千葉県の心霊スポットランキング・一覧

32 スポット10 カテゴリ

房総半島を擁する千葉県は、平将門ゆかりの伝承と江戸の物流を支えた歴史を持つ地である。市川八幡に残る禁足地・八幡の藪知らずでは、足を踏み入れた者は二度と出られぬと江戸期から語られ、水戸光圀が妖異に襲われた伝説、将門の家臣六人が泥人形と化した逸話が伝わる。東京湾と太平洋に挟まれたこの半島の闇は、千年を超えてなお静かに口を閉ざしている。

RANKING

最恐ランキング TOP10

どれだけ調べられているかを示す注目度指標。スポット名で直接検索された回数に近い。

旧習志野陸軍演習場跡地
1

旧習志野陸軍演習場跡地

習志野市·456 views
100%(2)
犬吠埼灯台
2

犬吠埼灯台

銚子市·343 views
50%(2)
おせんころがし
3

おせんころがし

勝浦市·324 views
100%(2)
4

千葉ニュータウン心霊事故現場

千葉ニュータウンは1966年の計画立案から1970年の造成開始を経て、2014年の事業完了まで半世紀近くにわたって開発されてきた大規模計画住宅地である。白井市、船橋市、印西市の3市にまたがり、東西約18km、南北2~3km、総面積約1,930ヘクタールという広大な地域は、首都圏の住宅需要に応えるため整備された。1970年代以降の急速な都市化に伴い、主要幹線道路の整備も進められたが、同時に交通量の増加と事故のリスクも高まった。特に複数の主要幹線が交差する地点では、夜間に走行する車の運転者から「フロントガラスに映る人影」「雨の後の路面反射で見える影」といった目撃情報が寄せられている。交通事故の増加に伴い、地域コミュニティ内では速度抑制と安全運転の必要性を強調する語り継ぎが定着し、ネット上ではこれらの現象を心霊現象として解釈する投稿も見られるようになった。ただし、ニュータウンの計画的な街づくりと現代的な交通インフラの中で、具体的な死傷事故や歴史的背景はあいまいなまま、口コミを通じて「夜間走行時の違和感」が心霊スポットの評判として流通している状況がある。

習志野市·286 views
5

旧佐倉藩江原刑場跡

佐倉城の西方、かつて「八町森」と呼ばれた場所に所在した江戸時代の処刑地。佐倉藩の公開処刑が行われ、高位の武士から平民まで斬首刑に処せられた。1796年(寛政8年)、法華宗の信仰者たちが「南無妙法蓮華経」を刻んだ供養塔を建立して、多くの亡き者を弔った。 この地の歴史が人々に記憶される所以は、単なる処刑場という性質ではなく、日本の医学史に占める独特な役割にある。1843年(天保14年)、佐倉藩医の鏑木仙安は友人の小柴百之と広瀬元恭とともに、死刑囚の遺体を使用した腑分け(人体解剖)を実施した。これは全国で11番目、そして佐倉藩として初の公式な医学的解剖であり、蘭学の影響を受けた医学研究がいかに地方まで波及していたかを物語る事例である。成田道に面した街道筋から外れた位置に設置されたのは、当時の処刑が儀式的な公開性と同時に、町域から隔絶した空間設計の原理を示唆している。 現在、この地は江原台一号公園として整備され、供養塔と月待塔が残存する。ネット上では夜間に足音や低い呻き声が聞こえる、季節を問わず異常な寒冷感に包まれるといった報告がみられるが、これらは刑場特有の歴史的背景への想像力が生む反応と考えられる。周囲の暗い林相は物理的な環境要因として、訪問者の心理的な警戒を自然と高めるものとなっている。

佐倉市·255 views·
0%(1)
6

八幡の藪知らず

市川市八幡の国道14号線沿いに、わずか20メートル程の竹藪がひっそり存在する。江戸時代から記録された「八幡の藪知らず」は、「足を踏み入れると二度と出られなくなる」という禁足地の伝承として、と伝えられてきた。 この伝説の起源は、超自然的な呪いというより、むしろ土地利用の歴史に根ざしている可能性が高い。藪知らずは元来、行徳の入会地(共同で所有・利用される山林)であり、八幡住民の立ち入りが明確に禁止されていた。その制限が時を経て、「八幡住民が知るべからざる領域」という意味の禁忌へと変容し、やがて超自然的な怖れの物語として定着したと考えられる。 江戸時代には、より劇的な伝承が構築される。平将門の鎮魂に関わる呪術的な禁地として、あるいは徳川光圀すら迷い込んだという逸話が生まれ、木版画によって広く流布した。18世紀の複数の文献に既に記載され、広辞苑にも掲載されるほど、日本語文化に組み込まれた「迷路から抜け出せない状況」の象徴となった。江戸川乱歩や夏目漱石らが小説で比喩に用いたのも、この広がりを示している。 現在の藪は柵で囲まれ、小さな祠が外側に祀られている。実際に足を踏み入れることは不可能であり、伝説は都市に埋め込まれた歴史の層として存在し続けている。

市川市·240 views·
33%(3)
7

油井グランドホテル(通称・ホテル活魚)

千葉県東金市油井の丘陵沿いに残る大型廃ホテルで、正式には油井グランドホテルと呼ばれる。1970年代に宿泊施設として開業したのち、いけす料理を掲げる割烹に改装され、その際に掲げられた「活魚」の看板から「ホテル活魚」の通称が広まった。営業を終えたあとは客足の絶えた躯体だけが道沿いに残り、鉄筋やせり出した看板、暗い窓の並ぶ外観が遠目にも目を引く存在となっている。 この場所が関東でも名の知られた心霊の名所として扱われるようになった大きな契機は、2004年に廃墟となっていた館内で起きた殺人事件である。連れ去られた少女がここで殺害され、遺体が館内の冷蔵設備に遺棄されたと報じられ、複数の加害者が実刑判決を受けた。実際に人が命を落とした確認できる廃墟という点が、テレビや心霊系媒体で繰り返し取り上げられる理由となった。 館内では上階から低い物音や気配を感じたという訪問報告が散見されるが、そうした現象そのものを裏づける記録はなく、事件の記憶が建物の暗さと結びついて語られている側面が強い。建物は老朽化が進み、床の抜けや崩落の危険があるため、外観の確認にとどめるのが妥当とされている。

東金市·200 views·
0%(1)
8

心霊スポット大原幽学遺跡

千葉県旭市長部に残る大原幽学遺跡は、江戸時代後期の農学者・大原幽学(1797-1858)の活動拠点となった場所である。幽学は1838年に「先祖株組合」を設立し、これは世界初の農業協同組合とされている。幽学は農民の教育と生活改善を目指し、性学という独自の実践道徳哲学を展開した。しかし幽学の活動は急速に拡大し、農民が領地の枠を超えて集団で労働・学習することは幕府の疑惑を招くこととなった。安政4年(1857)には投獄され100日の禁錮刑に処せられ、翌年3月8日に遺跡近くで生涯を閉じた。遺跡は現在、記念館と公園として整備されており、多くの国指定重要文化財が展示・保管されている。 訪問者の間では、静寂した敷地内で無根拠の重圧感や説明のつかない気配を感じたという報告が存在する。これは空間の歴史的深さと、改革者の志が挫折に終わったという歴史的記憶が、訪問体験に心理的な重層性をもたらす可能性を示唆している。遺跡は史跡として重要な場所であり、訪問時は開園時間内に静かに見学することが望まれる。

旭市·170 views
9

印西市旧刑場跡地

千葉県印西市に現存する旧刑場跡地。周辺は宅地化が進み住宅街となっており、歴史的な建造物が残されている。訪問者からの報告によると、昼間でも建物周辺が不自然に暗く感じられたという観察がある。また夜間に通りかかった際には、明かりがないはずの窓に光が見えたと報告した訪問者もおり、これが見誤りなのか実際の現象なのかについては確たることは述べられていない。 施設周辺は住宅地であり、無理な立ち入りや夜間の訪問を伴う行動は近隣住民の生活を侵害することになる。施設の歴史や周囲の環境への敬意をもって、アクセスは検討いただきたい。

印西市·114 views
10

匝瑳市旧紡績工場跡

千葉県匝瑳市に残る旧紡績工場跡は、北総台地の田園地帯に位置する産業遺構である。明治末期から昭和後期にかけて、日本の綿糸生産を支えた紡績業の一翼を担った施設と考えられる。レンガ造りの煙突と鋸歯状の屋根線は、当時の工業建築の特徴を今に伝える。 この時期、紡績工場は主に農村の若年女性を労働力とした産業だった。大正5年(1916年)の工場法施行以前には、深夜業を含む長時間労働が行われていた。敷地内に残された建造物の規模と構造は、かなりの規模の操業を行っていたことを示唆している。周辺の農村環境と産業施設の対比は、明治以降の日本における急速な産業化を物理的に示す例となっている。

匝瑳市·96 views

すべてのスポット

旧佐倉藩江原刑場跡
千葉県 佐倉市·廃墟・残骸

旧佐倉藩江原刑場跡

佐倉城の西方、かつて「八町森」と呼ばれた場所に所在した江戸時代の処刑地。佐倉藩の公開処刑が行われ、高位の武士から平民まで斬首刑に処せられた。1796年(寛政8年)、法華宗の信仰者たちが「南無妙法蓮華経」を刻んだ供養塔を建立して、多くの亡き者を弔った。 この地の歴史が人々に記憶される所以は、単なる処刑場という性質ではなく、日本の医学史に占める独特な役割にある。1843年(天保14年)、佐倉藩医の鏑木仙安は友人の小柴百之と広瀬元恭とともに、死刑囚の遺体を使用した腑分け(人体解剖)を実施した。これは全国で11番目、そして佐倉藩として初の公式な医学的解剖であり、蘭学の影響を受けた医学研究がいかに地方まで波及していたかを物語る事例である。成田道に面した街道筋から外れた位置に設置されたのは、当時の処刑が儀式的な公開性と同時に、町域から隔絶した空間設計の原理を示唆している。 現在、この地は江原台一号公園として整備され、供養塔と月待塔が残存する。ネット上では夜間に足音や低い呻き声が聞こえる、季節を問わず異常な寒冷感に包まれるといった報告がみられるが、これらは刑場特有の歴史的背景への想像力が生む反応と考えられる。周囲の暗い林相は物理的な環境要因として、訪問者の心理的な警戒を自然と高めるものとなっている。

おせんころがし
千葉県 勝浦市·その他

おせんころがし

千葉県勝浦市から鴨川市にかけての太平洋岸に連なる断崖が「おせんころがし」である。外房の荒波が崖下を洗う景勝地であると同時に、昭和中期まで交通の難所として恐れられた場所でもある。地名の由来には、この地を治めた豪族の娘おせんの伝承がある。父の悪政を悔い改めさせようとした娘が、父の身代わりとなって崖から突き落とされた、あるいは自ら身を投じたと伝えられ、その孝心を悼む供養塔や地蔵が海を望む位置に建てられている。 戦後の一九五一年には、この断崖で母子が崖下へ突き落とされる殺人事件が起きたことも記録に残る。景観の美しさと、身投げの伝説、そして現実の事件という重層した死の記憶が、この海岸線を心霊の場として意識させてきた。崖の付近では女性や子どもの泣くような声が波音に混じって届く、姿の見えない足音が近づいてくる、といった話が伝えられる。強風と潮鳴りが感覚を狂わせやすい地形も、そうした語りを生む背景として挙げられる。訪れる人にとっては、外房の海と、そこで失われた命への弔いとが分かちがたく結びついた場所として受け止められている。

匝瑳市旧紡績工場跡
千葉県 匝瑳市·廃墟・残骸

匝瑳市旧紡績工場跡

千葉県匝瑳市に残る旧紡績工場跡は、北総台地の田園地帯に位置する産業遺構である。明治末期から昭和後期にかけて、日本の綿糸生産を支えた紡績業の一翼を担った施設と考えられる。レンガ造りの煙突と鋸歯状の屋根線は、当時の工業建築の特徴を今に伝える。 この時期、紡績工場は主に農村の若年女性を労働力とした産業だった。大正5年(1916年)の工場法施行以前には、深夜業を含む長時間労働が行われていた。敷地内に残された建造物の規模と構造は、かなりの規模の操業を行っていたことを示唆している。周辺の農村環境と産業施設の対比は、明治以降の日本における急速な産業化を物理的に示す例となっている。

千葉県 千葉市花見川区·橋・高架

弁天橋

千葉市花見川区、花見川に架かる弁天橋は、河川敷を通るサイクリングコースの起点として知られる橋である。1982年6月、新宿歌舞伎町のディスコで知り合った中学生の少女二人が、車で誘われて千葉方面へ向かった末、この付近で一人が殺害される事件が起きたと報じられている。少女は頸部とアキレス腱を切られ、遺体は橋に近い遊歩道沿いで発見されたとされる。もう一人の少女は負傷しながらも生存し、犯人は特定されないまま公訴時効が成立し、事件は未解決のままとなっている。こうした経緯から、弁天橋周辺は千葉県内でも紹介例の多い心霊スポットの一つとなっている。橋の上や河川敷の遊歩道では、足を引きずるような足音や少女の泣き声を聞いたという体験、視界の端に人影が現れたという証言が複数の紹介サイトに見られる。橋自体は赤い鉄骨造りで目立つ構造を持ち、夜間は人通りが少なく暗くなることから、通行時に不安を覚えるという声もある。事件との関連を指摘する紹介のほか、橋周辺には以前から水辺での事故に関する話が伴っていたとする紹介も見られる。

印西市旧刑場跡地
千葉県 印西市·廃墟・残骸

印西市旧刑場跡地

千葉県印西市に現存する旧刑場跡地。周辺は宅地化が進み住宅街となっており、歴史的な建造物が残されている。訪問者からの報告によると、昼間でも建物周辺が不自然に暗く感じられたという観察がある。また夜間に通りかかった際には、明かりがないはずの窓に光が見えたと報告した訪問者もおり、これが見誤りなのか実際の現象なのかについては確たることは述べられていない。 施設周辺は住宅地であり、無理な立ち入りや夜間の訪問を伴う行動は近隣住民の生活を侵害することになる。施設の歴史や周囲の環境への敬意をもって、アクセスは検討いただきたい。

人見神社
千葉県 君津市·神域・霊場

人見神社

人見神社は千葉県君津市人見、東京湾を望む人見山(獅子山)の山頂に鎮座する。社伝では奈良時代以前、孝徳天皇の代に日向国から勧請されたと伝わり、天慶三年(940年)に平忠常が上総国内へ妙見信仰を広めた際、両総六妙見の一社として位置づけられた。治承四年(1180年)には石橋山の戦いに敗れた源頼朝が武運長久を祈願したという記録も残る。社殿までは323段の石段が続き、毎年7月の例大祭では「神馬(おめし)」という神事で馬とともに石段を上る伝統が守られている。 インターネット上の複数の心霊スポット紹介サイトでは、この石段を一人で登る際に背後から足音が聞こえ、振り返ると誰もいないという現象が繰り返し紹介されている。加えて、前方の参道に人影が現れ、近づくとふと視界から消えるという目撃談も複数のサイトで共通して取り上げられている。木々に囲まれた急な石段が夕刻以降に暗さを増すことが、こうした噂の広まりに関わっているとされる。

四街道市旧陸軍演習場跡の森
千葉県 四街道市·宿泊・居住跡

四街道市旧陸軍演習場跡の森

千葉県四街道市に残される雑木林のうち、戦前期に旧日本陸軍の演習地として機能していた一帯が、戦後に宅地化を逃れ自然のまま残されている。下総台地の緩やかな起伏を利用した訓練区域は、兵科別の野外操練や砲撃演習を行うのに適した立地だった。戦中から戦後にかけての時期、この地で訓練を受けた兵士の多くが太平洋戦線へ送られ、帰還しなかった。雑木林内には当時の施設や痕跡がわずかに遺されており、地域の戦争記憶の物理的な媒体となっている。現在この林では、訪問者の間で軍靴の足音や低い号令のような音響が聞こえたという報告が散発的にある。暮れ時の林の暗がりと、戦没者への悼みという背景が重なることで、心理的な現象として感じられやすい環境にある。地域の戦没者慰霊の集いが毎年行われており、この土地は歴史的な追悼の場として機能している。

養老渓谷粟又の滝
千葉県 夷隅郡大多喜町·山道・峠

養老渓谷粟又の滝

千葉県夷隅郡大多喜町を流れる養老川の上流部にある粟又の滝は、房総半島を代表する景勝地である。落差30メートル、流下距離100メートルにわたって、なだらかな岩盤を清流が絹糸のように滑り落ちる光景が特徴で、紅葉の季節には多くの観光客が訪れる。 滝壺周辺および渓流一帯の岩場は地質学的に特徴的である。砂岩と泥岩の地層が交互に積層した地質構造のため、柔らかな砂岩が雨水により易々と浸食され、硬い泥岩は残留する。この差別浸食が滝の独特の形態を生み出す一方で、岩表面は濡れると極めて滑りやすくなる。 水量の増減は季節と降雨に大きく左右される。増水時には流速が急増し、見た目の予測と実際の水流の勢いとが大きく異なることがある。滝壺の水深や下流の瀬の状態も刻々と変わる。水に溺れる事故が過去に記録されており、滝を訪れる者は常に水の力を過小評価しないことが求められる。

千葉県 富津市·隧道・トンネル

観音隧道

千葉県富津市小久保にある観音隧道(観音トンネル)は、昭和33年(1958年)12月ごろに竣工した全長68メートルほどの旧道トンネルである。東京湾を望む高台に建てられた東京湾観音像への参道の一部として掘られたとされ、観音像自体は戦没者慰霊と世界平和への祈念を目的として、材木問屋を営んでいた実業家・宇佐美政衛の発願により建立されたものである。隧道は幅が狭く見通しも悪かったことから交通事故が繰り返し発生し、後年に迂回する新道が整備されると通行は途絶え、両側の坑口は封鎖された。使われなくなったこの隧道については、内部でクラクションを三度鳴らすと人影が現れる、白い服を着た女性の姿が目撃される、車体や窓ガラスに手の跡が浮かぶ、足をつかまれるといった話が各種の記録で伝えられている。事故で亡くなった通行者との関連が語られることもあるが、具体的な被害者名や年代を裏付ける記録は確認できていない。現在も内部への立ち入りができないよう閉鎖措置が取られている。

千葉県 富津市·路上・交差点

切られ踏切

江戸時代、現在の富津市周辺は飯野藩によって治められており、この一帯には藩の処刑場があったと伝えられている。地元では長らくこの場所を「切られ場」と呼んでいたとされ、1915年頃に内房線の鉄道が開通し踏切が設けられた際、その名がそのまま踏切名として採用されたという説が広まっている。ただし、処刑場の存在を裏付ける正式な記録や文書は見つかっておらず、富津市教育委員会の担当者からも刑場があったという情報は得られているものの、それを証明する史料は残っていないという。名前の由来についても、田畑が踏切によって分断されたことに由来するという説や、木更津を舞台にした歌舞伎の演目「切られ与三郎」にちなんで当時の鉄道院担当者がこの名を採用したとする説もあり、一つに定まっていない。この踏切については、処刑された者の霊が今も現れるという噂や、成仏できない霊の目撃が多いとの情報、列車への飛び込みによる事故が起きているとの情報が伝わっている。一方で、自動車に乗ったまま踏切内で電車と衝突したものの、車外に投げ出された乗員が軽傷で済んだという体験がネット上で語られ、霊に守られたのではないかとする声もある。かつては踏切の両側に木々が茂り、日中でも薄暗い雰囲気であったが、2013年頃に周辺へ太陽光発電施設が設置されたことで見通しが良くなり、以前より開放的な景観に変わっている。

鋸山
千葉県 富津市·山道・峠

鋸山

鋸山は千葉県富津市と安房郡鋸南町の境にまたがる標高329.5メートルの山で、凝灰質砂岩が露出した稜線が鋸の歯のように見えることが名の由来とされる。江戸期から「房州石」の採石が盛んに行われ、加工しやすく火に強いこの石材は横浜港や台場、海堡の礎石など近代化の基礎に用いられたが、コンクリートの普及によって1985年(昭和60年)に採石業は終わりを迎えた。機械化以前は200キロを超える石材を女性が急峻な山道で何度も担ぎ運んだと記録され、過酷な労働の痕跡が石切場跡の断崖に残る。一方、山中には神亀2年(725年)に行基が開いたと伝わる日本寺があり、石切場跡を取り込んだ絶壁の展望台「地獄のぞき」や百尺観音、千五百羅漢像といった信仰の造形が広がる。採石産業と参詣の歴史が同居するこの地について、ネット上では石切場跡や崖にまつわる怪異を語る声も見られるが、具体的な出来事として確認できる記録は乏しい。

弘法寺の涙石
千葉県 市川市·神域・霊場

弘法寺の涙石

弘法寺は千葉県市川市真間にある日蓮宗の寺院で、境内へと続く石段は千個以上の石を敷いて作られている。この石段の下から27段目、向かって左側にある一つの石だけが、晴天が続く日でも常に湿った状態を保っていることから「涙石」と呼ばれ、古くから注目されてきた。伝えられている由来によれば、江戸時代初期、日光東照宮の造営にあたり伊豆から石材を船で運んでいた作事奉行が、市川付近で船が動かなくなったため、その石材を無断でこの寺の石段に用いてしまったという。この不正が幕府に発覚し、当の奉行は責任を問われてこの石段の上で切腹させられたとされる。その際に流れた血と涙がこの一石に染み込み、以来涸れることなく湿り続けているという伝承が残る。一方で、市川市内には湧水地が多く分布しており、地下の水脈がこの石に接していることで常時湿った状態になっているとする見方もある。テレビの特番などで紹介されたこともあり、この伝説を背景に心霊にまつわる噂も付随して語られるようになったとされる。

里見公園
千葉県 市川市·公園・城址

里見公園

里見公園は千葉県市川市国府台の高台に位置し、戦国時代に築かれた国府台城の跡地を整備した市川市立の公園である。1538年と1564年の二度にわたり、後北条氏と里見氏がこの地で激突した国府台合戦の舞台となり、二度目の戦いでは里見軍が総崩れとなり、約5千の兵が命を落としたと伝えられる。園内に置かれた「夜泣き石」は、この戦いで討死した里見広次(里見弘次とも)を弔うために安房から駆けつけた娘が、石にもたれて父の名を呼び続けたまま息絶えたという伝説を持ち、夜になると石の付近で女性の泣き声が聞こえるとする話が伝わっている。また、園を見下ろす江戸川周辺では、長い髪の女性が刃物で殺害され遺体が河川に遺棄されたとする噂も広まり、これが公園内の怪異の由来として結び付けられている。具体的には、深夜に公園内の公衆電話が鳴る、トイレの個室から刃物を研ぐような音が聞こえる、写真に赤い光の玉が写り込むといった現象が繰り返し報告されている。

八幡の藪知らず
千葉県 市川市·水辺

八幡の藪知らず

市川市八幡の国道14号線沿いに、わずか20メートル程の竹藪がひっそり存在する。江戸時代から記録された「八幡の藪知らず」は、「足を踏み入れると二度と出られなくなる」という禁足地の伝承として、と伝えられてきた。 この伝説の起源は、超自然的な呪いというより、むしろ土地利用の歴史に根ざしている可能性が高い。藪知らずは元来、行徳の入会地(共同で所有・利用される山林)であり、八幡住民の立ち入りが明確に禁止されていた。その制限が時を経て、「八幡住民が知るべからざる領域」という意味の禁忌へと変容し、やがて超自然的な怖れの物語として定着したと考えられる。 江戸時代には、より劇的な伝承が構築される。平将門の鎮魂に関わる呪術的な禁地として、あるいは徳川光圀すら迷い込んだという逸話が生まれ、木版画によって広く流布した。18世紀の複数の文献に既に記載され、広辞苑にも掲載されるほど、日本語文化に組み込まれた「迷路から抜け出せない状況」の象徴となった。江戸川乱歩や夏目漱石らが小説で比喩に用いたのも、この広がりを示している。 現在の藪は柵で囲まれ、小さな祠が外側に祀られている。実際に足を踏み入れることは不可能であり、伝説は都市に埋め込まれた歴史の層として存在し続けている。

御宿町火葬場跡
千葉県 御宿町·廃墟・残骸

御宿町火葬場跡

千葉県夷隅郡御宿町の山中、JR外房線御宿駅から入った峠道沿いに、1964年ごろに設置された火葬場の廃墟がある。単炉式の設備で火力が弱く、2007年前後に老朽化を理由に運用を終え、2011年頃には完全に廃墟となったとされる。2016年8月発売のホラーDVD「ほんとにあった!呪いのビデオ69」で取り上げられたことをきっかけに心霊現象の噂が広まったとされる場所である。以降、施設周辺を自転車や車で通過した際に髪の長い女性の姿を見た、あるいは後部座席や荷台に何かが乗り込んだように重くなったという体験談が複数報告されている。深夜に付近を通りかかったタクシー運転手からも、同様に髪の長い女性を目撃したという証言が寄せられているという。写真撮影時には火葬炉の窓ガラスに人影のようなものが写り込むとの声も伝えられ、探索者の記録では白衣姿の男性のように見えたとされる一方、後に火葬場職員を思わせる作業着姿ではないかとの見方も示されている。解体されずに残る煙突や納骨塔の存在が、廃墟としての生々しさを印象づける一因ともみられる。一方で、廃墟専門の調査サイトなどでは怪異の噂を事実無根とする立場も示され、評価は分かれている。現在は敷地への立ち入りを防ぐため有刺鉄線のバリケードと監視カメラが設置され、管理が強化された状態にある。

市区町村から探す