切られ踏切
江戸時代、現在の富津市周辺は飯野藩によって治められており、この一帯には藩の処刑場があったと伝えられている。地元では長らくこの場所を「切られ場」と呼んでいたとされ、1915年頃に内房線の鉄道が開通し踏切が設けられた際、その名がそのまま踏切名として採用されたという説が広まっている。ただし、処刑場の存在を裏付ける正式な記録や文書は見つかっておらず、富津市教育委員会の担当者からも刑場があったという情報は得られているものの、それを証明する史料は残っていないという。名前の由来についても、田畑が踏切によって分断されたことに由来するという説や、木更津を舞台にした歌舞伎の演目「切られ与三郎」にちなんで当時の鉄道院担当者がこの名を採用したとする説もあり、一つに定まっていない。この踏切については、処刑された者の霊が今も現れるという噂や、成仏できない霊の目撃が多いとの情報、列車への飛び込みによる事故が起きているとの情報が伝わっている。一方で、自動車に乗ったまま踏切内で電車と衝突したものの、車外に投げ出された乗員が軽傷で済んだという体験がネット上で語られ、霊に守られたのではないかとする声もある。かつては踏切の両側に木々が茂り、日中でも薄暗い雰囲気であったが、2013年頃に周辺へ太陽光発電施設が設置されたことで見通しが良くなり、以前より開放的な景観に変わっている。


