス廃バス停)
山道・峠·京都府 京都市

旧花脊峠(京都バス廃バス停)

京都市左京区の花脊地域へと至る国道477号は、標高759メートルの花脊峠を経由する山岳路である。現在のルートは明治40年代に開設された相対的に新しい峠道で、元々この地域を結んでいた旧花脊峠は西南西約950メートル離れた鯖街道(広河原ルート)沿いに存在していた。現在の峠道は急峻な勾配と複数のヘアピンカーブを有し、「酷道」として知られる難所である。 京都バスの32号系統が花脊地域への主要な交通手段として機能してきたが、一日二便という限定的な運行である。旧ルートが活発に使用されていた時期、複数のバス停が沿道に設置されていたと考えられるが、道路改変に伴い、これらのバス停の大部分は廃止され、苔むした廃バス停のみが山林に取り残されている。峠周辺には現在、廃止された商業施設の痕跡も見られ、交通量減少と地域経済の縮小を物語っている。