岐阜県の心霊スポットランキング・一覧

19 スポット8 カテゴリ

本州のほぼ中央に位置する岐阜県は、天下分け目の戦場と山岳信仰の里を併せ持つ土地である。1600年、徳川家康と石田三成が激突し数万の血を吸った関ヶ原の野には今も無名の供養塔が散在し、合掌造りの里・白川郷には豪雪と隔絶が育んだ口減らし伝承や落人の物語が密かに語り継がれている。山と血の記憶が、美濃飛騨の闇を一層深くしている。

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カンボライケ
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カンボライケ

各務原市·164 views
下呂温泉廃旅館
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下呂温泉廃旅館

下呂市·119 views
白川郷合掌造り集落
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白川郷合掌造り集落

大野郡白川村·104 views
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東濃朝鮮初中級学校跡

東濃朝鮮初中級学校は1975年、在日コリアンの子どもたちに民族教育を行う場として岐阜県土岐市に開校した。初級部・中級部・幼稚班を備え、多い時期には約100人が通ったとされる。しかし少子化や通学区域の変化により生徒数は減少し、1997年に中級部が、1998年には初級部が愛知県の東春朝鮮初中級学校へ統合される形で閉校した。以来、丘の上に建つ独特な外観の鉄筋校舎はそのまま残され、廃墟として知られるようになった。 インターネット上では、閉校後の校内で足音や笑い声が聞こえた、誰もいない教室や廊下から人の声がしたといった体験が複数のサイトで紹介されている。音楽室付近から歌のような声が聞こえたという報告や、探索者の一人が韓国語に似た言葉を発したという話も見られる。一方で、調査を行った側からは音楽室から漏れた音が校舎内で反響して聞こえた可能性も指摘されており、現象の解釈は一様ではない。廃墟としての外観の完成度が高く、心霊雑誌や動画配信で繰り返し紹介されてきたことも、噂の広がりに影響したとみられる。

土岐市·82 views
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恵那山旧道廃トンネル

岐阜県恵那市の恵那山麓に位置する旧道のトンネルは、かつて山越えの主要ルートとして機能していた。新道の開通により役目を終え、現在は入口が塞がれたままとなっている。トンネル周辺は針葉樹林に覆われ、採光に乏しい環境にある。 恵那山周辺の交通路は古くから利用されており、神坂峠は東山道の一部として機能していた歴史がある。昭和期には恵那市内の道路網が段階的に整備され、1975年には中央自動車道の恵那山トンネルが開通し、恵那山を越える交通の主流が高規格道へ移行した。旧道は段階的に利用が減少し、廃止されるに至ったと考えられる。 坑口周辺は地質的に不安定であり、落石や崩落の危険がある。また冬季には凍結による危険も生じる。廃トンネルへの立ち入りは法的・物理的リスクが高く、訪問者の安全確保のため入口は封鎖措置が施されている。

恵那市·68 views
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木曽川渡し場の夜泣き岩

坂祝町と可児市の境、木曽川沿いのこの淵は、江戸時代に中山道が木曽川を渡る最初の地点として栄えた「今渡の渡し場」の跡地である。木曽川の渡しは碓氷峠・木曽の桟と並んで中山道三大難所の一つに数えられる難所として知られた。渡し船は明治期にワイヤーで川を渡る岡田式渡船に代わり、1926年末に太田橋が完成、翌1927年の渡橋式をもって渡船の運航は終わった。この渡し場跡の淵にそびえる岩には、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の妻がここに身を投げたという伝承が伝わり、「夜泣き岩」と呼ばれている。現在は2007年から木曽川渡し場遊歩道として整備が進み、夜泣き岩のほか化石林や番所跡なども残る散策路になっている。

坂祝町·59 views
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関ヶ原古戦場

岐阜県不破郡関ケ原町は、慶長5年(1600)9月15日に東軍と西軍が激突した合戦の舞台である。この日の戦いで、両軍合わせて数千から数万の兵士が命を落とした。現在、町内には笹尾山・桃配山・松尾山など主要な陣地跡が保存され、戦没者を祀る碑が各地に立つ。2020年に開館した岐阜関ケ原古戦場記念館は、最新の映像技術を用いた体験展示で戦いの歴史を継承する施設として機能している。 古戦場一帯は史跡公園として公開されており、昼間の訪問者も多い。しかし夜間は街灯が限定的で、霧が立ちやすい地形から視界が遮られやすい。こうした環境条件の下で、陣跡周辺を訪れた人の中には、鎧の金属音に似た音響や馬蹄のような低い音を聞いた、霧の中に人影を見た、といった経験を語る者が存在する。こうした報告は、かつてここで起きた激しい戦闘の歴史的背景と、視覚・聴覚が曖昧になりやすい夜間の自然環境が相互作用する中で、記憶や想像と知覚が混在した現象として理解できる。

関ケ原町·58 views·
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千鳥橋

千鳥橋は、岐阜市内で長良川を渡る市道の橋である。1969年(昭和44年)に歩行者専用として完成し、1988年(昭和63年)には上流側に自動車専用の橋が並んで架けられた。橋の名称は、1963年(昭和38年)の新年歌会における御製にちなんで、当時の市長が名付けたとされる。橋の南岸一帯は岩場に水流がぶつかって渦を生じる深い淵となっており、地元では古くからこの場所を「左巻き」と呼んで水泳を避けてきたという。夏には川遊びや釣りに訪れる人がいる一方で、この淵に入り込んで流れに巻かれると浮き上がれないと言い伝えられ、実際に長年にわたって水難死亡事故が繰り返されてきた場所として知られている。こうした背景から、橋周辺では水没したまま見つからなかった人や、事故で亡くなった人の霊が現れるという噂が語られるようになった。橋のたもとには献花が絶えないとも言われ、事故の多さを伝える光景として紹介されることが多い。心霊スポットとして紹介される記事では、溺死したとみられる男性の霊の目撃談が語られることが多いが、具体的な年代や個人を特定できる記録は確認されていない。

岐阜市·56 views
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鶯谷トンネル

岐阜市中心部と東部を結ぶ鶯谷トンネルは、金華山南西の瑞龍寺山(通称・水道山)を貫く道路トンネルである。1918年に構想されたが一度は予算から外れ、太平洋戦争末期の1945年1月、防空疎開道路として岐阜市土木部により着工された。工事中は防空壕としても使われ、空襲による被害者が出たとされる。1947年8月に開通し、延長646mは当時の岐阜県内で最長の道路トンネルであった。1972年には並行して新トンネルの工事が始まり、同年12月に開通、翌1973年に完成した。現在は旧トンネルが下り専用、新トンネルが上り専用として使われている。トンネル入口付近には小さな祠があり、戦争で亡くなった人々を慰霊するものと伝えられている。こうした歴史を背景に、走行中のルームミラーに白い服の女性の顔が映り込む、壁や天井に人の顔に似た影が浮かぶ、うめき声が聞こえるといった話が伝えられてきた。さらに1970年代末に全国へ広まった「口裂け女」の都市伝説について、防空壕内で爆風により顔に損傷を負った遺体が多く見つかったことが原型になったとする説があり、発祥地の一つとして紹介されることがある。

岐阜市·52 views
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二股トンネル(朝鮮トンネル)

岐阜県八百津町南戸、国道418号の通行禁止区間に残る二股隧道は、銘板に「昭和三十一年五月竣工」と刻まれた古いトンネルである。木曽川の治水と発電を目的とした丸山ダムの建設により水没する道路の代替として整備された道の一部で、通称「朝鮮トンネル」とも呼ばれる。この名は、建設にあたり強制連行された朝鮮人労働者が人柱として壁の中に埋め込まれた、あるいは工事中の事故で死亡した労働者の処理に困った関係者が遺体を隠したためだ、という噂に由来する。ただしトンネルの竣工は戦後の1956年であり、戦時中の強制労働を直接示す記録は見当たらない。一方「二股」という地名自体は、ダム完成前に木曽川の中州で流れが二筋に分かれていた地点を指す呼び名であり、トンネル内部の構造とは関係がないことが後の調査で判明している。照明のないトンネル内では、男性らしき人影や叫び声、体をつかまれる感覚などを覚えたという声があり、壁の落書きが目撃談とともに紹介されることもある。現在は道路自体が閉鎖され、新丸山ダムの完成に伴い水没する予定となっている。

加茂郡八百津町·45 views

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下呂温泉廃旅館
岐阜県 下呂市·宿泊・居住跡

下呂温泉廃旅館

下呂温泉は平安時代10世紀に湯ヶ峰の山頂付近に泉源が発見され、室町時代には五山僧によって有馬・草津と並ぶ「天下三名泉」として紹介されるようになった。鎌倉時代の1265年に泉源が現在地の飛騨川河原に移動したとされ、これを白鷺が導いたとする伝説として伝わっている。温泉街は奈良時代から飛騨と美濃を結ぶ官道上の重要な宿場として機能してきたが、安政の大洪水によって衰退。明治期の低迷を経て、大正時代のボーリング採掘と1930年の高山本線開業を機に再興された。1931年に湯之島館が開業するなど温泉地として再び繁栄したが、その後の観光需要の変化と経営環境の悪化により、幾つかの旅館が廃業。廃業後も取り�壊されず温泉街の一角に残されたものが、飛騨川沿いの景観を構成している。

二股トンネル(朝鮮トンネル)
岐阜県 加茂郡八百津町·隧道・トンネル

二股トンネル(朝鮮トンネル)

岐阜県八百津町南戸、国道418号の通行禁止区間に残る二股隧道は、銘板に「昭和三十一年五月竣工」と刻まれた古いトンネルである。木曽川の治水と発電を目的とした丸山ダムの建設により水没する道路の代替として整備された道の一部で、通称「朝鮮トンネル」とも呼ばれる。この名は、建設にあたり強制連行された朝鮮人労働者が人柱として壁の中に埋め込まれた、あるいは工事中の事故で死亡した労働者の処理に困った関係者が遺体を隠したためだ、という噂に由来する。ただしトンネルの竣工は戦後の1956年であり、戦時中の強制労働を直接示す記録は見当たらない。一方「二股」という地名自体は、ダム完成前に木曽川の中州で流れが二筋に分かれていた地点を指す呼び名であり、トンネル内部の構造とは関係がないことが後の調査で判明している。照明のないトンネル内では、男性らしき人影や叫び声、体をつかまれる感覚などを覚えたという声があり、壁の落書きが目撃談とともに紹介されることもある。現在は道路自体が閉鎖され、新丸山ダムの完成に伴い水没する予定となっている。

カンボライケ
岐阜県 各務原市·水辺

カンボライケ

岐阜県各務原市の南部、木曽川に近い低地に位置する溜め池。農業用水を担う日常の水辺だが、周辺は幹線道路と田畑が交差する交通動線上にあり、夜間は交通量が限定的になる。 各務原市内ではバイク事故による死亡例が複数報告されており、うち二輪車に関わるものが占めている。こうした交通事故の悲劇が、夜間走行時の心理的緊張と結びついた。ネット上では、深夜の通過時に水面に二輪車のシルエットが映り込んで見えたという投稿や、岸辺に人影のような輪郭が見えたという証言が散見される。こうした視覚体験は、暗がりの中で脳が不規則な光と影のパターンを無意識に既知の形へ置き換える現象(パレイドリア)で説明できる。また、不安な心理状態では周囲の曖昧な刺激が増幅・解釈されやすくなる。事故が実際に同地で多発しているという認識が、そのような脳の自動認識プロセスを後押しする可能性がある。

岐阜県 土岐市·廃墟・残骸

東濃朝鮮初中級学校跡

東濃朝鮮初中級学校は1975年、在日コリアンの子どもたちに民族教育を行う場として岐阜県土岐市に開校した。初級部・中級部・幼稚班を備え、多い時期には約100人が通ったとされる。しかし少子化や通学区域の変化により生徒数は減少し、1997年に中級部が、1998年には初級部が愛知県の東春朝鮮初中級学校へ統合される形で閉校した。以来、丘の上に建つ独特な外観の鉄筋校舎はそのまま残され、廃墟として知られるようになった。 インターネット上では、閉校後の校内で足音や笑い声が聞こえた、誰もいない教室や廊下から人の声がしたといった体験が複数のサイトで紹介されている。音楽室付近から歌のような声が聞こえたという報告や、探索者の一人が韓国語に似た言葉を発したという話も見られる。一方で、調査を行った側からは音楽室から漏れた音が校舎内で反響して聞こえた可能性も指摘されており、現象の解釈は一様ではない。廃墟としての外観の完成度が高く、心霊雑誌や動画配信で繰り返し紹介されてきたことも、噂の広がりに影響したとみられる。

木曽川渡し場の夜泣き岩
岐阜県 坂祝町·山道・峠

木曽川渡し場の夜泣き岩

坂祝町と可児市の境、木曽川沿いのこの淵は、江戸時代に中山道が木曽川を渡る最初の地点として栄えた「今渡の渡し場」の跡地である。木曽川の渡しは碓氷峠・木曽の桟と並んで中山道三大難所の一つに数えられる難所として知られた。渡し船は明治期にワイヤーで川を渡る岡田式渡船に代わり、1926年末に太田橋が完成、翌1927年の渡橋式をもって渡船の運航は終わった。この渡し場跡の淵にそびえる岩には、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の妻がここに身を投げたという伝承が伝わり、「夜泣き岩」と呼ばれている。現在は2007年から木曽川渡し場遊歩道として整備が進み、夜泣き岩のほか化石林や番所跡なども残る散策路になっている。

愛岐トンネル群 13号トンネル(池田町屋第一隧道)
岐阜県 多治見市·隧道・トンネル

愛岐トンネル群 13号トンネル(池田町屋第一隧道)

愛岐トンネル群は、愛知県春日井市と岐阜県多治見市を結んでいた旧国鉄中央線の廃線跡に残るレンガ造トンネル群である。1900年(明治33年)に開通し、複線電化による新線への切替に伴い1966年(昭和41年)に廃線となった。多治見市側に位置する13号トンネル(池田町屋第一隧道)は全長262メートルで、建設工事は難工事として知られ、路線全体では20名以上の作業員が工事中の事故で亡くなったと伝わる。現在は封鎖されており、内部に立ち入ることはできない。 このトンネルには、工事で亡くなった作業員の霊が出るとする噂に加え、身を投げた者の霊を見ると帰り道に事故に遭うという話が伝わっている。かつて走っていた蒸気機関車や電車の走行音が聞こえるとの報告もある。また、精神を病んだ女性がマスク姿で子供たちを驚かせた出来事が、全国的な都市伝説「口裂け女」の発祥の一説につながったともされており(発祥地には他県の異説もある)、単なる廃トンネルとしてだけでなく心霊の噂を伴う場所として知られている。

白川郷合掌造り集落
岐阜県 大野郡白川村·水辺

白川郷合掌造り集落

白川村の合掌造り集落は、1995年に世界遺産登録された日本屈指の文化景観である。豪雪地帯の急斜面に密集した家々は、雪の荷重を支えるため屋根が高く急勾配に組まれた特異な建築で、数世紀にわたる集団の知恵の結晶だ。現在も多くの住民が生活を営んでいる。 この集落が心霊スポットとして名前が挙がるのは、特有の静寂と、夜間の景観がもたらす視覚的な曖昧性からだと考えられる。投稿では、夜間に展望台から集落を見下ろした際、ライトアップされた合掌造りの灯りの中に人影のようなものが見え、近づくと不明だったという報告がある。同じく訪問者は独特の静けさと夜の雰囲気に「怖さ」を感じながらも、撮影による異常や明確な現象は記録されなかったと述べている。 古い集落では、建築の年代、照明の角度、訪問者の心理状態が複合して、曖昧な知覚が生じやすい。白川郷の場合、ライトアップという現代的な照明と、農村部の暗さという環境コントラストが、「人がいるようで、いない」というあいまいな視覚体験を生みやすい構造を持っている。 白川郷は世界遺産であり、現住民の暮らしの場である。探索目的の訪問や無断での夜間散策は、住民の生活に対する侵害となる。訪れる際は観光案内所の指示に従い、日中の公開コースの範囲内で、敬意を持って鑑賞することが求められる。

岐阜県 岐阜市·橋・高架

千鳥橋

千鳥橋は、岐阜市内で長良川を渡る市道の橋である。1969年(昭和44年)に歩行者専用として完成し、1988年(昭和63年)には上流側に自動車専用の橋が並んで架けられた。橋の名称は、1963年(昭和38年)の新年歌会における御製にちなんで、当時の市長が名付けたとされる。橋の南岸一帯は岩場に水流がぶつかって渦を生じる深い淵となっており、地元では古くからこの場所を「左巻き」と呼んで水泳を避けてきたという。夏には川遊びや釣りに訪れる人がいる一方で、この淵に入り込んで流れに巻かれると浮き上がれないと言い伝えられ、実際に長年にわたって水難死亡事故が繰り返されてきた場所として知られている。こうした背景から、橋周辺では水没したまま見つからなかった人や、事故で亡くなった人の霊が現れるという噂が語られるようになった。橋のたもとには献花が絶えないとも言われ、事故の多さを伝える光景として紹介されることが多い。心霊スポットとして紹介される記事では、溺死したとみられる男性の霊の目撃談が語られることが多いが、具体的な年代や個人を特定できる記録は確認されていない。

岐阜城跡
岐阜県 岐阜市·公園・城址

岐阜城跡

岐阜城は岐阜県岐阜市の金華山山頂に立つ城郭で、戦国期の日本において重要な軍事・政治拠点として機能した。元々は稲葉山城と呼ばれ、1539年頃から斎藤道三によって整備された。1567年、織田信長が斎藤龍興から城を奪取し、本拠地をここに移した。信長は城と城下町の名を「岐阜」と改め、古代中国の故事に倣って天下統一への志を示した。 金華山の山城は長良川を見下ろす要害の地として、幾度も合戦の舞台となった。1600年の関ケ原の戦いの前哨戦では、織田秀信(信長の孫)が西軍に与して東軍の攻撃を受け、城は落城した。信長の時代には楽市楽座などの革新的施策により城下町が繁栄し、長良川沿いに材木や奥美濃の和紙などを扱う問屋街が形成された。 現在、岐阜城跡は国史跡に指定されており、山頂には1956年に再建された鉄筋コンクリートの復興天守がそびえ、城内は史料展示室と展望台として機能している。山麓の岐阜公園では継続的な発掘調査が進められており、信長の居館跡や庭園遺構が確認されている。令和7年から耐震改修工事が予定されている。

岐阜城(信長公廟)裏山
岐阜県 岐阜市·宿泊・居住跡

岐阜城(信長公廟)裏山

岐阜県岐阜市の金華山頂に立つ岐阜城は、戦国期に織田信長が活動した地として知られ、現在は観光スポットとして整備されている。山の裏手に広がる登山道は、木立の間から夜景が見え隠れする地形にある。 金華山は織田信長が1567年に稲葉山城を攻略した際の戦の舞台となったほか、関ヶ原の合戦でも戦場となって複数回落城した経緯があり、こうした古戦場としての歴史が武者の霊が現れるという噂の背景になっているとされる。ネット上のまとめでは、山頂の展望台付近やかつての自動車専用道路(ドライブウェイ)で白い服の女性の霊を見たという声も紹介されているが、地元紙の記事を調べた検証記事では、山中で発見された遺体のうち自殺と記録されたものは男性のみで、女性の自殺を裏付ける記録は確認できないとも指摘されている。ドライブウェイは走行マナーの悪化を背景に、現在は夜間通行止めとなっている。 このエリアについてユーザー投稿では、スマートフォンのカメラが勝手に起動して撮影が続く現象が報告されており、撮影された画像が暗く映ることが多いという。別の投稿では、かつてこの地に住んでいた人が成人後に訪れた際に、子供時代の記憶が突然蘇る感覚を体験したと述べられている。 金華山は急峻で、夜間は道が見えづらい。訪れる場合は日中の利用を基本とし、ロープウェイなど整備されたルートを推奨する。

鶯谷トンネル
岐阜県 岐阜市·隧道・トンネル

鶯谷トンネル

岐阜市中心部と東部を結ぶ鶯谷トンネルは、金華山南西の瑞龍寺山(通称・水道山)を貫く道路トンネルである。1918年に構想されたが一度は予算から外れ、太平洋戦争末期の1945年1月、防空疎開道路として岐阜市土木部により着工された。工事中は防空壕としても使われ、空襲による被害者が出たとされる。1947年8月に開通し、延長646mは当時の岐阜県内で最長の道路トンネルであった。1972年には並行して新トンネルの工事が始まり、同年12月に開通、翌1973年に完成した。現在は旧トンネルが下り専用、新トンネルが上り専用として使われている。トンネル入口付近には小さな祠があり、戦争で亡くなった人々を慰霊するものと伝えられている。こうした歴史を背景に、走行中のルームミラーに白い服の女性の顔が映り込む、壁や天井に人の顔に似た影が浮かぶ、うめき声が聞こえるといった話が伝えられてきた。さらに1970年代末に全国へ広まった「口裂け女」の都市伝説について、防空壕内で爆風により顔に損傷を負った遺体が多く見つかったことが原型になったとする説があり、発祥地の一つとして紹介されることがある。

恵那峡
岐阜県 恵那市·山道・峠

恵那峡

岐阜県恵那市の恵那峡は、木曽川が形成した渓谷である。大正期に電力王・福沢桃介により大井ダムが建設され、1924年に完成した。ダム完成により人造湖が形成され、地理学者・志賀重昂により「恵那峡」と名付けられた。この地は急速に観光地化され、現在では岐阜県の主要な景勝地となっている。 ダム建設に伴い、谷沿いの集落が水没した。この水没地域の記憶は地域に深く根ざしており、現在も慰霊碑などの形で遺されている。ネット上では、夜間に湖面で通常では見られない光や音が観察されたという投稿が存在し、水没した家屋や集落への思いが超自然的な現象として語られている傾向が見られる。 恵那峡は観光地として整備されており、日中の遊覧船利用が一般的である。湖岸部への夜間訪問時には転落の危険があり、安全を優先すべき場所である。

恵那山旧道廃トンネル
岐阜県 恵那市·隧道・トンネル

恵那山旧道廃トンネル

岐阜県恵那市の恵那山麓に位置する旧道のトンネルは、かつて山越えの主要ルートとして機能していた。新道の開通により役目を終え、現在は入口が塞がれたままとなっている。トンネル周辺は針葉樹林に覆われ、採光に乏しい環境にある。 恵那山周辺の交通路は古くから利用されており、神坂峠は東山道の一部として機能していた歴史がある。昭和期には恵那市内の道路網が段階的に整備され、1975年には中央自動車道の恵那山トンネルが開通し、恵那山を越える交通の主流が高規格道へ移行した。旧道は段階的に利用が減少し、廃止されるに至ったと考えられる。 坑口周辺は地質的に不安定であり、落石や崩落の危険がある。また冬季には凍結による危険も生じる。廃トンネルへの立ち入りは法的・物理的リスクが高く、訪問者の安全確保のため入口は封鎖措置が施されている。

旧岐阜廃炭鉱施設群
岐阜県 恵那市·宿泊・居住跡

旧岐阜廃炭鉱施設群

岐阜県恵那市の山間に残る旧廃炭鉱施設群は、昭和期を中心に稼行された炭鉱の遺構である。恵那市周辺では複数の亜炭鉱山が記録されており、選鉱場跡や鉱夫住宅の基礎、錆びた採掘機器などが広範囲に散在している。地下採掘による労働の過程で事故が起きた可能性は歴史的に高いが、当該施設群の具体的な被害者数や事故記録についての公開情報は限定的である。現在、廃坑は崩落や有毒ガス滞留の危険が極めて高く、立ち入りは禁止されている。

千本松原(油島千本松締切堤)
岐阜県 海津市·山道・峠

千本松原(油島千本松締切堤)

千本松原は、岐阜県海津市海津町油島の木曽三川分流点に築かれた油島締切堤の上に広がる松並木で、堤防沿いに約1000本の松が植えられている。江戸幕府が宝暦3年(1753年)に薩摩藩へ治水工事を命じ、翌年(宝暦4年)から行われた工事の現場であり、多額の費用負担と過酷な労働、伝染病の流行によって藩士に多数の死者が出た。工事総奉行の平田靱負をはじめ、抗議のために自ら命を絶った者は52名、病に倒れた者は33名にのぼったと伝わり、その事績は隣接する治水神社に祀られている。こうした殉職の歴史を背景に、この松並木は心霊現象が起こる場所として知られている。訪れた人が武士のような人影を目にした、体調を崩したり高熱に見舞われたという報告や、帰路で事故に遭ったという話も伝えられている。中には強い自殺願望を覚えたとする体験談も見られ、切腹という壮絶な最期を遂げた藩士たちの無念が今なお残っているためではないかとされている。

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