鹿児島県の心霊スポットランキング・一覧

11 スポット7 カテゴリ

桜島の噴煙が常にたなびく薩摩は、島津七百年の治世と西郷隆盛、特攻隊の記憶を抱える九州最南端の地である。大正噴火の溶岩に呑まれた村落の痕跡、未確認生物イッシーの伝説残る池田湖、西南戦争終焉の城山洞窟、知覧から飛び立った若者たちの遺影——薩摩隼人の誇りと火山の脅威、戦争の影が幾重にも重なり、南国の青空の下に深い闇を湛えている。

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奄美大島廃ホテル(龍郷湾)
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奄美大島廃ホテル(龍郷湾)

奄美市·31 views
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城山公園

鹿児島市·22 views
西郷洞窟周辺(鹿児島市)
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西郷洞窟周辺(鹿児島市)

鹿児島市·18 views
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知覧特攻平和会館周辺

鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館は、太平洋戦争末期に知覧飛行場から出撃した陸軍特別攻撃隊の遺書や遺品を保存する施設である。館内には1000人を超える搭乗員の遺書が収蔵されており、多くが故郷や家族への思いを記している。戦後、この地は慰霊と歴史継承の場として整備され、松並木が残る旧飛行場周辺を含めて戦没者の追悼空間となっている。訪問者は深い沈思のなかで長時間を過ごすことが多く、強い感情体験を報告する人も少なくない。地域全体で静粛と敬意の維持に取り組んでおり、心霊スポットとしての消費に対する慎重姿勢が貫かれている。

南九州市·14 views
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指宿温泉廃旅館群

鹿児島県指宿市の温泉地帯に点在する廃旅館群。バブル期に観光地として栄えた指宿も、利用客の減少とともに複数の宿泊施設が長く閉鎖されたままになっている。 投稿では、敷地内訪問時にスマホのカメラが意図せず起動し複数枚の写真が記録されていたこと、撮影画像がすべて真っ暗だったこと、地元の年配者から過去にこの周辺で怪異が起こっていたという話を聞いたことが報告されている。 このうち知られる旅館の一つは1929年に開業し、砂むし風呂で名高い老舗宿として与謝野寛・晶子夫妻も宿泊した記録が残るが、1999年頃に廃業してから長期間放置され、2023年までに解体された。指宿港付近には古い共同浴場の廃墟も残り、崩れた浴室のタイルや薄れた文字が確認できる状態がインターネット上の廃墟探訪記録に取り上げられている。心霊スポットをまとめたネット上の記事では、指宿市内の旧道沿いに残るホテル跡についても触れられており、廃旅館群は探訪者の関心を集める対象になっている。 廃旅館は老朽化が進み、崩落や床抜けなどの事故リスクが高く、私有地への無許可侵入は違法である。指宿の歴史に関心がある場合は公開されている郷土資料で学ぶことが望ましい。

指宿市·13 views
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旧奄美廃製糖工場跡

夜になると廃工場の奥から、重い石が擦れ合うような低い音が聞こえてくる――そんな証言が地元住民の間でたびたび語られている。誰もいないはずの建物内部で巨大な石臼が独りでに回るような音を立てるとされており、実際に近くを通りかかった住民が「何かに引き寄せられるような感覚を覚えた」と話しているという噂も絶えない。また、工場跡の敷地内では白い人影がふらりと現れ、そのまま壁の中へ消えていくのを目撃したとする体験談も伝わっており、霊感の強い人物が近づくだけで強い吐き気や頭痛を訴えるとも言われている。かつてここで命を落とした人々の無念が、今なおこの場所に漂い続けているのかもしれない。 この旧廃製糖工場跡は、鹿児島県奄美市に残る歴史的な遺構である。江戸時代から明治にかけて、薩摩藩の砂糖専売制度のもとで奄美の農民たちは砂糖きびの栽培と製糖を強制され、過酷な労働条件のなかで命を落とした者が多かったという記録が今も残っている。廃墟となった工場の内部には当時使われていた巨大な石臼の残骸が今もそのままの姿で残されており、苦難の歴史を静かに物語っている。訪れる際には、その重い歴史的背景と地域の方々への敬意を忘れずに。

奄美市·11 views
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野間岬廃灯台跡

鹿児島県南さつま市の薩摩半島最南端、野間岬に位置する廃灯台跡。昭和34年(1959年)に初点灯した薩摩野間岬灯台で、東シナ海を見渡す断崖に立つ。かつて九州電力による風力発電施設が2003年まで稼働していた同岬は、1998年から3期に分けて大型風車10基が設置され、2019年に全て解体された。 野間岬は長年をかけて砂が堆積してトンボロ(陸繋砂州)を形成した独特の地形を持ち、東シナ海を経由した海運の要衝であった。強風と高波による地形変化が絶えず、断崖からの転落の危険が極めて高い。現在、灯台跡周辺は南さつま海道八景に数えられ、後浜展望所からは野間岬に沈む夕日と沖合の島々の景観が視認できる景勝地として知られている。

南さつま市·11 views
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桜島溶岩原

鹿児島県鹿児島市桜島地区。鹿児島湾の中央に立つ桜島は、北岳(標高1,117メートル)と南岳(標高1,040メートル)からなる現役の活火山である。20世紀以降、日本国内で最大の噴火物量を記録したのが、1914年(大正3年)1月12日に始まった大正大噴火である。 噴火は南岳の山腹から始まった。当初の数日間でマグマと火山弾が大量に噴出し、東側斜面の赤水・横山などの集落が溶岩流に呑み込まれた。1月30日には溶岩流が瀬戸海峡に達し、それまで島であった桜島は大隅半島と陸続きになった。鹿児島県の災害記録によれば、犠牲者は58名、負傷者は112名、家屋全壊は約2,200戸に及んだ。 大噴火の溶岩流は1914年中に約30億トン噴出されたと推定されており、これは富士山宝永噴火(1707年)を上回る。海岸線に張り出した黒い岩塊が、現在「大正溶岩原」と呼ばれる景観である。冷却途中の溶岩がそのまま固まった様子で、ごつごつとした表面、空洞、海蝕崖が複雑に入り組む。 大正噴火の象徴のひとつが、桜島東岸の黒神埋没鳥居である。黒神神社の三本足の石製鳥居は、噴火前まで高さ約3メートルあったが、降下軽石と火山灰により基部の約2メートルが埋もれ、現在地表に出ているのは笠木の部分のみ。当時の地元住民が「鳥居を後世に残すため」あえて掘り起こさずそのまま保存することを決め、現在は鹿児島市の有形民俗文化財に指定されている。 桜島は現在も噴火活動を続けており、気象庁の常時観測対象である。火口から半径2キロメートル以内は立入禁止、観光は溶岩なぎさ公園、湯之平展望所、黒神埋没鳥居、有村溶岩展望所などの整備された見学エリアで行う。火山活動状況により入域制限が変動するため、訪問前に鹿児島地方気象台の桜島火山情報を確認することが推奨される。

鹿児島市·10 views
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池田湖

鹿児島県指宿市の薩摩半島南東部にある池田湖は、九州最大の淡水湖である。周囲約15キロメートル、最大水深233メートル、湖面標高66メートル。地質学的にはカルデラ湖で、約5,500年前の池田カルデラ噴火によって生まれた地形が、その後の地下水と河川の流入で湛水したものとされる。 湖の中央には湖底火山があり、現在の湖底地形に大きな起伏が残っている。湖底の中央部には大きなドーム状の隆起があり、その周辺は最深部の233メートルに達する。日本国内の淡水湖のなかで、この最大水深は田沢湖(秋田、423.4メートル)、支笏湖(北海道、360.1メートル)、十和田湖(青森・秋田、326.8メートル)に次いで4位の深度で、九州随一の深湖となっている。 池田湖の代表的な生物として、オオウナギが知られる。日本国内に生息するウナギの中でも大型に成長する種で、池田湖では体長2メートル、胴回り50センチを超える個体も確認されている。鹿児島県は1964年(昭和39年)に池田湖周辺のオオウナギ生息地を県の天然記念物に指定し、保護を続けている。 1978年(昭和53年)9月、池田湖周辺の住民が、湖面を進む大型の黒い物体を目撃したと相次いで証言した。地元紙と全国メディアの報道を経て「イッシー」と呼ばれる未確認生物として全国的な話題となった。1970年代後半の超常現象ブームと相まって、観光客が急増した。学術的には大型のオオウナギや漂流物の見間違いと推定されているが、決定的な解明には至っていない。

指宿市·9 views
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旧陸軍飛行場跡地(知覧)

鹿児島県南九州市にある旧陸軍知覧飛行場跡地は、太平洋戦争末期に陸軍特攻隊「と号部隊」の出撃基地として使用された歴史を持つ。1945年4月以降の沖縄戦において、本土最南端に位置したこともあり最も多くの特攻隊員がここから出撃し、全戦死者のうち439名を数えたとされる。戦後は1955年に観音堂、1975年に遺品館が設けられ、1987年に現在の知覧特攻平和会館が開館し、慰霊碑とあわせて整備された慰霊の場となっている。 心霊関連の投稿は件数が限定的だが、複数のまとめサイトでは、展示されている隊員の遺影に白い影や別の顔が写り込む、微笑む青年の姿が一瞬現れて消えるといった噂が繰り返し取り上げられている。遺書や最後の手紙が並ぶ一角で強い寒気や見られている感覚を覚えたという体験も報告されており、霊感が強いとされる訪問者が無意識に「帰りたい」と口にしたり涙を流したりする現象も語られているが、こうした現象の解釈について投稿者自身も断定を避けており、具体的な怪奇現象の記録とは言えない状況である。これらの噂に対しては、ガラスケースの反射や館内の静けさが生む錯覚とする見方も有力である。 この場所は戦没者の慰霊を第一とする慰霊地であり、心霊スポット扱いでの訪問は地域の意向に合致しない。ネット上でも心霊目的の訪問に異議を唱え、平和学習の場として尊重すべきとの声が目立つ。開館時間内に会館を訪問し、平和学習と追悼の意図で訪れることが望まれる。

南九州市·8 views

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野間岬廃灯台跡
鹿児島県 南さつま市·水辺

野間岬廃灯台跡

鹿児島県南さつま市の薩摩半島最南端、野間岬に位置する廃灯台跡。昭和34年(1959年)に初点灯した薩摩野間岬灯台で、東シナ海を見渡す断崖に立つ。かつて九州電力による風力発電施設が2003年まで稼働していた同岬は、1998年から3期に分けて大型風車10基が設置され、2019年に全て解体された。 野間岬は長年をかけて砂が堆積してトンボロ(陸繋砂州)を形成した独特の地形を持ち、東シナ海を経由した海運の要衝であった。強風と高波による地形変化が絶えず、断崖からの転落の危険が極めて高い。現在、灯台跡周辺は南さつま海道八景に数えられ、後浜展望所からは野間岬に沈む夕日と沖合の島々の景観が視認できる景勝地として知られている。

知覧特攻平和会館周辺
鹿児島県 南九州市·路上・交差点

知覧特攻平和会館周辺

鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館は、太平洋戦争末期に知覧飛行場から出撃した陸軍特別攻撃隊の遺書や遺品を保存する施設である。館内には1000人を超える搭乗員の遺書が収蔵されており、多くが故郷や家族への思いを記している。戦後、この地は慰霊と歴史継承の場として整備され、松並木が残る旧飛行場周辺を含めて戦没者の追悼空間となっている。訪問者は深い沈思のなかで長時間を過ごすことが多く、強い感情体験を報告する人も少なくない。地域全体で静粛と敬意の維持に取り組んでおり、心霊スポットとしての消費に対する慎重姿勢が貫かれている。

旧陸軍飛行場跡地(知覧)
鹿児島県 南九州市·神域・霊場

旧陸軍飛行場跡地(知覧)

鹿児島県南九州市にある旧陸軍知覧飛行場跡地は、太平洋戦争末期に陸軍特攻隊「と号部隊」の出撃基地として使用された歴史を持つ。1945年4月以降の沖縄戦において、本土最南端に位置したこともあり最も多くの特攻隊員がここから出撃し、全戦死者のうち439名を数えたとされる。戦後は1955年に観音堂、1975年に遺品館が設けられ、1987年に現在の知覧特攻平和会館が開館し、慰霊碑とあわせて整備された慰霊の場となっている。 心霊関連の投稿は件数が限定的だが、複数のまとめサイトでは、展示されている隊員の遺影に白い影や別の顔が写り込む、微笑む青年の姿が一瞬現れて消えるといった噂が繰り返し取り上げられている。遺書や最後の手紙が並ぶ一角で強い寒気や見られている感覚を覚えたという体験も報告されており、霊感が強いとされる訪問者が無意識に「帰りたい」と口にしたり涙を流したりする現象も語られているが、こうした現象の解釈について投稿者自身も断定を避けており、具体的な怪奇現象の記録とは言えない状況である。これらの噂に対しては、ガラスケースの反射や館内の静けさが生む錯覚とする見方も有力である。 この場所は戦没者の慰霊を第一とする慰霊地であり、心霊スポット扱いでの訪問は地域の意向に合致しない。ネット上でも心霊目的の訪問に異議を唱え、平和学習の場として尊重すべきとの声が目立つ。開館時間内に会館を訪問し、平和学習と追悼の意図で訪れることが望まれる。

旧奄美廃製糖工場跡
鹿児島県 奄美市·廃墟・残骸

旧奄美廃製糖工場跡

夜になると廃工場の奥から、重い石が擦れ合うような低い音が聞こえてくる――そんな証言が地元住民の間でたびたび語られている。誰もいないはずの建物内部で巨大な石臼が独りでに回るような音を立てるとされており、実際に近くを通りかかった住民が「何かに引き寄せられるような感覚を覚えた」と話しているという噂も絶えない。また、工場跡の敷地内では白い人影がふらりと現れ、そのまま壁の中へ消えていくのを目撃したとする体験談も伝わっており、霊感の強い人物が近づくだけで強い吐き気や頭痛を訴えるとも言われている。かつてここで命を落とした人々の無念が、今なおこの場所に漂い続けているのかもしれない。 この旧廃製糖工場跡は、鹿児島県奄美市に残る歴史的な遺構である。江戸時代から明治にかけて、薩摩藩の砂糖専売制度のもとで奄美の農民たちは砂糖きびの栽培と製糖を強制され、過酷な労働条件のなかで命を落とした者が多かったという記録が今も残っている。廃墟となった工場の内部には当時使われていた巨大な石臼の残骸が今もそのままの姿で残されており、苦難の歴史を静かに物語っている。訪れる際には、その重い歴史的背景と地域の方々への敬意を忘れずに。

奄美大島廃ホテル(龍郷湾)
鹿児島県 奄美市·宿泊・居住跡

奄美大島廃ホテル(龍郷湾)

鹿児島県奄美市龍郷町の龍郷湾沿いに残る廃ホテルは、高度経済成長期の観光開発の痕跡である。亜熱帯の海岸景観を活かしたリゾート施設として開業したが、後に経営困難により放置された。建物は年月とともに緑に覆われ、湾の風景の一部となっている。 龍郷町は琉球王国の一部であった15世紀後半以降、ノロと呼ばれる女性祭司を中心とした信仰体系が形成された歴史を持つ。ノロは集落の繁栄を求めて神との仲介者として機能し、1879年の琉球王国崩壊後も祭祀は島の各地で継続されている。この地のユタ(女性霊媒師)による相談や祈りの伝統も、個人の生活に根ざした形で存続している。 廃ホテルが立つ龍郷湾は、かつて平家の落人伝説を持つ歴史的な湾である。こうした重層的な歴史層が、放置された建物を訪れる者に不可解な空気を感じさせる一因となっている。

池田湖
鹿児島県 指宿市·水辺

池田湖

鹿児島県指宿市の薩摩半島南東部にある池田湖は、九州最大の淡水湖である。周囲約15キロメートル、最大水深233メートル、湖面標高66メートル。地質学的にはカルデラ湖で、約5,500年前の池田カルデラ噴火によって生まれた地形が、その後の地下水と河川の流入で湛水したものとされる。 湖の中央には湖底火山があり、現在の湖底地形に大きな起伏が残っている。湖底の中央部には大きなドーム状の隆起があり、その周辺は最深部の233メートルに達する。日本国内の淡水湖のなかで、この最大水深は田沢湖(秋田、423.4メートル)、支笏湖(北海道、360.1メートル)、十和田湖(青森・秋田、326.8メートル)に次いで4位の深度で、九州随一の深湖となっている。 池田湖の代表的な生物として、オオウナギが知られる。日本国内に生息するウナギの中でも大型に成長する種で、池田湖では体長2メートル、胴回り50センチを超える個体も確認されている。鹿児島県は1964年(昭和39年)に池田湖周辺のオオウナギ生息地を県の天然記念物に指定し、保護を続けている。 1978年(昭和53年)9月、池田湖周辺の住民が、湖面を進む大型の黒い物体を目撃したと相次いで証言した。地元紙と全国メディアの報道を経て「イッシー」と呼ばれる未確認生物として全国的な話題となった。1970年代後半の超常現象ブームと相まって、観光客が急増した。学術的には大型のオオウナギや漂流物の見間違いと推定されているが、決定的な解明には至っていない。

指宿・砂蒸し温泉付近
鹿児島県 指宿市·山道・峠

指宿・砂蒸し温泉付近

鹿児島県指宿市の摺ヶ浜海岸は、薩摩半島南端に広がる天然砂蒸し温泉として江戸時代から知られる地である。元禄16年(1703年)に砂蒸し湯治の記録が初めて現れ、江戸期を通じて湯治場として発展した。この地の温泉は地熱と海水の相互作用により生まれる地質的な特異性を持つ。 指宿一帯は薩摩藩の統治下で海上交通と防衛の要衝であり、江戸期から明治維新にかけ海運と交易の中心地として繁栄した。この商業的な隆盛と歴史的な要所性が、地域にもたらした人間と海との深い関係の記憶は、今も海岸線に残存している。摺ヶ浜の砂浜は満潮時に急速に水没する特性を持ち、かつての人々の往来や活動が気象条件によって痕跡すら消えうる場所である。 砂蒸し場周辺の海岸は満潮・高波時に水没や離岸流の危険があり、夜間の単独行動は事故の確率が高い。安全性を確保するため、訪れる場合は日中に営業中の施設を利用することを推奨する。

指宿温泉廃旅館群
鹿児島県 指宿市·宿泊・居住跡

指宿温泉廃旅館群

鹿児島県指宿市の温泉地帯に点在する廃旅館群。バブル期に観光地として栄えた指宿も、利用客の減少とともに複数の宿泊施設が長く閉鎖されたままになっている。 投稿では、敷地内訪問時にスマホのカメラが意図せず起動し複数枚の写真が記録されていたこと、撮影画像がすべて真っ暗だったこと、地元の年配者から過去にこの周辺で怪異が起こっていたという話を聞いたことが報告されている。 このうち知られる旅館の一つは1929年に開業し、砂むし風呂で名高い老舗宿として与謝野寛・晶子夫妻も宿泊した記録が残るが、1999年頃に廃業してから長期間放置され、2023年までに解体された。指宿港付近には古い共同浴場の廃墟も残り、崩れた浴室のタイルや薄れた文字が確認できる状態がインターネット上の廃墟探訪記録に取り上げられている。心霊スポットをまとめたネット上の記事では、指宿市内の旧道沿いに残るホテル跡についても触れられており、廃旅館群は探訪者の関心を集める対象になっている。 廃旅館は老朽化が進み、崩落や床抜けなどの事故リスクが高く、私有地への無許可侵入は違法である。指宿の歴史に関心がある場合は公開されている郷土資料で学ぶことが望ましい。

西郷洞窟周辺(鹿児島市)
鹿児島県 鹿児島市·公園・城址

西郷洞窟周辺(鹿児島市)

西郷洞窟周辺は鹿児島市城山にある西南戦争の終焉の舞台です。1877年9月、西郷隆盛率いる薩摩士族は政府軍の包囲下で最後の抵抗を示し、同月24日の総攻撃で西郷隆盛は腰と太ももに銃弾を受け、別府晋介の介錯により自決しました。西郷洞窟は戦闘最終段階の5日間、西郷隆盛が配下の士族とともに指揮所として使用したとされており、奥行き約4メートル、間口約3メートルの岩室です。現在、城山一帯は国指定史跡として保存され、展望台からは錦江湾と桜島が望める景勝地として整備されています。戦没者の記憶が刻まれた静謐な場所として、慰霊と歴史継承の対象となっています。

桜島溶岩原
鹿児島県 鹿児島市·山道・峠

桜島溶岩原

鹿児島県鹿児島市桜島地区。鹿児島湾の中央に立つ桜島は、北岳(標高1,117メートル)と南岳(標高1,040メートル)からなる現役の活火山である。20世紀以降、日本国内で最大の噴火物量を記録したのが、1914年(大正3年)1月12日に始まった大正大噴火である。 噴火は南岳の山腹から始まった。当初の数日間でマグマと火山弾が大量に噴出し、東側斜面の赤水・横山などの集落が溶岩流に呑み込まれた。1月30日には溶岩流が瀬戸海峡に達し、それまで島であった桜島は大隅半島と陸続きになった。鹿児島県の災害記録によれば、犠牲者は58名、負傷者は112名、家屋全壊は約2,200戸に及んだ。 大噴火の溶岩流は1914年中に約30億トン噴出されたと推定されており、これは富士山宝永噴火(1707年)を上回る。海岸線に張り出した黒い岩塊が、現在「大正溶岩原」と呼ばれる景観である。冷却途中の溶岩がそのまま固まった様子で、ごつごつとした表面、空洞、海蝕崖が複雑に入り組む。 大正噴火の象徴のひとつが、桜島東岸の黒神埋没鳥居である。黒神神社の三本足の石製鳥居は、噴火前まで高さ約3メートルあったが、降下軽石と火山灰により基部の約2メートルが埋もれ、現在地表に出ているのは笠木の部分のみ。当時の地元住民が「鳥居を後世に残すため」あえて掘り起こさずそのまま保存することを決め、現在は鹿児島市の有形民俗文化財に指定されている。 桜島は現在も噴火活動を続けており、気象庁の常時観測対象である。火口から半径2キロメートル以内は立入禁止、観光は溶岩なぎさ公園、湯之平展望所、黒神埋没鳥居、有村溶岩展望所などの整備された見学エリアで行う。火山活動状況により入域制限が変動するため、訪問前に鹿児島地方気象台の桜島火山情報を確認することが推奨される。

鹿児島県 鹿児島市·公園・城址

城山公園

標高108メートルの城山山頂に整備された公園で、明治10年(1877年)の西南戦争において西郷隆盛率いる薩摩軍が政府軍に包囲され、最後の抵抗を続けた末に壊滅した激戦地である。西郷はこの地に潜んだ後、9月24日未明の総攻撃を受けて自刃し、その最期を過ごしたと伝わる洞窟が今も山中に残る。園内の展望台からは鹿児島市街と桜島を一望でき、日中は観光地として親しまれる一方、心霊にまつわる噂が複数のサイトで紹介されている。代表的なものは、おかっぱ頭の少女の霊が写真に写り込むという話で、撮影後に笑い声を耳元で聞いたとする報告や、就寝中に同様の声を聞いたという証言がある。また雨天時に武士姿の人物が目撃されたとの話や、園内のトンネルで白い服の女性が無言で立ち尽くす姿を見たという話も伝えられている。西郷洞窟周辺では、低く唸るような男性の声や軍靴の足音が聞こえるとする話もあり、戦没者の霊が今も山中にとどまっているとする見方が語られている。

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