愛媛県の心霊スポットランキング・一覧

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三千年の湯けむり立ちのぼる道後温泉を擁する愛媛は、伊予水軍と松山藩の歴史が交差する瀬戸内の要衝である。夏目漱石も浸かった日本最古の湯・道後温泉旧館、加藤嘉明築城の松山城、白壁と蝋燭文化が残る内子の町並み——古い湯宿や城郭の闇には、湯治客や落城武者の気配が今もまとわりつき、伊予路の夜霧とともに静かに浮かびあがってくる。

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旧内子フレッシュパークからり
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旧内子フレッシュパークからり

内子町·136 views
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祟られる一軒家
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祟られる一軒家

松山市·101 views
松山城
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松山城

松山市·82 views
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今治市廃造船所跡

今治市の造船業は波止浜湾での船舶修繕から発展した産業遺産である。来島海峡の急潮を航行する船舶が潮待ちで立ち寄り、その間の船舶修理が修繕技術の蓄積へと結実した。1901年の檜垣造船所創業に始まり、1940年代に複数の造船所が統合、今治造船株式会社へと成長した。太平洋戦争中の操業停止を経て、1955年に再スタート。戦後の海運需要拡大に応じて、波止浜地区では金属加工音と溶接作業が日常的に響き渡る産業現場となった。1960年代から1970年代の高度成長期には「20日で1隻建造」のペースで船舶を量産し、やがて「瀬戸の4強」と呼ばれる競争力を持つに至った。現在も多くの造船施設が稼働する一方で、廃止・遺棄された造船所跡も市内各地に残存している。 ただし、当該廃止施設及び周辺地域は私有・管理区域であり、足場の不安定性、残置物、および有害物質が存在する。無断立ち入りは重大な人身事故および法的責任を招くため厳に控えること。

今治市·70 views
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宇和島市廃城下町旧牢獄跡

愛媛県宇和島市は、1615年に伊達秀宗が入城して以来、9代250年以上にわたって西国の伊達家が統治した城下町である。城は海岸と川の防御機能を備えた水城で、城山と麓の町が一体機能する構造を持つ。江戸時代の城下町では、刑罰と司法が領主権の重要な機能として位置付けられており、宇和島城下にもこうした刑罰施設が設けられていた。旧牢獄跡はこの城下町の行政区画の一部として存在し、罪人の収容と処遇を担う施設であった。 明治の廃藩置県により藩政体制が廃止されると、こうした刑罰施設は次々と解体され、跡地は徐々に住宅地や緑地へと転換していった。現在、当地では古い石垣の一部が残存し、古地図において当時の区画が確認できる。城下町の長い歴史のなかで、無名の囚人たちが過ごした痕跡は、地理的・建築的な遺構として、後世の探究の対象となっている。

宇和島市·60 views
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瀬戸内海・来島海峡

愛媛県今治市と大島の間の来島海峡は、瀬戸内海でも有数の急潮流を抱える難所である。一に来島、二に鳴門、三とさがって馬関瀬戸──かつての航海者たちにそう謳われた海峡で、潮流は時に秒速5メートルを超え、渦潮や湧潮が発生する。古来より多くの船舶がこの海域で遭難してきた。 14世紀中頃から戦国時代にかけて、瀬戸内海を支配した村上水軍のうち、来島村上氏がこの海峡を本拠として拠城を構えた。激流に守られた天然の要塞であり、彼らは平時には水先案内と海上警固の任にあたり、複雑な潮流を読む知識と技術で知られていた。江戸期以降、近代の来島海峡では一日千隻を超える船舶が行き交うようになり、1994年から2003年の間だけで百トン以上の船舶の座礁が20件以上記録されている。1998年の交通管制センター設置後、事故は大幅に減少した。現在、来島海峡大橋は三連吊橋として世界的に知られ、橋上からは激流と多島の景観が望める。

今治市·60 views
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古城の丘

愛媛県今治市の唐子山(からこやま)山頂に残る古い城跡。標高105メートルの小高い丘で、戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史を秘めた場所である。この山頂には国分山城が築かれ、かつて伊予国の支配拠点として機能していた。16世紀末の豊臣秀吉による四国征伐では、小早川隆景の軍勢による砲撃に城主が抵抗せず降伏した。その後、福島正則、池田秀氏、小川祐忠といった武将が城主として統治に当たったが、1600年の関ヶ原の戦いで功績を立てた藤堂高虎が二十万石に加増され、より海運統制に適した位置に新しい今治城を築造したため、この山城は廃城となった。現在、山上には石垣や土塁の跡が残り、連なる代々の今治藩主の墓所が山麓に位置している。古い時代に権力が集中していた場所が次の時代に放棄される際、そこに納められた期待や思いが留まるものなのか、訪問者の中には夜間の山道で落ち着かぬ感覚を覚える者も多い。山頂からは瀬戸内海が見渡せ、かつての統治者たちが眺めたであろう景色が今も変わらず広がっている。

今治市·59 views
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鬼ヶ城跡

愛媛県宇和島市の東に位置する標高1,151メートルの鬼ヶ城山は、四国山地の南端に聳える独特の地理を持つ山である。山名の由来は複数説が存在し、「鬼が棲むほどに深い森に覆われている」との形容による名付けと、宇和島地方の祭礼で用いられる「牛鬼」という山車の姿に似ていることに由来するという説がある。17世紀には宇和島藩と吉田藩の領界を巡る紛争の対象となり、1665年に幕府から「北は鬼ヶ城峯を東西の境」とする判定が下されている。 「城跡」との呼称を持つが、具体的な中世山城の遺構や防御施設、曲輪などの詳細な構造について史料に記録された痕跡は明らかでない。山頂付近は広葉樹林に覆われ、冬季には樹氷が形成される景観で知られ、宇和海やリアス式海岸の眺望を得られるため、登山者には景観地として親しまれている。深い森と複雑な地形は、光の乏しさと音響の複雑さをもたらす空間的特性を備えている。

宇和島市·59 views
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別子銅山跡地

愛媛県新居浜市の山間部に位置する別子銅山は、1691年の開坑から1973年の閉山まで283年間にわたり、住友家の統一経営下で稼働し続けた国内有数の銅山である。江戸期には常時3,000人が、最盛期には旧別子地域で約12,000人、東平地域で約5,000人が坑道の採掘と製錬に従事する山岳都市を形成していた。 総産銅量は約65万トンで、国内第2位の規模を誇った。坑道は全長700キロメートルに及び、採掘地点は標高1,200メートルから海抜1,000メートル下まで掘り進められた。閉山時点で鉱石の品位低下と採算悪化、および深部採掘に伴う地熱上昇・地圧増大による坑道崩落が相次ぎ、操業継続が困難になった。 現在、東平地区は「東洋のマチュピチュ」と呼ばれる石垣と遺構が山腹に点在する近代産業遺産として整備・保存されており、旧別子は緑の森に返されている。明治以降の産業化と、江戸期からの労働集約型鉱山経営の歴史は、現存する建築遺構と産業施設の跡に記録されている。

新居浜市·58 views
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道後温泉旧館

愛媛県松山市道後湯之町、四国を代表する温泉地・道後温泉の中心に立つ木造三層楼の建物が、道後温泉本館である。「日本最古の湯」と呼ばれる道後温泉の象徴で、1894年(明治27年)4月10日に竣工した。設計は地元出身の建築家・坂本又八郎、棟梁は富田豊吉。建築費は当時の松山市予算の3分の1にあたる13万5千円が投じられた。 建物の構造は、純和風の入母屋造、屋根に振鷺閣(しんろかく)を頂く独特の意匠を持つ。神の湯本館、神の湯新館、又新殿(ゆうしんでん、皇室専用浴室)、霊の湯(たまのゆ)など、複数の浴室が一棟に集約された複合的な構成である。明治期の公共浴場建築の最高峰として、現在も完全な形で保存されている。 1994年(平成6年)、建築100年を機に国の重要文化財に指定された。指定理由には、現役で使用される公共浴場建築としては希少なこと、明治期の地方公共建築の意匠的・技術的水準の高さなどが挙げられている。 夏目漱石は1895年(明治28年)から1年余、松山中学校の英語教師として赴任していた。在任中、道後温泉本館を頻繁に訪れたことが本人の書簡や日記に記録されている。1906年(明治39年)刊行の小説『坊っちゃん』に登場する「住田の温泉」のモデルとして、道後温泉が描かれた。漱石の文学世界とつながる場所として、本館3階の「坊っちゃんの間」は現在も公開されており、漱石ゆかりの調度品が展示されている。 2019年(平成31年)から2024年(令和6年)にかけて、保存修理工事と耐震補強工事が段階的に実施された。営業を継続しながらの大規模修理という難工事で、文化財建造物の現状保存と現代の安全基準の両立を模索する事例となった。

松山市·49 views

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古城の丘
愛媛県 今治市·山道・峠

古城の丘

愛媛県今治市の唐子山(からこやま)山頂に残る古い城跡。標高105メートルの小高い丘で、戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史を秘めた場所である。この山頂には国分山城が築かれ、かつて伊予国の支配拠点として機能していた。16世紀末の豊臣秀吉による四国征伐では、小早川隆景の軍勢による砲撃に城主が抵抗せず降伏した。その後、福島正則、池田秀氏、小川祐忠といった武将が城主として統治に当たったが、1600年の関ヶ原の戦いで功績を立てた藤堂高虎が二十万石に加増され、より海運統制に適した位置に新しい今治城を築造したため、この山城は廃城となった。現在、山上には石垣や土塁の跡が残り、連なる代々の今治藩主の墓所が山麓に位置している。古い時代に権力が集中していた場所が次の時代に放棄される際、そこに納められた期待や思いが留まるものなのか、訪問者の中には夜間の山道で落ち着かぬ感覚を覚える者も多い。山頂からは瀬戸内海が見渡せ、かつての統治者たちが眺めたであろう景色が今も変わらず広がっている。

今治市廃造船所跡
愛媛県 今治市·廃墟・残骸

今治市廃造船所跡

今治市の造船業は波止浜湾での船舶修繕から発展した産業遺産である。来島海峡の急潮を航行する船舶が潮待ちで立ち寄り、その間の船舶修理が修繕技術の蓄積へと結実した。1901年の檜垣造船所創業に始まり、1940年代に複数の造船所が統合、今治造船株式会社へと成長した。太平洋戦争中の操業停止を経て、1955年に再スタート。戦後の海運需要拡大に応じて、波止浜地区では金属加工音と溶接作業が日常的に響き渡る産業現場となった。1960年代から1970年代の高度成長期には「20日で1隻建造」のペースで船舶を量産し、やがて「瀬戸の4強」と呼ばれる競争力を持つに至った。現在も多くの造船施設が稼働する一方で、廃止・遺棄された造船所跡も市内各地に残存している。 ただし、当該廃止施設及び周辺地域は私有・管理区域であり、足場の不安定性、残置物、および有害物質が存在する。無断立ち入りは重大な人身事故および法的責任を招くため厳に控えること。

瀬戸内海・来島海峡
愛媛県 今治市·山道・峠

瀬戸内海・来島海峡

愛媛県今治市と大島の間の来島海峡は、瀬戸内海でも有数の急潮流を抱える難所である。一に来島、二に鳴門、三とさがって馬関瀬戸──かつての航海者たちにそう謳われた海峡で、潮流は時に秒速5メートルを超え、渦潮や湧潮が発生する。古来より多くの船舶がこの海域で遭難してきた。 14世紀中頃から戦国時代にかけて、瀬戸内海を支配した村上水軍のうち、来島村上氏がこの海峡を本拠として拠城を構えた。激流に守られた天然の要塞であり、彼らは平時には水先案内と海上警固の任にあたり、複雑な潮流を読む知識と技術で知られていた。江戸期以降、近代の来島海峡では一日千隻を超える船舶が行き交うようになり、1994年から2003年の間だけで百トン以上の船舶の座礁が20件以上記録されている。1998年の交通管制センター設置後、事故は大幅に減少した。現在、来島海峡大橋は三連吊橋として世界的に知られ、橋上からは激流と多島の景観が望める。

大谷池
愛媛県 伊予市·水辺

大谷池

大谷池は愛媛県伊予市南伊予に広がる愛媛県最大級のため池で、貯水量は約176万立方メートルに及ぶ。旧南伊予村は大正期から昭和初期にかけて旱魃と水害を繰り返し受け、当時の村長が私財を投じて池の築造に着手した。工事は室戸台風による基礎の崩壊や岩盤の脆さによる漏水対策の難航に見舞われ、戦時下の資金不足も重なって県営事業へ移行し、延べ37万人を超える住民の人力作業を経て1942年に完成した。 この難工事の記憶を背景に、池の完成には多くの人柱が捧げられたという伝承が広まっている。特に「工事を進めるため100人の女性が人柱として沈められた」という話が知られるが、記録に残る工事中の死者は数名程度とされ、池のほとりに立つ百体地蔵は工事の犠牲者や水子を供養するために建てられたものと考えられている。人柱の伝承は、村長が自身の写真を人柱代わりに埋めたという逸話と、この地蔵群の存在が結びついて形成されたとの指摘もある。 心霊スポットとしては、水面を白い着物姿の女性の霊が見つめている、夜に女性の悲鳴のような声が響く、水面から幾つもの白い手が伸びてくるといった噂が伝えられている。堤防の決壊で多数の犠牲者が出たとする話も流布しているが、実際の被害規模は資料により大きく異なる。

愛媛県 伊予市·山道・峠

犬寄峠

愛媛県伊予市の犬寄峠は、松山と大洲を結ぶ旧大洲街道の難所として江戸時代から知られ、標高306メートル付近を国道56号が通っている。峠の名は、かつて多数の山犬が旅人を襲ったとの伝承に由来するとされ、大洲藩の飛脚が深夜にこの峠で山犬の群れに襲われた際、松の大木に登って身を隠し、刀に施された鶏の細工から鳴き声のような音が響いたため、山犬たちが夜明けと勘違いして逃げ去ったという由来譚が伝わる。行き倒れた旅人の遺体が野犬に襲われたという話も残る。1970年に国道56号の犬寄トンネル(全長738メートル)が開通し、峠越えの難所は大きく解消されたが、旧道や新道沿いでは急カーブが続くため交通事故が絶えなかったとされる。この付近では、トンネル内をさまよう交通事故死者の霊や、壁に浮かび上がる顔のような模様が目撃されるという噂が複数の資料で伝えられている。トンネル内では誰なのか見分けがつかない人の姿が現れ、そばへ寄ると形がかすんでやがて見えなくなるという体験談も伝わっている。近くの電話ボックスには白い服を着た女性の霊が現れ、目が合うと消えるという話も広まっている。さらに、深夜に峠を通ると路上に女性が立っている、あるいは遠吠えのような音が響くといった噂も聞かれる。ネット上の心霊スポット紹介サイトや投稿サイトでは、こうした噂が繰り返し取り上げられ、事故死者の霊や山犬伝説と結び付けて語られる傾向がある。

旧内子フレッシュパークからり
愛媛県 内子町·商業・遊興跡

旧内子フレッシュパークからり

内子町の国道379号沿いに立地する「からり」は、1992年の観光農業振興構想から始まった施設である。1994年の「内の子市場」という産直実験施設を経て、1996年5月に特産物直売所・情報センターとしてオープン。同年8月に全国11番目の道の駅として登録された。 施設は町内農家による直売所、からり工房(アイス・シャーベット製造)、パン工房、レストランといった複数棟で構成される。2019年4月には直売所の大規模リニューアルが実施され、現在も地元産農産物の販売拠点として機能している。2015年には国土交通省より全国モデル道の駅の一つに選定された。 スポット周辺は河川に恵まれ、かつて観光農業の先進地としての期待が込められた場所である。施設敷地の隣接地には川が流れ、かつてはキャンプ地としても利用されてきた。建物の一部は改装と廃棄を繰り返してきた履歴があり、構想から実現までの試行錯誤の過程を物理的に示している。

篠山(篠山神社)
愛媛県 南宇和郡愛南町·神域・霊場

篠山(篠山神社)

愛媛県愛南町と高知県宿毛市の境にそびえる篠山(標高1065メートル)は、飛鳥時代の用明天皇の頃、蕨岡家の庭先の樟に熊野権現が飛来して光を放ったのを機に山頂へ祀ったとの伝承を持つ山岳信仰の地である。江戸期には「お篠参り」と呼ばれる参詣が盛んになり、山頂の観世音寺は四国八十八箇所の番外札所としても位置づけられてきた(同寺は明治の神仏分離により廃寺となった)。山中には天狗にまつわる話が伝わる。弓の名手・助之丞が篠山に住む天狗の翼を射落としたところ、天狗はこれを恨まず、蕨岡家を永代にわたり盗難から守ると誓ったという。以来同家は戸締りをしなくても被害がなかったと伝えられる。この話は郷土の昔話集『愛媛のむかし話』にも収録されている。近世には篠山の森林資源をめぐって土佐藩と宇和島藩が対立し、江戸幕府の裁定で1659年に両藩の共有地とされ、1873年には県境の標石が建てられている。山頂の篠山神社は明治以降の社号で、かつては篠山権現と呼ばれた。修験の霊山として僧や参詣者が行き交った歴史を持つ一方、現在は登山者の訪れる山として知られ、山中の空気や社の佇まいに神域らしい静けさを感じるという声も聞かれる。

鬼ヶ城跡
愛媛県 宇和島市·公園・城址

鬼ヶ城跡

愛媛県宇和島市の東に位置する標高1,151メートルの鬼ヶ城山は、四国山地の南端に聳える独特の地理を持つ山である。山名の由来は複数説が存在し、「鬼が棲むほどに深い森に覆われている」との形容による名付けと、宇和島地方の祭礼で用いられる「牛鬼」という山車の姿に似ていることに由来するという説がある。17世紀には宇和島藩と吉田藩の領界を巡る紛争の対象となり、1665年に幕府から「北は鬼ヶ城峯を東西の境」とする判定が下されている。 「城跡」との呼称を持つが、具体的な中世山城の遺構や防御施設、曲輪などの詳細な構造について史料に記録された痕跡は明らかでない。山頂付近は広葉樹林に覆われ、冬季には樹氷が形成される景観で知られ、宇和海やリアス式海岸の眺望を得られるため、登山者には景観地として親しまれている。深い森と複雑な地形は、光の乏しさと音響の複雑さをもたらす空間的特性を備えている。

宇和島市廃城下町旧牢獄跡
愛媛県 宇和島市·公園・城址

宇和島市廃城下町旧牢獄跡

愛媛県宇和島市は、1615年に伊達秀宗が入城して以来、9代250年以上にわたって西国の伊達家が統治した城下町である。城は海岸と川の防御機能を備えた水城で、城山と麓の町が一体機能する構造を持つ。江戸時代の城下町では、刑罰と司法が領主権の重要な機能として位置付けられており、宇和島城下にもこうした刑罰施設が設けられていた。旧牢獄跡はこの城下町の行政区画の一部として存在し、罪人の収容と処遇を担う施設であった。 明治の廃藩置県により藩政体制が廃止されると、こうした刑罰施設は次々と解体され、跡地は徐々に住宅地や緑地へと転換していった。現在、当地では古い石垣の一部が残存し、古地図において当時の区画が確認できる。城下町の長い歴史のなかで、無名の囚人たちが過ごした痕跡は、地理的・建築的な遺構として、後世の探究の対象となっている。

別子銅山跡地
愛媛県 新居浜市·山道・峠

別子銅山跡地

愛媛県新居浜市の山間部に位置する別子銅山は、1691年の開坑から1973年の閉山まで283年間にわたり、住友家の統一経営下で稼働し続けた国内有数の銅山である。江戸期には常時3,000人が、最盛期には旧別子地域で約12,000人、東平地域で約5,000人が坑道の採掘と製錬に従事する山岳都市を形成していた。 総産銅量は約65万トンで、国内第2位の規模を誇った。坑道は全長700キロメートルに及び、採掘地点は標高1,200メートルから海抜1,000メートル下まで掘り進められた。閉山時点で鉱石の品位低下と採算悪化、および深部採掘に伴う地熱上昇・地圧増大による坑道崩落が相次ぎ、操業継続が困難になった。 現在、東平地区は「東洋のマチュピチュ」と呼ばれる石垣と遺構が山腹に点在する近代産業遺産として整備・保存されており、旧別子は緑の森に返されている。明治以降の産業化と、江戸期からの労働集約型鉱山経営の歴史は、現存する建築遺構と産業施設の跡に記録されている。

道後温泉 椿の湯裏手廃旅館
愛媛県 松山市·宿泊・居住跡

道後温泉 椿の湯裏手廃旅館

道後温泉は約3000年の歴史を持つ日本最古級の温泉地で、明治27年の本館建造を機に近代和風建築として知られるようになった。20世紀を通じて旅館街は拡大と繁栄を重ねたが、高度経済成長期後の1988年瀬戸大橋開通がピークとなり、その後宿泊需要は緩やかに減少した。椿の湯は昭和28年の第8回国体開催時に新設され、地元客の利用を中心に続いてきた。本館周辺や沿道にある近代木造旅館建築の中には、営業を終了した後も外観のまま残された物件が存在する。こうした廃旅館は、湯治文化と接客文化が共存した時代の痕跡として、街角に静かに伫立している。老朽化した木造建築への認識の変化と、街並み景観の保全への社会的関心の高まりが、こうした物件の扱いを規定している。ネット上では、廃旅館周辺からかすかな音色や人影の目撃を語る投稿が散在するが、これらはおおむね、近代温泉文化の衰退と空間の経年変化に対する心理的反応として解釈できる。

祟られる一軒家
愛媛県 松山市·宿泊・居住跡

祟られる一軒家

松山市郊外に残る老朽住宅。かつてここに住んでいた家族の不幸が重なったとされ、長期間誰も住まないまま放置されている。建物の老朽化が進み、訪問者の間では家内から木の軋む音や戸を叩くような響きが聞こえたという報告が散見される。窓や雨戸が風のない時に動いたという証言もある。 松山市は江戸時代から続く城下町で、加藤嘉明が1602年に築城を始めた松山城を中心に発展。その後松平氏が藩主を務め、現在も歴史的な街並みが各地に残っている。一方で人口減少に伴う空き家問題が深刻化しており、愛媛県内でも老朽建築物の処理が課題となっている。 この家に関しては具体的な事件や不幸の詳細は記録に残りにくく、主に土地の語り部によって伝承されてきた。地元では、ここに住んでいた家族や、その家を見守ってきた人々への配慮が今も大切にされている。家を「祟り」と一方的に呼ぶ語り方は控えられ、亡くなられた方々を悼み、家を静かに残してきた土地の感覚として捉える向きが強い。 敷地は私有地であり、無断で立ち入れば不法侵入として法的責任が生じる。老朽化した建物は床抜け・倒壊・釘や金属片による負傷の危険が高く、夜間の単独訪問は危険度がさらに上がる。心霊目的の深夜訪問は厳に控え、近隣住民と亡くなられた方々への敬意を欠かさないこと。

三坂峠
愛媛県 松山市·山道・峠

三坂峠

愛媛県松山市と久万高原町の境、標高720mに位置する三坂峠は、江戸時代には松山と高知を結ぶ土佐街道の難所として知られ、道中には行き倒れた遍路の墓が今も点在する。明治期に旧国道として整備された後も急カーブが連続する地形は変わらず、現在の道路やトンネル(三坂隧道)周辺では交通事故がたびたび発生してきた。この事故の多さを背景に、峠を訪れた人々からは車の後部座席に見知らぬ女性が座り笑いかけてくる、事故で亡くなったとみられる人影が道端に立っているといった目撃が複数のサイトで報告されている。昭和末期から平成初期にかけては夜間に走り屋やローリング族が集まる場所としても知られ、その時期の体験談が怪異の噂に重ねられていったとみられる。峠には正岡子規が詩を残し、昭和天皇が植樹式に臨んだ記念碑も建てられており、交通の難所としての歴史と怪異の噂が併存する場所となっている。

松山城
愛媛県 松山市·公園・城址

松山城

松山城は加藤嘉明が慶長7年(1602)に勝山(標高約132m)の山頂に築城を開始し、約25年の歳月をかけて完成させた平山城である。「賤ヶ岳の七本槍」として知られる嘉明は、豊臣・徳川両氏に仕えた経験から、連立式天守と長大な石垣・土塀による難攻不落の城郭を設計した。加藤氏の後、蒲生忠知、松平定行が継ぎ、寛永12年(1635)以後は松平氏(後に久松姓)が14代にわたり統治を続けた。 天守は天明4年(1784)の落雷で焼失したが、安政元年(1854)に再建され、現在も江戸時代の姿を保つ現存十二天守の一つとなっている。再建天守は三重三階地下一階の構造で、新規建築ながら慶長期の建築技法を基調としている。明治維新後の1923年に旧藩主家から松山市に寄贈され、現在は21の文化財指定建造物を含む史跡公園として市民に利用されている。ロープウェイやリフトで本丸へアクセス可能であり、観光拠点としての機能と文化遺産の保護が両立している。

道後温泉旧館
愛媛県 松山市·その他

道後温泉旧館

愛媛県松山市道後湯之町、四国を代表する温泉地・道後温泉の中心に立つ木造三層楼の建物が、道後温泉本館である。「日本最古の湯」と呼ばれる道後温泉の象徴で、1894年(明治27年)4月10日に竣工した。設計は地元出身の建築家・坂本又八郎、棟梁は富田豊吉。建築費は当時の松山市予算の3分の1にあたる13万5千円が投じられた。 建物の構造は、純和風の入母屋造、屋根に振鷺閣(しんろかく)を頂く独特の意匠を持つ。神の湯本館、神の湯新館、又新殿(ゆうしんでん、皇室専用浴室)、霊の湯(たまのゆ)など、複数の浴室が一棟に集約された複合的な構成である。明治期の公共浴場建築の最高峰として、現在も完全な形で保存されている。 1994年(平成6年)、建築100年を機に国の重要文化財に指定された。指定理由には、現役で使用される公共浴場建築としては希少なこと、明治期の地方公共建築の意匠的・技術的水準の高さなどが挙げられている。 夏目漱石は1895年(明治28年)から1年余、松山中学校の英語教師として赴任していた。在任中、道後温泉本館を頻繁に訪れたことが本人の書簡や日記に記録されている。1906年(明治39年)刊行の小説『坊っちゃん』に登場する「住田の温泉」のモデルとして、道後温泉が描かれた。漱石の文学世界とつながる場所として、本館3階の「坊っちゃんの間」は現在も公開されており、漱石ゆかりの調度品が展示されている。 2019年(平成31年)から2024年(令和6年)にかけて、保存修理工事と耐震補強工事が段階的に実施された。営業を継続しながらの大規模修理という難工事で、文化財建造物の現状保存と現代の安全基準の両立を模索する事例となった。

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