愛媛県山道・峠系 心霊スポット

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愛媛県の心霊文化

三千年の湯けむり立ちのぼる道後温泉を擁する愛媛は、伊予水軍と松山藩の歴史が交差する瀬戸内の要衝である。夏目漱石も浸かった日本最古の湯・道後温泉旧館、加藤嘉明築城の松山城、白壁と蝋燭文化が残る内子の町並み——古い湯宿や城郭の闇には、湯治客や落城武者の気配が今もまとわりつき、伊予路の夜霧とともに静かに浮かびあがってくる。

山道・峠という場所

峠は古来、村境を越える者を試す結界であった。修験道の行場、行き倒れの旅人、街道筋を彩った辻斬りや山賊の血が、杉木立の闇に折り重なる。山姥や天狗の伝承は、迷えば二度と戻れぬ山の不可知に対する、先人の畏れの結晶である。

古城の丘
山道・峠·愛媛県 今治市

古城の丘

愛媛県今治市の唐子山(からこやま)山頂に残る古い城跡。標高105メートルの小高い丘で、戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史を秘めた場所である。この山頂には国分山城が築かれ、かつて伊予国の支配拠点として機能していた。16世紀末の豊臣秀吉による四国征伐では、小早川隆景の軍勢による砲撃に城主が抵抗せず降伏した。その後、福島正則、池田秀氏、小川祐忠といった武将が城主として統治に当たったが、1600年の関ヶ原の戦いで功績を立てた藤堂高虎が二十万石に加増され、より海運統制に適した位置に新しい今治城を築造したため、この山城は廃城となった。現在、山上には石垣や土塁の跡が残り、連なる代々の今治藩主の墓所が山麓に位置している。古い時代に権力が集中していた場所が次の時代に放棄される際、そこに納められた期待や思いが留まるものなのか、訪問者の中には夜間の山道で落ち着かぬ感覚を覚える者も多い。山頂からは瀬戸内海が見渡せ、かつての統治者たちが眺めたであろう景色が今も変わらず広がっている。

瀬戸内海・来島海峡
山道・峠·愛媛県 今治市

瀬戸内海・来島海峡

愛媛県今治市と大島の間の来島海峡は、瀬戸内海でも有数の急潮流を抱える難所である。一に来島、二に鳴門、三とさがって馬関瀬戸──かつての航海者たちにそう謳われた海峡で、潮流は時に秒速5メートルを超え、渦潮や湧潮が発生する。古来より多くの船舶がこの海域で遭難してきた。 14世紀中頃から戦国時代にかけて、瀬戸内海を支配した村上水軍のうち、来島村上氏がこの海峡を本拠として拠城を構えた。激流に守られた天然の要塞であり、彼らは平時には水先案内と海上警固の任にあたり、複雑な潮流を読む知識と技術で知られていた。江戸期以降、近代の来島海峡では一日千隻を超える船舶が行き交うようになり、1994年から2003年の間だけで百トン以上の船舶の座礁が20件以上記録されている。1998年の交通管制センター設置後、事故は大幅に減少した。現在、来島海峡大橋は三連吊橋として世界的に知られ、橋上からは激流と多島の景観が望める。

山道・峠·愛媛県 伊予市

犬寄峠

愛媛県伊予市の犬寄峠は、松山と大洲を結ぶ旧大洲街道の難所として江戸時代から知られ、標高306メートル付近を国道56号が通っている。峠の名は、かつて多数の山犬が旅人を襲ったとの伝承に由来するとされ、行き倒れた旅人の遺体が野犬に襲われたという話も残る。1970年に国道56号の犬寄トンネル(全長738メートル)が開通し、峠越えの難所は大きく解消されたが、旧道や新道沿いでは急カーブが続くため交通事故が絶えなかったとされる。この付近では、トンネル内をさまよう交通事故死者の霊や、壁に浮かび上がる顔のような模様が目撃されるという噂が複数の資料で伝えられている。近くの電話ボックスには白い服を着た女性の霊が現れ、目が合うと消えるという話も広まっている。さらに、深夜に峠を通ると路上に女性が立っている、あるいは遠吠えのような音が響くといった噂も聞かれる。

別子銅山跡地
山道・峠·愛媛県 新居浜市

別子銅山跡地

愛媛県新居浜市の山間部に位置する別子銅山は、1691年の開坑から1973年の閉山まで283年間にわたり、住友家の統一経営下で稼働し続けた国内有数の銅山である。江戸期には常時3,000人が、最盛期には旧別子地域で約12,000人、東平地域で約5,000人が坑道の採掘と製錬に従事する山岳都市を形成していた。 総産銅量は約65万トンで、国内第2位の規模を誇った。坑道は全長700キロメートルに及び、採掘地点は標高1,200メートルから海抜1,000メートル下まで掘り進められた。閉山時点で鉱石の品位低下と採算悪化、および深部採掘に伴う地熱上昇・地圧増大による坑道崩落が相次ぎ、操業継続が困難になった。 現在、東平地区は「東洋のマチュピチュ」と呼ばれる石垣と遺構が山腹に点在する近代産業遺産として整備・保存されており、旧別子は緑の森に返されている。明治以降の産業化と、江戸期からの労働集約型鉱山経営の歴史は、現存する建築遺構と産業施設の跡に記録されている。

三坂峠
山道・峠·愛媛県 松山市

三坂峠

愛媛県松山市と久万高原町の境、標高720mに位置する三坂峠は、江戸時代には松山と高知を結ぶ土佐街道の難所として知られ、道中には行き倒れた遍路の墓が今も点在する。明治期に旧国道として整備された後も急カーブが連続する地形は変わらず、現在の道路やトンネル(三坂隧道)周辺では交通事故がたびたび発生してきた。この事故の多さを背景に、峠を訪れた人々からは車の後部座席に見知らぬ女性が座り笑いかけてくる、事故で亡くなったとみられる人影が道端に立っているといった目撃が複数のサイトで報告されている。昭和末期から平成初期にかけては夜間に走り屋やローリング族が集まる場所としても知られ、その時期の体験談が怪異の噂に重ねられていったとみられる。峠には正岡子規が詩を残し、昭和天皇が植樹式に臨んだ記念碑も建てられており、交通の難所としての歴史と怪異の噂が併存する場所となっている。

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